喝采

雨山

第1話 亜子という女

 寝起きはいいほうだ。二度ほど寝返りをうったあと、のんびりと目を開けた。鳴り出す前のスマホのアラームを止め、静かに床に足をおろす。亜子のベッドは窓側、隣室からいちばん遠い位置に置かれているが、いつも通りなら同居人が帰ってきたのは亜子が寝ている間だ。つまりはまだ寝入って長くない。できるならば起こしたくなかった。

 亜子の起きてからの行動は出社日に限り毎日変わらない。多少のイレギュラーには対応できるようになったが、それでも朝からいつもと違ったことをしてエネルギーを消費したくないのだ。一日に使えるエネルギーなんてたかが知れている。

 無理せず生きていくために何より大切なのはルーチンだと気づいたときから、亜子はまず生活リズムを整えるようになった。日付の変わる前に寝て、だいたい七時間の睡眠、朝は出社時刻の二時間前に起きる。つまり七時に業務開始であれば、五時に起きるので二十二時までには寝る。

 くあ、と誰にはばかるでもなく大きなあくびをしながら、保温ボトルに入れるための紅茶を淹れる。ちょうどボトルとプラスマグカップ一杯ぶんを淹れるので、砂糖とミルクを投入して朝ごはんとする。糖分とカルシウムを摂っておけば亜子の頭は満足なのだ。その間に顔を洗い、スキンケアをし、着替える。退社後にほとんど予定を入れない亜子にとって、マスク生活での化粧は日焼け止め、ルースパウダー、アイブロウ、アイシャドウ、たったのそれだけだ。いつもと変わらない道具を使うも、体調や気分で肌の調子が良かったり悪かったりするのがものすごく解せない。ゆらぎ肌、面倒にもほどがある。クソ、パウダーがべたつく、と思いながらミルクティーを啜る。

 亜子は身長が低いわりに体重はあるのでぎりぎりBMI『普通』である。見た目にあまり反映されないおかげで(体重を言っても信じてもらえたことがない)、年がら年中痩せる宣言をしていながら、とうとうここまできてしまった。年内に亜子は三十になる。専門のアドバイザーに診断してもらった骨格タイプ・ストレートを信じ、上半身はタイトなシルエットに、ウエストマークでボリュームのでてしまうスカートのラインをごまかす。生足もベージュのストッキングも嫌いなので、亜子の足は一年中、デニールの違うタイツに包まれている。

 不器用な亜子はヘアアイロンが苦手だが、ボブカットのまっすぐの髪を内巻きにしてやるだけで、がらりと印象が変わるのを知っている。つい最近学び、ここ数ヶ月のマイブームなのだった。垢抜けたいけど何からしたらいいかわからない、そんなときはまず髪型を変えたり整えたりしてみよう! これは持論ではなく大好きなアイドルの発言だった。眼から鱗だったので、その翌日のうちにヘアアイロンを買いに出かけた。同居人のみどりは信じられないくらいフットワークが軽く、明日買い物行かん?という一言に、ええで〜、と返してくれた。いつものことだった。

 歯磨きよし、日焼け止めよし、鞄の中身よし。全身鏡に姿を映し、まあだいぶ太いがええやろ、スカートかわいいし、と己を納得させ、そうして支度を終えて亜子は出勤する。日の出もまだのこの季節は、薄暗くて肌寒くて好ましい。二人ぶんのゴミの入った指定ゴミ袋を格子のボックスに押し込む。生活リズムの不規則なみどりに代わり、ゴミ出しはいつも亜子の仕事だった。間違いなくこなせる家事がそれくらいしかないともいう。

 亜子は地味な出版社に勤める、どこにでもいるアラサー女である。幼なじみのみどりが上京したのち、数年経ってルームシェアを申し込んだ。みどりはシェアハウスを転々としていたので、なら私と住もうよ、とお願いしたのだった。二つ返事でオッケーと笑うみどりは、たぶん、自分の損得より亜子のことを心配していたのだと思う。かくして二年ほど前に女二人での暮らしが始まった。

 一週間ぶりの出社だった。新型ウイルスの蔓延により、亜子は在宅勤務を手に入れていた。みどりは現場にいなければならない職種なのでいつも家にいないが、一人でのんびりキーボードを打つ時間は亜子のメンタルにとって最高の薬だった。


 人間って、なんで『できる人』と『できない人』がいるんだろう。いつも思う。中学生くらいのときから感じていた。何事にも、『できる人』と『できない人』がいる。個性ととるか、能力ととるか。亜子にはいまだにわからない。


 亜子という女は、そもそもが繊細なのだ。神経質、というのとはすこし違うのだと思う。基本的には楽観的で、笑顔の絶えない人間だ。そうやって外面をとりつくろって、無理しているつもりもないのに長くは保たない。細かなところで鈍くなれず、あらゆることが耐え難くなる。四大を出たので社会人になってもう七年目だというのに、すでに五回の転職を繰り返している。しかも、一年間ほど傷病手当をもらいながら療養していた時期があるにもかかわらずだ。亜子は双極性障害という診断名に、時にパニック障害をもちあわせる。今は正社員っていいなあと思いつつ、これ以上は履歴書がしっちゃかめっちゃかになると考え、派遣社員として職場を転々としている。気分で職場を変えても履歴書に書き足すことは何もない。

 次に、亜子はいつも誰かを好きになっていたがった。実際に交際関係になったことはないが、同性のことも好きになる。中学生のときに同級生の女の子に一目惚れし、当時はそもそも恋愛自体に興味がなかったので自覚はなかったが、あれは間違いなく恋だった。大学生のときにようやっとバイセクシュアルであるということを自覚し、でも気になる女の子に近づいても友人としか見てもらえない。ゆえに男女ともに恋愛対象なのに、付き合ったことがあるのは男性だけだった。ここでも亜子は長続きしなくて、いろんな理由で付き合っては別れてを短いスパンで繰り返していた。ワンナイトもある。

 最後に、最重要事項。亜子はみどりを好きになりたくない。大切な、大切な友人なのだ。亜子のだめなところをほとんど全部知っていて、それでも一緒に暮らしてくれる。遊んでくれる。笑ってくれる。亜子は友だちが少ない。初対面でもどんな場所でも、すぐに誰とでも仲よくなれるが、その後、より親しくなるかと言われればそんなことはない。亜子が友だちであると言えるのは、せいぜい五人にも満たない人数だ。そのなかでも、長時間一緒にいても大丈夫なのが、みどりなのだ。同性も恋愛対象になる亜子にとって、みどりを好きにならない、というのはとても重要な決め事だった。


 みどりは、亜子から見ると、たいていのことは『できる人』だ。そして、そんな彼女ができないことが、恋愛なのだった。みどりは恋をしない。誰のことも性的な対象としない。アセクシュアル、というやつなのだと思う。ただ、『できない』というのは亜子の主観であり、みどりにとっては恋愛など大した意味をもたないことなのかもしれなかった。亜子の恋バナをおもしろそうに聞き、アドバイスもくれるから、彼女なりの恋愛観はあるのだろう。

 そんなみどりのことが大好きで、この距離感が大切だから、亜子は絶対にみどりを好きにならない。


 満員電車の嫌いな亜子の意見を優先して、二人は都内を外れた始発駅のある土地に住んでいる。もっぱら都内のあらゆるところで仕事のあるみどりにとっては、移動時間ばかりかかる面倒な立地に違いない。でも、みどりは一度も文句を言わなかった。どうせ帰りはタクシーだし、と笑うのだ。

 駅まで徒歩五分、六時ちょっとの電車に乗って、亜子は出勤する。いつもの時間、いつもの車両、いつもの席。ノイズキャンセラーつきのイヤホンをして、好きな音楽を聞きながら目を閉じる。降りる時間を把握しているから、数駅前まではとにかく心を無にして過ごす。職場に着くまでに何かしらの甘い飲み物を買う。この種類は気分で決めるので、ちょっとした楽しみでもある。ルーチンは楽で、亜子みたいな弱い人間の心に大変やさしいが、亜子は『選ぶ』というルーチンも欲張っていく。

 今の職場には、ちょっとだけ気になる男の子がいる。まったく別部署で、話したこともないが、見目がタイプなのだ。ちょっと野暮ったくて気の弱そうな感じ。たぶん、気は利かないけどやさしい。亜子はプライドの高い人間が嫌いだった。亜子もプライドが低いほうではないが、ばきりと折られたり笑われるのが嫌という小心ゆえに、先に隠しておくことにしている。だからこそ、剥き出しのプライドで他者を下に見て平然としている人間が恥ずかしくて仕方ない。だから、名前と部署と年齢しか知らない男の子(亜子より五つも年下だった)が、身の丈にあっていてかわいいなと思うのだ。このご時世じゃ飲み会もないだろうし、それ以前に、正社員のあの子と派遣社員の亜子では知り合うきっかけもない。オフピーク出勤でせっかく人気のない社内ですれ違えるのに、同等でないから亜子から声をかけることなんてできない。

 自販機でカフェオレのボタンを押して、落ちてきた缶を拾い上げる。あち、と誰にともなく呟いて、会社に向かう。すてきな恋がしたい、というよりは、好きな人を追いかけて落としたい。あるいはさっさと抱き合いたい。ピッと押して落ちてくる、そんな自販機みたいな恋愛を繰り返したい。業務開始後の一時間以内で飲み干すちっぽけな缶コーヒーみたいに、一度あつく抱き合ってさよならしたい。

 同時に、鞄のなかでいつまでも保温されていて、帰宅するまでずっと一緒にいるサーモボトルのなかの紅茶みたいに、大切に人生を歩んでいけるような人を欲している。亜子は恋多き女だが、本気で誰かを愛したことはないのだと、自分ではそう思っている。そういう、数少ない稀有な友だちが恥じらいながら言う、愛、を亜子は知らない。

「みどりちゃん、起きたかな」

 七時ごろには起きるとダイニングのテーブルにメモがあった。トーク画面にみどりからのメッセージはない。時間がきたら、スタンプでも連打しておいてあげよう。プルタブを開けないままの缶をコートのポケットに突っ込み、社員証をかざしてドアを開ける。今日も絶対に定時ちょうどに上がって、用事もないまま帰宅して、だらだらしてちょっとだけダイエットの筋トレをする。それが亜子という女なのだ。

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