第4話 学び舎の外「御所で一番かっこいい女官だからな」


 ひととおり沙良の課題を済ませた後、稚秋が大きくのびをした。

「ま、こんなもんだろ。詰め込みすぎると目悪くするぞ」

 礼法の教書をとじるやいなや、桟枠の向こうへと飛びだしてしまう。一つに結い上げた髪を風に揺らして、身軽に地面に降り立つ動きは若鹿のようだ。

 彼が漢詩だけでなく、礼法にも通じているので、沙良は驚いていた。稚秋のちょっとした所作──筆のとり方だとか、さりげない足さばきだとか──は、彼の口調とは裏腹にきちんとしている。

 いったい、どこの家の子なのだろう、と尋ねようとして沙良はやめた。

 答えを聞いてしまったら、もう彼は黒丸を連れて尋ねてきてはくれないと思ったからだ。

「どーしたんだよ。沙良、外で遊ぼうぜ」

 どっちみち、黒丸は図書室に入れない。沙良は稚秋の誘いにのることにした。

「いいわ。そちらへ回るからまっていて」

「えー、ここからでいいじゃん」

 稚秋が頭の後ろで手をくんでいけしゃあしゃあと言う。つまり、女の子の沙良にむかって、机によじのぼって窓を飛び越えろと言うのだ。沙良は唇をとがらせた。

「なにをおっしゃってますの。まどは出入り口ではなくってよ」

 姉女官や年上の女官職出仕たちの口調をまねて、つんと横をむく。

「……わるいもんでも食ったか?」

「ちあき!」

 と、怒る沙良に合わせるように、黒丸がわんっと元気に吠えた。

「わかったって」

 稚秋は白旗をあげ、飛びついてくる黒丸を抱え上げる。沙良も早く黒丸を抱きしめたかったので、急ぎ足で図書室を後にした。

 下足棚に辿り着いて、沙良はぎょっとした。男の子達が数人集まっていたのだ。彼らは沙良に気付くことなく、蓬や菖蒲を挿した屋根を指さしている。

 御所は、端午の節会が終わったばかり。表も奥も、蓬と菖蒲の束が軒先に吊されているので、辺りいっぱいに涼やかな香気が漂っている。その軒下に、どうやらツバメの巣を見つけたらしい。

「なあ、だれか小弓もってないのか?」

 と、言い出したのは一番体格の大きい男児だった。子育てに忙しい親ツバメが飛び交う様を見上げ、袖をまくりあげる。

桃内とうないにいちゃん、すげえや」

 どうやら周囲にいるのは舎弟で、彼を止める気はないようだった。小弓がなければ石でも良いと言う始末。沙良は身震いした。

「やめて」

 気付けば、桃内とうないの前に走り出ていた。頭上で雛が危険を察知してぴいぴいと鳴く気配が伝わる。親鳥を呼んでいるのだ。

「そんなことしたら、あの子たちしんじゃう」

「はあ? だれだよ。おまえ」

 自分よりもうんと大きな男の子に睨まれて、足が震えてしまう。沙良はぎゅっと眉間に力を入れてにらみ返す。

「なあ、にいちゃん。こいつ、からもも三位さんみの子だよ」

「あばずれ典侍てんじの?」

 と、好き勝手に言って沙良の頭のてっぺんからつま先までじろじろと見てくる。品定めするような目線に沙良は喉がつっかえるような心地がした。

 けれど、燃えるような怒りが沙良をふるいたたせた。

「母上はあばずれなんかじゃないっ」

「おまえ、知らねーの? 典侍は春宮さまの乳母になりたくて、局にかわるがわる男を呼んでたんだぜ」

「そ、そんなこと、うそだもん」

「じゃあ父親はだれなんだよ。言ってみろよ」

 その言葉に、沙良は顔を歪ませた。錐で思い切り胸をつかれたような痛みを覚えた。

(そんなこと、わたしが知りたい)

 立ち尽くす沙良の前に、彼女よりひとつ分背の高い影が割りこむ。

「だっせーことしてんじゃねえよ。もも

「げっ」

 沙良を庇うように立った稚秋の顔をみるなり、桃内は明らかにうろたえた。取り巻きたちも圧倒されるように一歩下がる。

「てめえら、自分より年下の女の子いじめて楽しいのか?」

「ぼくら、なにもしてないよ」

「止めなかったんだから、おなじだろうが」

 容赦ない稚秋の返しに、舎弟たちは顔を見合わせてうなだれた。

 桃内は歯がみして稚秋を睨む。そして、後ろの沙良をぎらついた眼で見た。

「さすが、あの典侍の娘だけはあるよな。これだから学のない女は……」

かえで

 わめき立てる桃内の台詞と被せるように、稚秋が仮名で沙良を呼んだ。ぴんと弦を張ったように響く声だった。

「この野ザルに『ゆく春を惜しむ』心ってやつをかましてやれ」

 沙良は一歩踏み出して、稚秋と並び立つ。稚秋の背中に隠れているより、こうして隣合う方がかえって沙良を勇気づけた。


 春眠暁を覚えず

 処処啼鳥を聞く

 夜来風雨の声

 花落つること知る多少


 少女独特の澄み切った声は、天高くまで届く。

 少年たちにどよめきが走った。ただ漢詩を諳んじただけでなく、沙良が節回しをつけて見事に吟じたからである。

「な、……」

「いまだに『花落ちること、多少を知る』なんて読む奴に、こいつに学がないとは言わせねえよ。発声からやりなおすんだな」

 と、稚秋が鼻で笑えば、舎弟の一人が吹き出した。桃内はその舎弟に拳骨を落とすと、顔を真っ赤にして二人を睨む。

「覚えてろよ!」

「いつでもきやがれ。泣かしてやるよ」

 桃内は舎弟を置いてばたばたと逃げ出した。舎弟のなかには後を追う者もいれば、あきれ果てた顔で南庭へ駆け去ってしまう者もいた。

 その中で、一番小さな舎弟だけが残った。沙良と同じ年頃の男の子は何か言いたそうに立ち尽くしていた。稚秋はわずかに腰をかがめて彼を覗き込む。

「どーした、真礼まれ

「……ごめんなさい」

 真礼は沙良にむかって、ぺこんと頭を下げる。そして、顔をあげて羨望のまなざしで沙良を見つめた。

「すごいね。かっこよかった」

「……ありがとう」

「真礼はいい子だなー。あの中でいちばん男らしいぞ」

 沙良もそう思ったので、頷いた。真礼はまあるいほっぺを真っ赤にして照れ笑いを浮かべる。

 そのうち、南庭から真礼を呼ぶ声がした。真礼は名残惜しそうに稚秋を見上げる。

「とうたにいちゃん、あした千字文せんじもんみてね」

「いいぞ。明日な」

「楓もまたね」

「うん。またね」

 真礼は満足そうに笑うと、手を振ってその場から離れていく。その姿が南庭で駆け回る子ども達にまぎれてしまうと、沙良の中の緊張の糸がプツンと切れた。

「さ、沙良!? どうした!?」

 沙良が顔を覆ってその場に座り込んでしまったので、稚秋はぎょっとする。沙良は、全身を震わせて泣いていた。

「まさか、あいつに殴られたか?」

 沙良はお下げを揺らして頭を振る。その膝に、柔らかい温もりがのる。

 黒丸だ。前足を沙良の膝にのせて、濡れる頬をぺろぺろとなめている。その姿に、また大粒の涙が零れた。

 黒丸をぎゅっと抱きしめて、沙良はようやく言葉を口にすることが出来た。

「くやしい」

 母のことで、何ひとつ言い返せなかった。父の名を問われても、答えられなかった。

 そして、沙良が母を信じ切れないでいることを第三者に暴き立てられて、腹が立った。

「……なあ、沙良。湖月教本こげつきょうほんってどうやって作られたか、知ってるか?」

 稚秋は片膝をついて、沙良に女文字の教本を差し出した。一の院の御代に名を馳せた女流文人による葦手のいろは四八十文字が何通りも書かれている。

 沙良が首を振ると、稚秋が「そうか」と返して、黒丸の首を撫でる。

「おれや沙良が生まれるずっと前、お役女官がなくなりかけたんだ」

 古代より女官の出仕は「夫有ると無き、長幼を問うことなく」希望者を募り、男性官僚と同様の考選(勤務評定)を行っていた。

 唐土もろこしの後宮とは違い、この国の女官は帝の性愛対象ではない。帝の政務と日常を支える役割を持っている。だから女官の既婚未婚が不問なのである。

 しかし、一の院の御代において、お役女官の地位は軽んじられた。女人は体力的に男性に劣る。仕事を持つのではなく、夫に守られて子を産むことこそが美徳だとされた。

 女人にとっては絶対的に不利な時代を『湖月』は自由に渡り歩いた。男に依存するのではなく、自分の才能ひとつで生き抜いたのである。

 彼女の存在は、自由のない女の「身」に苦しんでいた女人たちの「心」を奮い立たせた。

 一の院がお役女官を廃し実務から遠ざけようと画策しはじめたところで、湖月は動き出した。

 社会的地位や官位こそ持たなかったものの、諸芸百般に秀でた彼女は、権力者たちと人脈を持っていた。そこには武家も公家もない。

 湖月は自分の持つあらゆるつてを使い、一の院と対等に渡り合った。彼女は一の院の父母とも交流を持ち、文化の担い手として一世を風靡している。

 ──その交渉に折れたのは、一の院だった。

 お役女官は安堵された。しかし、それですべての女人の人生が安堵されたわけではない。相変わらず、女子の識字率は下がる一方だった。実家で、婚家で虐げられる者もいた。

 晩年にさしかかった湖月は、後世の女子おなごが生きづらくなることを憂えた。そしてその一助になればと、女子向けの教書作りに邁進した。その活動に感銘を受けたのが、一の皇子──当今の帝である。

「それで、今の帝になってやっと女官職出仕も学堂に来られるようになったんだと」

 沙良の涙は止まっていた。教書をもつ手が震える。見慣れているはずの使い込まれた教書が、何よりも尊いものに思えた。

 湖月の筆跡はくるくると自在に走る、軽やかな舞のようだ。そこに柔らかさもあわさり、折れない強さも伝わってくる。そこには、湖月の不屈の精神が宿っている。

 そして、『湖月教本』の表紙には、知恵の神──文殊菩薩が描かれている。画も湖月によるものだ。

「文殊菩薩って、なんで獅子の上にすわってんだろうな?」

 ふっくらとした笑み、豊満な体躯。文殊菩薩は獅子の上に座して、英知に満ちた瞳で柔らかく沙良を見つめている。

 沙良ははっとして教書をめくる。末尾には、湖月の名の代わりにある一言が添えられていた。

「その知恵あれかし……」

 幾度となく見ては、なんとなしに流していた言葉だ。けれど、今なら分かる。

 獅子は「力」を象徴している。権力、武力、暴力。それを抑え従わせているのは、智力なのだ。

 智力は、暴力に勝る。女人にも、それは出来る。会ったこともない湖月から激励が聞こえてくるようだ。

「沙良は、今、それをやってのけたんだ。だから、真礼もかっこいいって言ってただろ? おれも、すごいと思った」

 沙良に朗吟を教えたのは稚秋だ。しかし、たったの数時間であそこまで見事に吟じるようになったのは、ひとえに沙良の才覚のなせる技である。

からもも三位さんみは、素手で世の中を渡ってはいけないと一番よくわかってるひとだと思う」

「母上を、しってるの?」

「御所で一番かっこいい女官だからな」

 稚秋が笑ってそう返すので、胸がむずがゆくなる。沙良は母に対して複雑な感情を持っている。けれど、彼女が仕事に励んでいる姿は格好いい。活き活きとした横顔は、自信に満ちている。

 そんな母が、自分と顔を合わせるとぎこちない様子になることが、悲しかった。もしかしたら、自分は要らない子なのかもしれない。御所に来て、母と近しい場所にいて「お前なんか要らない」といつ言われるのかと恐ろしかった。

「たぶんさ、三位さんみは沙良に『教養』っていう武器をもってほしいんじゃねーのかな」

「そう、かな」

「話してみればいいんだ。ケンカになったら、仲直りすりゃいいんだし。ま、仲直りできなくても、たいしたことじゃねーよ。おれなんて毎日親父とケンカしてるし」

 けらけらと笑うので、黒丸がご機嫌に吠える。沙良はふと稚秋の横顔を見た。真礼は稚秋を違う名で呼んでいた。

「とうた」

「えっ」

「とうたが、長名おさな?」

「……うん。けど、おれ嫌いなんだよな。その名前」

 と、重苦しいため息をつく。いつも活き活きとしている瞳は沈んで、表情は暗い。そんな稚秋の様子に、どのような字を書くのかと尋ねるのは憚られた。

 沙良はちょっと考えてから稚秋の袖を引いた。

「ちあき。黒丸とあそびたい」

「そっか。じゃあ泉の方に行こうぜ」

 沙良は頷いて、学舎の外へ一歩踏み出した。そうして、稚秋と二人、黒丸を挟んで突き抜けるような青空の下へ駆けていく。


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