第二章 九歳と十一歳

第1話 梅契り「あねさまがピリピリするのも仕方ないんよ」

 古に、鵜野うのの上帝と呼ばれた女帝がいた。彼女は皇后を経て帝になった希有な女人で、様々な政治的手腕を発揮した。

 彼女が定めた出仕(見習い)制度は、今も受け継がれている。とくに女性官僚の卵となる女官職出仕を『むろの花』と歌に詠んで言祝ことほいだ。

 禁中において女官職出仕が『花室かむろ』と呼ばれるのは、この歌が由縁である。


 女官が寝起きする内侍直曹ないしじきそうは、表御座所と后妃御殿の中間に位置するため、中奥とも呼ばれている。三列に並んだ対の屋には、使用人が出入りする勝手口とは別に、女官が出仕するための板張りの長い渡り廊下が宮殿まで伸びている。

 御所ことばで「おめんどう」と呼ばれる板の廊下は磨き上げられ、足袋しとうずの運びも滑るように美しくなる。──はずなのだが。

「いってまいりまーすっ!」

 早朝のおめんどうに、子鹿の群れのように弾んだ足音が響き渡る。まだ日も昇りきっていないうちからの喧噪に、宿直とのい明けの内侍が目を三角にして叱りつけた。

「こらっ! 花室かむろは走ったらあかんて、なんべんうたらわかりはりますのや!」

真鶴まなづるの掌侍さま」

 この対の屋では二番目に年長の姉女官に仁王立ちで見据えられ、少女たちは震え上がった。しおしおとうなだれる少女たちを端から端まで睨めつけながら真鶴が続ける。

「優美でおしとやかなはずの花室が、御所で走っとったら主上おかみががっかりしはりますやろ」

「ごめんなさい……」

直曹うちん中でしてはる事は、表におっても出てしまうんえ? なにより、おっきい花室がみっともない事してたら、ちっちゃい花室ちゃんが恥かくことになります。ええか、楓。金輪際、走ったらあきまへんえ」

 楓──沙良は硬直したまま頷いた。その手を引いていた女官職出仕がのんびりと口を開く。沙良よりも年長の、下ぶくれにつぶらな瞳を持った愛らしい少女である。

「あねさま、あんまり怒らんといてや。角が生えたらどないしはるの」

真菰まこも!」

「今年もたくさん梅ひろいますさかい、許したってや! みんな、はよ逃げよ」

 十二才の真菰まこもが身を翻すと、少女たちはおいどを落として、すり足でそそくさとその場を後にする。

「梅もええけど、登用試験はどないすんのや……って、ああもう」

 真鶴はこめかみを抑えて、長くため息を落とす。その背中に、橘がやんわりと声をかけた。

「真鶴ねえさま、おかえりなさいませ」

「また、朝からお小言いってもうた……」

 しかし叱らねば、恥をかくのはあの子たちなのである。うな垂れる姉女官に、橘はそっと麦湯を差し出した。


 五月雨の候、早朝。女官職出仕は禁野しめので梅狩りをする。大きい花室は背に籠を、小さい花室は手に籠をもって、なだらかな山の斜面に広がった梅林に散っていく。

 青々と葉を伸ばす枝には、青梅がころころと実っている。日の出より前に起きるのはつらいけれど、初夏の梅林の涼やかさは長雨のうっとうしさを吹き飛ばしてくれる。

 去年と比べると、沙良の手つきも格段に素早くなっていた。沙良は小さいので、背の低い梅の実しかちぎれないが、姉女官の横で籠を持つのも嫌いではなかった。

「あねさまがピリピリするのも仕方ないんよ」

 真菰は手慣れた様子で次々に青梅をちぎる。あっという間に籠いっぱいに青梅が入ってしまう。

「どうしてですか?」

 と尋ねる沙良に、真菰はまたひとつ青梅を差し出す。そして、沙良に小さな籠を持たせ、己は大きな籠を背負うと、水場へと促した。

「去年の秋に権の掌侍が一人やめたやろ。イケズの内侍や」

 こくんと頷く。イケズの内侍はもちろん仮名ではないが、沙良や他の女官職出仕のなかではその女官はイケズで通っていた。

 橘より一つ年上の、きつい顔立ちの女官だったことを覚えている。花室たちの一挙一動に目を光らせて、少しでも失敗するとあげつらって笑うような少女だった。

「うちらはいなくなって清々したんやけど、辞め方があかんかったな」

 沙良は首を傾げた。橘からは、イケズの内侍は昇任試験に落ちたから辞めたと聞いている。

 真菰曰く、実はそれには続きがあるらしい。辞めた女官は一の院の御所に〝おとぎ女官〟として引き抜かれたのだという。沙良は目をまあるくした。

「お伽……おきさき女官にですか?」

「お妃女官は、あねさまの前では禁句やで」

 楠の木陰に腰を下ろし、清水を汲んだ盥に青梅を転がす。水に漬けた玉響たまゆらに、虹色の波紋がきらめく。

「何がお妃女官やの。お役女官の恥さらしもええとこやわ、なーんて返ってくるよってな」

 真菰があまりにも真鶴の声の特徴をとらえているので、沙良はちょっぴり笑ってしまった。

 梅の実を傷つけないよう、丁寧に洗いながら真菰はのんびりした口調に戻して続ける。

「かえちゃんは、もう女官と女房の違いは分かりはるやろ?」

「はい。女官は、試験に合格したら官位をもらえます。それで、表向きのお世話をして、国からお給金をいただくんです。女房は、おキサキさまのご実家で雇い入れて奥向きのお世話をします。お給金は雇い入れたご実家からでてます」

「そのとおりや。あとはな、お伽女官は女房さんからしか選べん」

 それは初めて知ることだった。沙良は思わず手を止めて真菰を見つめる。真菰は器用に手を動かしながら話を続ける。

「女房さんはそれを前提に選ばれるんや。出自、家柄どちらもキサキの折り紙つきでな。キサキの方も、お手つきにしてもええ娘だと承知して侍らせとる。さすがにお手つきになったら長橋局ながはしのつぼねにうつってキサキと居住は別になるけどな」

 長橋局に移っても、女官とは名ばかりで、官位は授けられない。お伽女官になったらお役女官の技能試験は受けられないことになっているのだという。唐土とは違って、この国の女性官僚は帝の性愛対象ではない。

 公私混同を避けるため、お伽女官という控え腹を作ってあるのである。余程のことが無い限りお伽女官の子は皇子や皇女としては認められない。御子を孕んだら、臣下へ母子ともども下賜されるのが決まりだ。

「けど、一の院さんはそんなん関係なしで手出してくるんよ」

「……院さまがそんなことしたら」

「せや、みんな決まりなんて守らなくなってしまうやろ? お役女官はけっこう難しい立場にあるんやで。イケズがお伽女官になったら、他もええやろと考える阿呆が絶対出てくる。やから、厳しゅう言ってしまうんやと思う。うちらを思って、叱ってくれとんのや」

 だから、と最後の一個を洗い終えた真菰が沙良を見つめる。

「うちのあねさまのこと、嫌いにならんといてな」

 真摯な声に、沙良は頷いた。イケズの内侍と違い、真鶴は決して理不尽な責め方をしない。どうしたら出来るようになるかを何度でも教えてくれる。それは、一人ひとりを思って接しているからだ。

「きらいじゃないです。おいどを叩かれるのは、ちょっとこわいけど……」 

「そこは、おいどの内侍やから。うちも怖いし、痛い」

 真菰の返しに、水場にいた少女たちが一斉に笑った。真鶴はよく「おいどが上がってますえ!」というのだ。おいどの内侍というのは言い得て妙であった。

「うちは知っとる。あねさまは、小さい花室ちゃんには加減してるんよ。けどうちん時は本気で叩くのや。痛いでぇ」

 真菰は同年の花室とうなずき合った。確かに、思い出してみれば痛いと感じたことはない。沙良を始めとした小さい花室は、真鶴も甘くなってしまうらしい。

「……真菰ねえさまは、いいな」

「えっ、かえちゃん。おいど痛くされたいんか?」

「そうじゃないですっ。あの、あねさまと仲良しさんなのだもの」

 と言って、沙良は俯いて梅の実を洗う。

 真菰は姉のことをよく分かっている。真鶴が考えていることを察したり、それを周囲に教えてくれたり。それは、姉妹仲が深いからだ。

「なんやなんや。橘ねえさんと喧嘩したんか?」

 頭を振る。沙良は橘と喧嘩などしたことがなかった。橘に叱られたこともない。

 もう御所に来て一年になるのだし、姉の考えていることを察して、妹として役に立つような働きがしたい。

 つたないながらも真菰や他の姉女官に訴えると、彼女たちは顔を見合わせてにっこり笑った。

「よしよし、悩める末っ子に、お姉ちゃんたちが教えてしんぜよう」

 と頷きながら隣に座ったのは、若葉色の結い紐の少女だ。真菰と同年で、小松という。

「仲良しさん、いうたらアレやな」

「ええ。アレね」

 小松と真菰に挟まれて、沙良は小首を傾げた。周囲の姉たちも一様に頷いている。沙良は、もったいぶっている姉たちが口を開くのをどきどきと待った。

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