6-3 こういうのは恋人同士がするもんだ

※閲覧注意

(シリアス展開・軽いキス描写あり)


    ◇ ◇ ◇ ◇


 曲がり角を三つ、四つほど曲がり、どこかの建物に入る。

 どこにでもある古めかしい雑居ビルのようだ。

 ハジメに手を引かれるまま、階段裏の薄暗い物置のようなスペースに身を寄せる。


 優しく握られた手が温かくて、その一方で自分の手は血が通っていないかのように冷たくなっていた。

 今頃になって震えが止まらない。


 さきほどの光景が脳裏に浮かび、背中に冷たいものが這う。

 あの女はハジメの元ユーザーなのか?

 ハジメはあんなユーザーのところにいたのか?

 俺と出会う前は、いったいどんな暮らしをしていたんだ……。


 あの女は、躊躇もせずにハジメを蹴飛ばして膝をつかせた。

 あまりにも手馴れていて、あまりにも暴力的だった。

 俺には止めることすらできなかった。


「ハジメ……痛かっただろ……」


 女に蹴られていた箇所に手を当て、破損や変形がないかをたしかめる。


「ご主人様。私は大丈夫でございます。どこにも破損はございません。それよりも、買っていただいたばかりの服を汚してしまって申し訳ございません」

「お前が謝るな!」


 つい、苛立ちをぶつけるような大声が出てしまう。


「……失礼いたしました」

「いや、ごめんな……。でもな、ハジメ。今は服なんてどうだっていいだろ……」


 すがるように、その両腕をつかむ。


 そして、ようやく理解した。

 ハジメはずっと、あのユーザーの元へ返されることを怯えていたんだ。

 だから、俺が他のアンドロイドに目移りするのを異常なまでに心配していたし、俺との繋がりを強めようとして指輪を欲しがったんだ。


 ポチ、と呼んでいたあの声を思い出す。

 ふざけやがって。

 激しい怒りが込み上げると同時に、かつての自分が思い出された。俺だって、ハジメのことを『1号』と呼んでいたじゃないか。


 ――ああ、そうだ。俺に怒る権利などない。

 俺だって、決して誇れるようなユーザーではない。

 他人を責めることもできやしない。

 今さらになって、過去の自分の行いが自分の首を絞めつける。そのまま息が止まって死んでしまえばいいのに、とさえ思った。


「…………」


 ふと、自分の左手の指輪が目に入った。

 それはまるで呪いのようだ。

 こんなものが在る限り、これから先もずっと、俺はハジメを苦しめ続けるに決まっている。

 それならば、今ここで捨ててしまえ。


 そう思い、指輪に手をかけて引き抜く。

 指輪が外れる寸前、ハジメの手がそれを止めた。


「おやめください、ご主人様」

「……なんでだよ」


 止める理由など無いはずだ。

 それなのに、ハジメは懇願するように俺の目を見つめる。

 黒い瞳が、泣いているように揺れていた。


「どうか、このままで」

「…………」


 ハジメにとって、指輪を外すことは恐怖以外の何物でもないのかもしれない。

 俺がこいつを手放すということは、また主人が変わるということだ。

 そして、必ずしも次の主人が優しいとは限らない。

 こんな俺でも、暴力を振るわないだけあの女よりマシということか。


 黙って指輪を元に戻す。

 ほっとしたハジメの表情を見た途端、次々に後悔が押し寄せてきた。

 

 服なんか一人で買いに来ればよかった。

 ハジメを連れて来なければよかった。

 街に来なければよかった。

 あの日、酒に酔ってハジメを買わなければよかった。


 どうにも気分が悪い。

 眩暈と吐き気がして、体が思うように動かない。

 体がふらつき、立っていられない。

 壁にもたれかかると、ハジメが心配そうに尋ねた。


「ご主人様、どうなさいましたか」

「ちょっと気分がわりぃ……」

「すぐに人を呼んでまいります」


 離れようとしたハジメの腕をつかみ、強く引き留める。


「待て。どこにも行くな、ハジメ」

「ですが、ご主人様……」

「いいから、ここにいろ」

「……はい」


 朦朧とする意識のなかで、暖かいものに包まれた。

 ぼんやりと目を開けると、ハジメに抱きしめられていることに気付いた。


 ……やっぱりハジメも恐かったのか?

 ああ、違うな。

 俺を心配しているのか。


 アンドロイドに「辛い」という感情があるかどうかはわからないが、もしあるとしたら本当に辛いのはハジメのほうなのに。

 俺は主人として、あまりに不甲斐ない。


「ご主人様、もうすべて済んだことです」


 耳元でハジメの声が聞こえる。

 あんなことがあったばかりだというのに、ハジメは少しも変わらない。

 いつもと同じように俺のことを気遣い、優しい声で話しかけてくれる。


 じわりと目に涙が浮かんだ。

 都会の片隅で、俺たちはどうしようもないまま時を過ごした。


    ◇ ◇ ◇ ◇


 どのくらいそうしていたのだろう。

 気がつけば、窓から射し込んでくる光がずいぶん傾いていた。


「……帰るか」


 ぽつりと呟くと、ハジメは抱きしめていた両腕を緩め、じっと俺の顔を見つめた。


「どこか痛みますか」

「いや、大丈夫」

「なにかお召し上がりになりますか」

「いらない」

「歩けそうですか」

「ああ」


 確認するような問いに、ひとつひとつ答えてゆく。


「なにかわたくしにしてほしいことはありますか」

「俺の傍を離れるな」

「もちろんでございます。ご主人様」


 もぞもぞとハジメの腕から抜け出し、そっと頭をなでてやる。


「ごめんな。嫌な目に遭わせちまったな」

「ご主人様のせいではございません。ですが、ひとつだけお願いがございます」

「なんだ?」

「お連れしたい場所がございますので、よろしければ私と一緒に来ていただけますか?」


 まるでデートにでも誘うかのような丁寧な物腰で、ハジメはそう告げる。


「……えっ、今からか?」

「終わり良ければ総て良し、と申しますでしょう」

「?」


 どうやら、なにか考えがある様子だ。

 その口元が少しいたずらっぽく見えるのは気のせいだろうか。

 もしかしたらハジメは、こんな最悪な一日をひっくり返せるカードを持っているのかもしれない。

 ならば、俺もそこに賭けたい。


「わかった。連れてってくれ」


    ◇ ◇ ◇ ◇


 連れてこられた展望台のデッキは、地上から見上げるよりもずいぶん空が広く見えた。

 西の空に傾いた太陽が、もうじきビルの屋上に届こうとしている。


 立ち並ぶビル群も、大小さまざまな看板も、ごみごみしている大通りも、生気のなかった街路樹も、べたついたアスファルトも、あふれかえる人波も、世界のすべてが等しくオレンジ色に染まっているのが見えた。


「綺麗だなぁ」


 思わずそう呟くと、ハジメは俺の横からひょっこり顔をのぞかせて言う。


「ご主人様のほうが綺麗ですよ」

「ぶふっ」


 これには噴き出さずにはいられなかった。

 まったく、どこでそういうことを覚えてくるのやら。


 展望デッキの上は風が強く、もう七月だというのに肌寒い。

 俺は自分の身体を手でさすった。


「うう、冷えるなあ」

「抱きしめて暖めましょうか?」

「いや、いいって」

「ですが、デートでは寒さを口実に相手を抱きしめるものだとうかがいました」

「だからどこでうかがったんだよ」


 ハジメと二人、冗談めかして笑い合う。


「ご主人様は、以前私のことを暖房器具のかわりになさっていたではありませんか」

「ああ、エアコンが壊れたときな。お前あったかいものなあ」


 そうしているあいだにも、夕日はあっというまにビルの向こう側へ隠れてしまった。

 これからどんどん暗くなっていくのだろう。


「さあて、暗くならないうちに帰るか。連れてきてくれてありがとな」

「あ、少々お待ちください」


 そう言ってハジメはジャケットを脱ぐと、俺の肩にかけてくれた。


「おう、ありがと……」


 言いかけたとき、ハジメにジャケットごと引き寄せられた。

 顔を上げると、あきれるほど整った顔が間近に見えた。

 あっと思った瞬間、唇同士が触れる。


 なにが起きたのかわからず、あまりのことにぽかんとした。

 怒る気にもなれなかった。


「デートの最後にはこうするものだとうかがいましたので」


 いつもだったら怒鳴り散らしていたかもしれない。

 でも、昼間の光景がフラッシュバックして、できなかった。

 ぐいと口を拭い、慌てて言う。


「お前なっ、こっ、こういうのは恋人同士がするもんだ!」

「そうでしたか」


 しれっとした顔でハジメが言う。


「もしかしてファーストキスをいただいてしまいましたか?」

「うるせ、お前アンドロイドだからノーカンだ、ノーカン!」

「それは残念です」


 残念と言いながらも、奴は上機嫌だ。

 夕日の名残が闇夜と混じり、地上には星のような灯りが輝きはじめていた。

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