第7話 教派と愛

 それからというもの、私の内の神への思いが強くなるほどに、悲しさが増す出来事があった。それはいつもミサの時間に訪れた。

ミサ中の聖体拝領である。


キリスト教において、新約聖書の福音書における最期の晩餐は特別な意味を持っている。キリストが十字架にて処刑される前夜に十二人の弟子たちと共にとった最後の食事、これが最後の晩餐である。これは過越の食事であった。過越とは、旧約聖書における出エジプト記の記述に由来する出来事だ。出エジプト記は、エジプトで奴隷生活を送っていたイスラエルの民を救うべく、モーセによってエジプトから約束の地カナンへと、イスラエルの民たちが導かれたことの記録である。

イスラエルの民がエジプトを脱出する際、モーセはエジプトを支配していたファラオのもとへ行き、出発の許可を請う。しかし、ファラオはモーセ達の出発を赦さない。そこで、神はエジプトに災いを下す。それによって、疫病や激しい雹、様々な災いがエジプトを襲う。その際、最後に下された災いは、エジプトの地の長子が皆死ぬことだった。主なる神が、エジプトの地を行き巡り、命をとるのである。しかし、神はモーセを通してイスラエルの民には羊を用意し、過ぎ越しのいけにえを屠り、その血を門柱につけるようにと語る。神がエジプトを打つために行き巡るとき、家の前にその血を見ると、その戸口を過ぎ越し、滅ぼす者がその家に入って打つことがないようにすると約束するのである。

この過ぎ越しの出来事によって、エジプトのすべての長子は死に、イスラエルの民が守られた。それよって、ついにファラオはモーセ達の旅立ちを許可するのである。ユダヤ人はこの出来事を過越の祭りとして記念した。

主イエスは、十字架に掛かる前に、弟子たちと共に過越の食事をとった。これが、最後の晩餐である。


それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。

「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい」

食事のあと、杯も同じようにして言われた。

「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です」

ルカの福音書 二十二章一九―二〇節

 

人の罪を贖うために、自らが神へのいけにえとして血を流したキリストは、まさに過越の小羊であった。キリストは自らを記念して、教会の中でもこの主の晩餐を行うようにと命じた。

これはプロテスタント教会では聖餐と呼ばれる、全教会に共通するサクラメントである。サクラメントとはカトリック教会では秘跡(ひせき)と呼ばれるもので、アウグスティヌスの言葉を借りるならば、「しるし」である。目に見えない事柄を目に見える形としてあらわし、教会の中で行うのである。カトリックには七つのサクラメントがあるが、プロテスタントのサクラメントは二つのみである。洗礼と聖餐は、全ての教会に共通するしるしなのだ。

 プロテスタントにおける聖餐をカトリックでは聖体拝領と呼ぶ。礼拝の中で配られるパンをキリストの真の身体であるとするためである。カトリックの礼拝、ミサの中でパンはキリストそのものに変わるとされている。よって、この教理を信じる者のみが、パンと杯を受けることができる。原則、聖体拝領が赦されるのはカトリック信者のみである。ゆえに、洗礼を受けていても、プロテスタント教会に属する私は聖体拝領を受けることができなかった。


 この事実は、カトリック教会の中にプロテスタント教会と同じ信仰があるのを知るほどに、私の中に重くのしかかった。私にはカトリック信者と異なるものを信じているという意識はさらさらなかった。カトリックの聖職者と語りあい、彼らに共鳴することは幾度となく経験した。勿論、教皇をキリストの弟子ペテロの後継者である教会の頂点とし、マリア崇敬を重んじるカトリック教会と、プロテスタント教会の教理は同じではない。

 しかし、彼らは私と同じ聖書を信じている。彼らと私の信じるものの内に、共通する真理があるのである。エラスムスは五百年前、父子聖霊なる神の内にそれをみた。つまり、同じ神を信じ、同じ主なるキリストを信じ、同じ聖霊を信じている。

ミサの中でその場に立ち会うたびにやるせない思いがした。同じものを信じていても、教派の違いから、私には拝領が赦されない。次第に、他教派の陪餐を赦さないことは、他教派の洗礼自身を否定することになるのではないかと疑問を抱くようになった。

 プロテスタント教会においても、聖餐論は分裂をもたらした問題だった。礼拝に用いられるパンや葡萄酒と、キリストとの関係が教派によって様々に理解されている。ルターやツヴィングリ、カルヴァンなど宗教改革者たちはそれぞれ異なる教説を唱えた。


 昔、フランスのテゼと言う場所を訪れたことがある。教派を超えたキリスト者の共同体がある場所で、世界中で若者が訪れる。第二次世界大戦時、キリスト者の間だけでも分裂を止め、和解をもたらそうと考えたブラザー・ロジェという人物がこの共同体の創始者である。そこでは東方教会、カトリック、そしてプロテスタントのキリスト者が共に暮らしており、大きな礼拝堂では毎日祈りの時が持たれている。礼拝堂のオレンジ色の光の中で、あらゆる教派の人間が共に素朴な讃美歌のフレーズをくり返しながら祈り続ける。その空間で祈るとき、全てのものが美しく感じられた。

 そのような場所でもやはり、聖餐のうちに完全な一致は見いだされなかった。テゼでは教派を超えた礼拝の時間が持たれている。

そこでの聖餐の時間では、プロテスタントに属する者には籠が回され、そこから各々がパンを受け取る。一方でカトリック教徒は一列に並び、カトリックのブラザーからホスチア・聖体と呼ばれるパンを受け取る。プロテスタントに渡されるパンとは別の形をしている。

 私には、テゼでの聖餐・聖体拝領の形は非常に滑稽であるように感じられた。同じ起源をもつ同じサクラメントでありながら、別々の形でしかなされない。同じキリスト教徒が共に礼拝をしても、決して共有ができないのである。神の目からこの現状はどのように捉えられているのだろうか。もし同じ場所から、同じパンと杯を受け取ることができれば、どんなに素晴らしいことだろうか。


 キリスト教にはアディアホラという概念がある。聖書が明瞭に命じていない事柄である。聖餐・聖体拝領に用いるパンがキリストの身体とどう関係するか、各教派が論じていることについて、聖書は明確な答えを与えていないのだ。そこで用いるパンがキリストの身体そのものか、象徴か、パンと共にキリストが存在するのか、聖霊が働くのか、これらの教説が論じているのは、全くアディアホラな事柄ではなかろうか。

 カトリック教会は、聖公会の信者に拝領を赦している。また、ルター派とも信仰義認の教理の共同宣言や合同礼拝を行い、歩み寄りを見せている。しかし、プロテスタントの各教派と一つ一つ教理の確認をしていても永遠にカトリックとプロテスタントの和解がもたらされることはないだろう。プロテスタントの教派は星の数ほど存在する。プロテスタントはカトリックのような一枚岩の組織となっていない。無数の教派の存在は、聖書解釈に自由をもたらしたプロテスタント教会の性質そのものなのである。東方教会と西方教会、プロテスタントとカトリックが和解されるたった一つの道は、アディアホラな教理ではなく、唯一の真理に立ち返ることだろう。即ちそれは、聖書である。


聖書が聖餐について述べていることは、次のことだ。キリストが最後の晩餐で行った、パンと杯の分かち合いを、自身の記念として行うようにと命じたこと。それを「わたしのからだである」と述べたこと。

聖書によれば、十字架にキリストの身体が架かり、血が流されたことの理由は、人間の罪の贖いであり、人の罪を代わりに背負い罰を受けることで、人と神との間に和解をもたらすことである。キリストは過ぎ越しの子羊として世にもたらされたのである。

旧約時代、いけにえが裂かれることで、契約は成立した。キリストは最後の晩餐において、自らの血を「新しい契約である」とした。旧約時代、神と人は契約を結んだ。キリストによりもたらされる救いと永遠のいのちは、人と神との和解の成立である。キリストは新しい契約、新約時代の到来を告げた。

キリストは旧約時代に示されたあらゆる律法を全うし、全うする最高の律法をもたらした。


愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。

ローマ人への手紙 一三章一〇節


「互いに愛し合いなさい」

キリストが最後に弟子たちに語った言葉である。キリストの生涯は、愛を体現するものであった。人を何度赦したらよいかと聞かれると、七の七十倍、つまり無限に赦すようにと答えた。また、キリストは敵を愛するようにと語った。そして、その通りのことをしたのである。

キリストが十字架に掛かる前に受けた鞭打ちは、惨いものだった。鞭には九つの紐があり、その一つ一つに陶器や石のかけらがつけられていた。鞭は紐で人を叩くためのものではなく、その尖ったかけらによって人を傷つけるためのものだった。九本の紐は鞭打たれた者の身体に絡みつき、それを再び引き戻す時、無数のかけらが体をえぐって傷をつけるのである。キリストの背中や顔は裂け、肉と骨は露出した。その姿は旧約聖書にこのように預言されている。


その顔立ちは損なわれて人のようではなく、

その姿も人の子らとは違っていた

イザヤ書 五二章一四節


当時、鞭打と十字架刑の両方が課されることはなかった。しかし、キリストが十字架に架けられることはキリストが罪のある人間の代わりに神の怒りを引き受け、のろわれる者となるために必然であった。木にかけられた者は呪われると、旧約聖書の申命記に記されているからだ。

十字架に架けられるために、キリストの手首と足首に釘が打たれた。人々の恥さらしとなるため、一切の物を身に着けることができなかった。十字架は、人が苦しみぬいて死ぬために考案された処刑法だった。キリストは十字架につけられるとき、自らを処刑しようとする人間のためにこのように祈った。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのかわからないのです」キリストはこのようにして、罪による人間の支配を断ち切る道を開いた。神はエデンにおいて堕落した人間が受けるべき呪い、罰をキリストに負わせたのである。


「人が友のために命を棄てること、それよりも大きな愛はない」

 聖書の言葉である。

神は愛である。神は究極の愛の形をキリストの内に示した。それは自己を無にして一方的に与える愛である。この愛の形を、愛の模範として人に示したのである。創世記によれば、人は神に似せて造られた。人は愛することによって、はじめて人になるのである。人は誰しもこの究極の愛の形を求めている。与えられる愛を求めて生涯模索する。与えられる愛を知っている人間は、愛を与える喜びを知っている。全ての人間がその喜びを知れば、世界のすべての問題は瞬く間に解決してしまうだろう。全ての問題は人が本当の愛を知らないところに起因するからだ。罪に陥り続ける人間は愛への飢餓状態にある。その叫びが残酷な事柄として表面化するのである。

人を根本的に変えることができるのは、愛以外に存在しない。

 愛とはこの世界で最も神秘的なものである。創世記において、神は言葉によって全てを創造した。しかし、ご自身そのものである愛は、言葉によって創造されたものではなかった。

 愛は決して強制によっては生まれないのである。愛は自由の内に存在する。親ならば、子供が何もしなくても、ただ抱きしめることができればそれが喜びとなる。神は人に対してその喜びを求め、人も誰かにその喜びを求めている。

 

 究極の愛を示したキリストが、「わたしの記念として行いなさい」と示し、パンと杯を人のために裂かれた自身の身体だとするのが聖餐であるならば、

 分裂をもたらし、今もなおその解決が見出されない聖餐の教理は全て真理から外れたものだろう。聖餐の意味は、愛のしるしである。

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