高校ニ年生

国語の教科書

 

 二年生に上がったばかりで季節は春。桜が咲き、落ちる花弁が年度の始まりを告げるこの日、私はいつもの喫茶店にいた。アルバイトの店員としてではなく、久しぶりに客として席に着いているのだ。


 コーヒーを飲みながら適当に小説などを読んでいると心が安らぐ。とても穏やかな気持ちで本のページをめくった時、新たなお客が入ってきた。扉のベルが鳴り、アルバイトのせいか反射的にいらっしゃいませと言ってしまいそうになる。


 思わず扉の方に目を向け、入ってきたお客を見て驚いた。扉の横に立っているのは山本くんだったのだ。

 向こうもこちらに気づいたらしく、店主に会釈をしてから、私のテーブルに近づいてくる。


「桜田さん、今日はお客さんなの?」

「そうだよ、まさか山本くんと会うとは思ってなかったけど」


 山本くんがこの店に来ることは、ごく稀にあるが、そのときはいつも私は店員として彼に接していた。こうして私服で座りながら、彼とこの店で話すのはなんだか変な気分になる。


「座ってもいい?」

「どうぞ」


 二人掛けのテーブルなので、山本くんは空いている向かいの席に座った。店主がお水を持ってきて、山本くんもコーヒーを注文した。


「何読んでるの?」

「国語の教科書」

「……喫茶店でそんなの読んでる人、初めて見たよ」


 珍しいものを見たというような顔の山本くんだった。


「懐かしいでしょ、私達からすれば」

「まあ、確かに」


 新年度になる度に、新しく配られる教科書。折り目のついていない綺麗な本が、一年かけてゆっくりと汚れていく様をもう何度も見てきた。国語の教科書は、とくに面白い内容が入っていたりするので、たまにこうして読み耽ったりする。


「今読んでるのは何?」

「『山月記』」

「懐かしいな、虎になるやつだっけ?」


 山月記、中島敦の名作中の名作。どの国語の教科書にも必ず載っている短編であり、日本人なら大抵一度は読んだことのあるお話だ。国語の教科書のなかで最も記憶に残るものと言っても過言ではない。


「詩人を目指した秀才が転落人生の果てに、発狂して虎になって、旧友と会話するお話」

「ものすごく悲劇的なストーリーだったのは覚えてるよ」


 若くして科挙試験に合格した李徴という、とても秀才な主人公は、しかし、その自尊心の高さから一介の官吏の身分に満足せず、詩人を目指そうと試みる。詩人として名声を得ようとする李徴であったが、成果は上がらず生活は苦しくなるばかり。そんなある日、李徴は発狂して山へと消え、行方知れずとなる。


 李徴の旧友である袁傪という人物がその山を通った際、虎となった李徴と再開し、言葉を交わす。虎の意識に飲まれ、徐々に人間性を消失していくという李徴は、袁傪に自分の詩を記録してくれるように依頼する。


 その後、李徴は袁傪に別れを告げ、最後に月に向かって咆哮し、姿を消す。とても哀れな男の物語。


「『臆病な自尊心と尊大な羞恥心』だったっけ?」

「うん、そのフレーズも有名だよね」


 昔を思い出すように、小説の内容を語る山本くんと話を続ける。


「この小説ってさ、三人称視点で書かれてるよね」

「確かにそうだね」


 小説には主に2種類の書き方があって、一人称視点と三人称視点の2つに分けられる。前者は主人公の見る世界から物語を書き起こす方法、後者は他人の視点から、所謂、神の視点から物語を書き起こす方法である。


『山月記』は三人称視点の漢文調で書かれている。


「実は李徴ってさ、内心では凄く喜んでるんじゃないかな?」

「でも、台詞だと悲しい悲しいって何度も言ってたじゃないか」

「台詞なんていくらでも嘘をつけるよ」


 私が何を言おうとしているのかわからないといった表情の山本くんに、こう言った。


「主人公の李徴の感情って、全く記述されてないんだよ」

「虎になって徐々に人格が無くなっていってるのに、内心ではそれを喜んでるの?」

「そう」


 三人称視点の物語でも、登場人物の思考を地の文に書くことはあるが、山月記にはそれが見られない。やや風変わりな私の解釈に疑問を持っているようなので、山本くんに教科書を貸してあげた。

 山本くんがペラペラとそれを捲りながら、私の解釈を検証している。


「まあ、確かに、李徴が嘘をついてるって可能性もなくはないけど……」

「嘘というよりは、取り繕ってるって言ったほうがしっくり来ると思う」

「でも袁傪は李徴の旧友だよ。本音で話してると考えるほうが自然だ」


 確かに普通の人間であれば、仲の良かった昔馴染みの友人に対して、己を殊更に良く、若しくは悲劇的に見せようと取り繕ったりはしないだろう。

 けれども


「あれだけプライドの高い男が、本音で話すことなんてあると思うの?」


 私の極論に意表を突かれたのか、山本くんはポカンと口を開けていた。続けて持論をぶつける。


「自分を悲劇的に取り繕うのは、自尊心の高い自嘲癖のある男にはよくあることだよ」

「じゃあさ、内心では喜んでるってのはどういうこと?」


 虎になり、人間性を失い続けることを喜んでいるということに納得がいかないのだろう。山本くんはそれを問うてきた。


「過去の栄光ってさ、足枷にもなるんだよ。昔の自分と今の自分の落差を思う度に発狂しそうになる」

「…………」

「そんな人間が俗世間のしがらみから解放されたのなら、一体どんな風に思うんだろうね」


 店主がコーヒーを運んで来たため、この話題はここで打ち切りとなった。



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