4-4 俺にしちゃ大盤振る舞いだぜ

 結局、風呂に入ることはできなかった。


 脱衣所まで着替えを持ってきたハジメに発見され、俺は引きずられるようにベッドまで運ばれ、そして寝込むことになった。

 やたら寒気を感じると思ったら、熱が出ていた。


「……お辛いですか?」

「いや。まあ、ちょっとだるいのと、寒気がするだけ」


 昼間はあれだけ不機嫌そうだったくせに、俺が寝込んでからハジメはずっと心配そうな顔をしている。

 そういえば、病気のときにこうやって誰かに心配されるなんて初めてのことかもしれない。体は辛いはずなのに、安心して涙腺がゆるんでくる。


 ごろりと寝返りを打つと、自分がまだ子どもだった頃のことを思い出した。


 あの頃は、俺が風邪をひくといつも姉が部屋の隅にいた。姉は俺の様子を気にすることもなく、ただ黙って本を読んでいた。その姿を見るたびに、まるで自分という存在が消えてしまったかのように感じた。


 たまに母が様子を見に来るが、そのときだけ姉は心配そうに俺の顔をのぞき込み、熱が下がってきただの、もう少しで元気になりそうだのと答えた。

 母はいつも、そう、とだけ答えて戻っていった。


 当時の俺は、同じ部屋にいるだけで会話も交わしていないのに姉はよくわかるものだと思っていたが、今思えばあれはすべて嘘だった。

 姉はただ点数稼ぎをしたかっただけだ。

 母に対して自分がいかに有益な存在であることを示したかったのだろう。


 咳をすれば睨まれ、熱にうなされればうるさいと言われた。

 出された食事を食べきれなくても、無理に食べて吐き出しても、あとから酷く叩かれた。

 それは俺が十二、姉が十七の頃まで続いた。


 姉には感謝こそしていないが、恨んでもいない。

 子どもの頃の俺たちはそうやって生きるしかなかったから。

 ただ、いつもは俺に対して興味のなさそうな顔をしていても病気のときだけは関心を向けてくれているのかもしれない、という淡い期待を裏切られたことは、今でも棘のように刺さっている。


 もう一度寝返りを打ち、ハジメの顔を見る。

 アンドロイドは風邪などひくわけがないのに、どういうわけか奴のほうが苦しそうな顔をしていた。


「濡れなかったか?」

 そう尋ねると、ハジメは小さく頷いた。

「はい。どこにも異常はございません」

「そっか、よかった。もし少しでも調子悪くなったらすぐに言えよ? またメンテナンスに連れて行ってやるから」

「ありがとうございます。ご主人様。……ですが、今はご自分のことをお考えくださいませ」

「あー、わかったわかった」


 やたら深刻そうなハジメに、あくまでも軽い調子で答えてやる。

 お前がそんなに心配する必要はないよ、と伝えるように。


「それにしても、お前がアンドロイドで良かったなあ。こうして看病してもらえるものな。うつす心配もないしさ」


 他意はないつもりだったが、ハジメはしおらしく頭を下げた。

「申し訳ございませんでした。私が傘を1本しか買わなかったばかりに……」


 そんなはずはないのに、ハジメの顔はどこか青ざめて見えた。

 どうやらずいぶん傘のことを気にしているようだった。

 いや、もしかしたら傘のことだけではないのかもしれない。


「なあ、ハジメ」

「はい」

「もう一度売店に行ったとき、傘はもう売り切れていただろう?」

「……はい」

「ということは、お前が買わなかった分、他の誰かが傘を差して帰れたってことだ」


 そう言ってやるが、ハジメは首を振る。


「もし私があのお子さんのことを気にしなければ、ご主人様はもっと早く帰ることができました。そうすれば雨に濡れずに済んでいたかもしれません」

「……あのな、ハジメ。それは違うだろ」


 布団の中から腕を出し、そっと頭をなでて言い聞かせる。


「いいか? もしお前が気付かなかったら、あの子どもは手すりを乗り越えて下に落ちてたかもしれない。そしたら取り返しのつかないことになってた。わかるか?」

「……はい。ご主人様」


 よしよし、ともう一度頭をなでる。


「一緒に親を探してくれてありがとうな。案内も助かった」

「……恐れ入ります」


 どうやらひとまずは納得してくれたようだ。

 それでも、ハジメに伝えたいことはまだ他にもあった。


「それと、行きの電車で席を譲ってくれてありがとうな。人間は必ずしもアンドロイドに優しくはねぇけどさ、それなのにお前はいつも優しくしてくれるよな」

「……私でお役に立てるのであれば、光栄でございます」


 俺は口元をゆるめて目を細めた。

 そしてまたハジメをなでる。


「看病してくれてありがとうな。……俺を、一人にしないでくれてありがとう」

「……もったいないお言葉です」

「もったいながらずに受け取れよ。俺にしちゃ大盤振る舞いだぜ」

「ありがとうございます」


 ハジメの表情はまだ曇ったままだった。

 俺はその頬をむにゅっとつまむ。


「ほひゅひんふぁま」


 間抜けな声が響き、思わず笑ってしまう。


「だいじょうぶだから。そんな顔するなよ」

「……ふぁい」


 手を離してやると、ハジメはそっと包むように俺の手を握った。

 そして自分の額に押し当てる。


「……どうか、早くお元気になられますように」


 その姿はまるで祈りのようだった。

 アンドロイドは、いったい何に対して祈るのだろう。

 ふと、そんなことを思った。

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