疎遠

 

 朝起きて、顔を洗って、髪を整えて、制服を着る。私以外の誰もいない家のなかに、朝の生活音だけがのそのそと響く。静かすぎる家にいると喋り方を忘れてしまいそうになり、それを恐れてか無意識に独り言がでてしまう。


「食パン買うの忘れてた」


 エントランスの集合ポストに新聞の朝刊を取りに行ったあと、朝ごはんを食べようと思って冷凍庫を開いたらパンを切らしているのを思い出した。さすがにそろそろ買い物に行かなければと思い、脳の隅っこにメモをしておく。


「そういえば最近、航平にご飯作ってあげてないな」


 だから買い物に行く機会が減ってしまったのだと結論づける。仕方がないので今日の朝ごはんは無しだ。コーヒーのパックを開けてマグカップにセットしてポットからお湯を注ぐ。

 四回ほどお湯を注いだところでマグカップが一杯になり、一旦キッチンに放置する。湿ったコーヒー豆の粉末がゆっくりとお湯を通していく。

 コーヒーがある程度冷めるまで、新聞紙の一面だけ目を通す。一面はここ最近ずっと問題になっている、上場企業の品質偽装について報道していた。社説曰く日本の斜陽化が著しいらしい。

 ちょうどいい温度になったコーヒーを飲みながらテレビで天気予報を見る。


「行ってきます」


 玄関から中に向かってそう言ったところで返事をしてくれる人間は誰もいない。







 航平の家のインターホンを押して出てきたのは航平のお母さんだった。


「あれ、美咲ちゃん?」

「おはようございます、航平いますか?」

「ええと、航平なら学校に行ったわよ?」

「……そうですか、わかりました」

「変ねぇ、今日は朝練もないはずなのに」


 訝しげな顔をした航平のお母さんに「いってきます」と言い、一人で学校に向かう。部活が本格化する前は、毎朝私が航平の家を訪ねて一緒に登校していたのだ。今日はテスト一週間前で、朝練どころか部活すらないはず。

 てっきり航平も私と一緒に学校に行くつもりだと思っていたが、なんというか、ローテーションを崩されたような気がする。


 なにかあったのだろうかと思いながら学校に向かうと、通学路の途中でバッタリと陽菜に会った。真正面の道からこちらに向かってくる陽菜が声をかけてくる。


「美咲おはよう、あれ?」

「おはよう陽菜、どしたの?」

「航平くんは一緒じゃないん?」

「……さあ」

「さあってあんた」


 不思議そうな顔をする陽菜に、なんと言うべきかわからずはぐらかしてしまった。その後は適当に話題を変えて登校した。

 私も陽菜も、ついでに航平も同じクラスなので向かう場所は同じである。


 教室のドアを開けて中に入ると、テスト前で朝練が無いぶん、いつものこの時間にはいない生徒が何人もいた。


 当然、航平もいた。やはり先に一人で学校に行っていたらしい。

 何か悪いことに巻き込まれたわけではないと、ひとまず安心する。何故今日は先に一人で行ったんだ、心配したのだと言ってやりたくなったが、同じクラスの剣道部の男の子と楽しそうに話していたので後にすることにした。


「なんや、航平くんおるやん」

「そうだね」

「……なんかあったん?」

「さあ、なんだろう」


 適当にはぐらかしていると、陽菜もそれ以上は追及してこなかった。


 昼休みも、放課後も航平に話かけるタイミングが無かった。ホームルームが終わると航平は男の子の友達とそそくさと帰ってしまったのだ。特に、私とは意図的に目を合わせないようにしているようにすら思えた。


 校門まで陽菜と一緒に歩いているとき、彼女は「大丈夫なん」と優しくこちらを気遣ってきた。何が、と明言しないあたり彼女はかなり大人びている。中学一年生にしてはとても良くできた子である。

 いつも通り、途中で陽菜と別れて一人で帰宅した。


 航平の家に行って直接話をしようかとも思ったが、結局LINEで聞くことにした。机の上で充電してあったスマホを手に取り、LINEを起動する。何と入力しようか迷って、短くこう送った。


『なんかあったの?』


 しばらく画面を見つめていたが、既読はつかなかった。スマホの画面を落として机の充電機につないで戻す。


 その後、掃除機をかけて洗濯機を回したりして時間を潰した。一応軽く試験勉強もした。

 自分で勉強しているときはすでに高校の内容までやってしまっているので、とても簡単だ。


 センター試験の過去問を解いていると机の上でスマホのバイブが鳴った。画面をつけると航平からのLINEの返信が来ていた。


『お前と一緒に学校に行くのはやめる』


 言葉の鋭さに一瞬怯んだが、すでに見当はついていたので冷静になる。自分の予想が当たっているか、答え合わせのために返信する。


『どうしたの、なにかあった?』


 我ながら白々しいと思うが、中学一年生の女子を装う。すぐに既読がついて返信がきた。


『友達にからかわれた、女と一緒に学校行ってんのかって』


 私の予想は正しかったようだ。そのうちこんなことが起こるだろうと思っていた。前世の自分が男だったからよくわかる。


 私と航平と陽菜が通う東雲中学校の学生は、2つの地元の小学校から上がってきた子供たちで構成されている。

 私と航平は同じ小学校出身、陽菜は別の小学校の出身だ。当然、それぞれの小学校に異なる風土や文化がある。例えば、男女の仲の良さ、とか。

 私と航平の小学校は人数が少なく、そのため男女の垣根もほとんど無かった。だが陽菜に聞いたところ、向こうの小学校は男女の仲がそれはそれは悪かったらしい。私と航平の小学校は少数派で、陽菜の小学校出身の子供のほうが2倍くらい多い。2つの風土が混ざりあえば、当然多数派の風土が優位になる。


 つまり、現在の東雲中学校一年生には男女の垣根が出来てしまったのだ。

 おそらく航平をからかった男子は多数派の小学校出身なのだろう。あくまで私の予想だが。


 とはいえ、思春期の男女に壁が生まれるのはある種の自然の摂理だ。数年も経てば航平ともまた仲良くできるだろう。そう楽観的に考えて、こうLINEに打ち込んだ。


『仕方がないね』と。


 ピコン、と音が鳴り返信が来る。


『お前の家でご飯食べるのもやめる』

『うん、わかった』

『じゃあな』

『うん、試験頑張ってね』


 これでしばらく、私と航平のLINE画面が更新されることは無いだろう。けれども、これも青春である。また仲良くなることもあるだろうし、喧嘩することもあるだろう。私たちは中学生なのだから。



 そんな風に感慨に耽っていると、ある重大な過ちに気がついた。


「帰りにスーパー寄るの忘れてた……」


 冷蔵庫にはまともな食材がない。取り敢えず今日の夕飯はレトルトカレーで確定だ。

 どうやら明日も朝ごはんは抜きになりそうだった。


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