第4話 楽園がありました


「アメリー、朝ですよ」

「はぇ?」


 優しい低い声が聞こえる。他にも水が流れる音とカチャカチャと食器の音。

 まるで王都に住んでいた頃のような懐かしい音。その正体を確かめるように瞳を開けると、台所に立つ男の背中が見えた。


 えっと……誰だっけ?



「朝ですよー、アメリー?」

「シェルト!?」

「あ、起きましたね。おはようございます」



 すっかりシェルトを忘れていた。驚いて飛び起きると、彼はフライパン片手に笑顔で振り向いた。

 ふわふわだった髪は寝癖ひとつ無く真っ直ぐ流れ、髭も残さず顔はさっぱりとさせ、腰にエプロンが巻かれている。見るに既に身支度が整っている状態だ。


 つまりこのベッドの真横を通って洗面台に行ったわけで。声をかけられるまで寝ていた私はどんだけシェルトに油断してるのよ。寝る直前に相手は同世代の異性だから少しは気を付けようと思っていたはずなのに、覚めたはずの意識が別の方向に遠退きそう。

 どこ行った危機感、おーい。



「さぁ、今からふわふわのオムレツ作りますから待っててくださいね」



 シェルトはレディの寝起きの顔なんて興味が無いのか、すぐに背を向けて台所と向き合う。

 26歳の若き男とは思えぬお母さんオーラがすごい。いえ……ぼんやり耳と尻尾が見えるからワンコかしら?

 とにかくお母さんやペット相手に警戒するほうが難しい。私の危機感が足りないせいじゃないわ……たぶん。



 ようやく頭が動き出した頃、シェルトは手際よく朝ごはんを準備していた。小鍋は既に火にかけられ、沸いているお湯に細かく刻んだ野菜が入れられていく。

 次はボウルに卵が割られ、卵黄と卵白に分けられた。まず卵黄の方に一匙のヨーグルトと砂糖が入れられる。フォークを3本片手に握った彼は卵白のボウルを冷しながら勢いよく空気が含まれるように混ぜていく。

 腕は動いていないのに、手首より先だけが正確に円を描き、どんどん白っぽく泡立っていくのがわかる。



「アメリー、そんなに見つめられると背中が焦げそうです」

「あ、ごめん! 顔洗ってくるわ」



 苦笑しているシェルトに指摘され、ハッとしてベッドから降りて洗面台に向かった。冷静を取り戻そうと、わざと冷たい水で顔を念入りに洗う。

 しっかり水気を拭いて、数滴オイルを塗ってから簡単に化粧を終わらせる。


「うん、私は可愛いわ! 自信を持つのよ」


 鏡の前で小さく魔法の言葉を唱える。ナルシストじゃないわよ。ただ1日お客様の前で笑顔でいるためのやる気スイッチのようなもの。

 リビングに戻るとシェルトがちょうど盛り付けをしているところだった。


「もうできますよ。座ってください」


 シェルトに促され、椅子に座る。台所のお皿の上には大きな黄色いオムレツが鎮座しており、小鍋で煮込まれた野菜のトマトソースがかけられていた。少しはねたソースが布巾で拭き取られ、私の目の前に運ばれる。

 お皿が置かれた瞬間、黄色いオムレツはふるふると揺れ、湯気がバターの香りを運んできた。

 漂った香りに刺激され、私の喉は無意識にゴクリと鳴った。



「熱々のうちにどうぞ召し上がれ」

「いただきます」



 用意されたスプーンでをオムレツすくって口に入れる。まるでスポンジのようなふわふわを感じた瞬間に、しゅわしゅわと溶けていった。口の中にはトマトの甘酸っぱさが残り、はじめに強く香ったバターの重さを感じさせない。

 朝からなんて食欲が進むご飯なのかしら!

 私は感動を禁じ得なかった。



「あなた天才だわ! すごく美味しい! はぁ……幸せ!」

「――っ」


 シェルトは目を見開き一瞬驚いたような表情のあと、まるで泣いてしまいそうな顔で笑い、背を向けてしまった。



「シェルト?」

「どうぞ先に食べててください。後で食べるために俺の分も作っちゃうんで。ほら、早く食べないと仕事に遅れますよ?」

「あ、うん!」



 まるで聞かないでと、わずかな拒絶を感じ踏み込むのを止めた。

 あと1週間ほどで解消される同居人だもの。深入りは良くない。私は再びオムレツに集中することにした。


 食べ終わる頃にはシェルトは気を利かせて屋根裏部屋に登っていた。

 私は部屋着を脱いで襟元に小さなフリルがついた白いブラウスに腕を通して、膝丈のえんじ色のフレアスカートを穿いた。

 最後に背中まで伸びた金色の髪を高めの位置で束ねて赤いリボンで結んで完成。私は廊下から、天井の住人に声をかける。



「シェルト! 私は定食屋に行くわ」

「はーい。お気をつけて」



 天井に開いた穴からシェルトが顔をだし、笑顔で手を振ってくれる。

 忠犬にしか見えない。


「きちんと今日からでも部屋探ししてね?いつまでもここにいたら駄目よ?」

「善処します」


「お願いね。では、いってきます」

「いってらっしゃい」


 私は家の鍵を天井の扉に向けて投げ込んだ。そしてシェルトが受け取ったのを確認して部屋を出ていった。

 ぐっすり眠り、朝から美味しいご飯を食べた私は活力で満ちていた。疲れは感じにくいし、体が軽く、いつも以上に仕事が楽しかった。

 だから帰りも足取り軽やかだ。今日はどんなご飯かなと楽しみで仕方ない。


「ただいまぁ」

「おかえりなさい。今日は鶏肉とポテトのミルク煮ですよ」


 そして扉を開くと笑顔のシェルトと美味しいご飯が待っていた。




✽ ✽ ✽



「ふぁ……よく寝たわ」



 今日は1週間ぶりの休日。太陽はすっかり昇り、いつもなら定食屋に着く頃の時間帯。リビングは静かで、台所に彼の姿はない。

 約束通りシェルトは私を寝かせてくれたようだ。


 水くらい飲もうかと蛇口をひねり、コップに水を注いで椅子に座った。するとテーブルの上にメモが1枚置かれていた。


――出掛けてます。昼御飯の準備には帰ります。



 異様に静かだと思っていたら、彼は出かけていてたらしい。

 そういえば、休日の昼御飯については話してなかった。でも彼なら作ってくれるのではと勝手に期待している。



「ダメダメ!なに餌付けされてるのよ私は!」


 自分の食欲に渇を入れる。これ以上ご飯の事を考えないように、休日恒例の掃除をすることにした。

 台所はシェルトがピカピカにしてくれているので不要として、窓を開けて床をほうきで掃いていく。そしてモップを取り出して軽く磨いた。



「次は洗濯物ね!」



 なんだかシェルトが来てから洗うタイミングを逃していた服を風呂場で洗っていく。服を終らせてからベッドのシーツを剥がして洗い、全部裏手の共同物干し場に干していく。名前が書かれた洗濯ばさみで洗濯物を止めれば終わり、のはずなのだが――


「どうしよう……」


 まだ私の手元には下着が残っていた。いつもは部屋にどーんと干すんだけど、今はシェルトがいるから干しにくい。だからといって共同物干し場になんてもっと駄目だ。


 とりあえず下着片手に部屋に戻る。私は考えることをやめて、まず先に新しいシーツを敷くことにした。シーツのストックは屋根裏部屋に置いてある。



「あぁ……どうしよう……」


 いつものように梯子をかけた、登れずに天井を見上げる。

 自分の家なのに、登りづらい。今はシェルトが寝ているという空間に無断で入ることに申し訳なさを感じてしまう。


 でも、シェルトは私の空間に普通にいるわけだし……シーツを取るくらい良いわよね?

 お互い様だと自分に言い聞かせて梯子を登り、屋根裏部屋を見渡し動きを止めた。



「……はい?」


 ワックスも塗られていなかった木の床にはマットが引かれ、その上には寝袋ではなくきちんと布団が敷かれていた。

 枕元には大きなバスケットが並べられ、中には服が綺麗に畳まれている。その奥の壁と壁の間にはロープが張られ、彼のシャツやエプロン、シーツなど洗濯物が干されている。後ろを向くと料理と家事に関する題名の本が何冊も積まれていた。



「私は何も見ていない。見ていないわ」



 現実を受け入れたら駄目な気がして、今の目的の事だけを考える。



「……失礼します」



 一応謝罪して、自分のシーツを取るためにそっと奥に進む。するとロープに干されていたシーツの影にあるものを発見してしまい、衝撃を受けた。



「これだわ!」



 シーツが絶妙な死角を作り、シェルトの下着を隠していたのだ。それを見て私も真似をして干せば良いのだと判明したのだ。

 急いで目的のシーツ片手に1階に降りる。すぐに壁とクローゼットの間に紐をかけ、タオルで隠しつつ、無事に下着を干した。


「完璧ね! もう安心だわ」


 出来上がった即席の物干しを満足気に眺めた。素晴らしいアイディアに気をとられ、彼が出ていく気が無いことに私は気付けなかった。

 この時すでに屋根裏部屋はシェルトの楽園が出来上がっていたというのに……

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