第50話 知るものよ

 目的地の蕎麦屋までは時間がかかる。鹿沼市街を走り大谷街道沿い。ほとんど宇都宮に近い位置にあるらしい。同じ鹿沼市でも車で三十分はかかるそうだ。

 無骨なジープラングラーの乗り心地は気持ち良く、疲れた体に、この揺さぶりは眠気を誘う以外の何にでも無かった。揺り籠とは、まさに車の事なのでは、とか余りの眠気に、話の意図が掴めない答えを作り出す、


「寝てても、大丈夫よ」

「大丈夫です。体は疲れいるんですけど……なんだか目はさえちゃって」

「カキーンって、気持ちよさそうに打ったもんね」


 こんな時こそ、キョウコ先生の優しい笑顔は救いのようだ。


「でも、サイン……無視しちゃって。勝てたのは嬉しんですが」

「勝ったんだから、良いんじゃないの?とは簡単に言えないけど、みんなと話し合うしかないんじゃないかな。この通り、私はズブの素人、野球の事は何も知らないだもの。ホント……何も」


 普段は見せないキョウコ先生の哀愁が、何処か自分とリンクした。この人も、また悩み、答えを探している。そう感じ取ってしまった。


「最初はね、みんな仲良くやってくれれば、それで良いと思ってたのよ。もともと部活動なんて教育の一貫なんだし、投げたい人が投げて、打ちたい人は打つ、それで良いじゃんって……でもね」


 暫しの静寂が重い。赤信号。交差点手前で右折のウィンカーがカチカチと、場違いな軽い音を出していた。カーステレオからは流行りの曲が流れている。母さんの車は懐メロばかりだから新鮮さを感じつつも、やはり落ち着かない。


「やっぱりさ。やりきって、ユウキ君みたいに涙流して、ヨシユキ君みたいに誰かと喜びを分かち合って。それがスポーツの良さだって、思っちゃいました」


 キョウコ先生は、お茶目な口調ながら顔は真剣に、直進してきた車二台が通り過ぎると、右折を始める。先生の言葉に返答も出来ぬまま、車は拓けて来た鹿沼市内を走り出していた。田畑がチラホラあるが、デカイ電気屋や回転寿司なんかもある、今と昔が混在した暮らしの様子が窓から流れる。


「そんなこと思ったらさ、私は無意味じゃないのか、なんて……ちょっとだけよ。ほんのちょっとだけよ。サインも出せないし、ノックも出来ないし、それなのに地区を代表する監督とか、荷が重いなって」


 左折する際にチラリと先生の顔が伺えた。勿論、進行方向をしっかりと見ていたが、少しだけ目が合ったようで、ドキリとした。

 当たり前だが、ウチの母よりずっと若い。大人の女性の魅力と、ちょっと子供っぽい可愛いらしさを兼ね備えている。男子、女子に関わらず、キョウコ先生の人気は間違いなく高い。


「先生でも悩む事があるんですね?」

「なに、それ。馬鹿にしてるの?」

「違いますよ、ただ……」

「ただ……何よ?」


「先生は良い先生ですよ。監督としても良い監督です。何て言ったら分からないけど、一緒に悩んでくれるじゃないですか、一緒に笑ってくれるし、たぶん、一緒に泣いてもくれる」


「そりゃ、そうよ。先生だもん」


「俺は大人って勝手な生き物だなって思ってました。自分達で勝手にルールを決めて、それ従わせて、破ったら罰を加えて、言い分も聞かず子供だって言って嘲る」


 サインの話から始まった悩み相談は、気づけば脱線に脱線を重ねていた。最終的には、よく分からない所にを彷徨い、着地の検討もつかぬまま、呆気なく目的地に半ば強制的に着地した。ジプシーラングラーが駐車場に停止する。


「今日は打ってくれて、ありがとう。サインを無視した事は良いかどうかは、私には分からないけど、見ててスカッとしたわ。興奮した。気づいたら必死で応援してて……初めて野球が面白いスポーツだなって思った。ホント、ありがとう」


「……こちら、こそ」

「さぁ、降りた、降りた。なんだかんだで一時過ぎちゃたわね。先生、お腹すいちゃったよ」


 そう言って車を飛び降りる先生。ドアを開けると、冷えた車内からは一変して、湿気を帯びた夏風が身を包む。先に着いたチームメイトは、気を遣ってか店の外で待ってくれていた。そこには、少し明るい目をしたアオイもいた。


「ほら、みんなが待ってるわよ。シンジ君もお腹空いたでしょ」

「はい、でも先生ほどじゃないですよ」


——先生、やっぱアナタは良い監督ですよ


 そんな思いも一緒くたに、不安や憂い、哀愁までもを巻き込んで、一陣の風が、何処か山の遥か先まで吹き飛ばすかのように、凪いだ。

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