第2話 真名「なまえ、……沙良」

        

 初夏の緑を宿す瞳が、沙良を真っ直ぐ見ている。ぽかんとしたまま、沙良もまた少年を見つめる。

 彼は、みずらを結っていなかった。武家の子息のように後頭部で一つに括っている。馬の尾のように揺れる黒髪はつややかだ。

「……どっか痛いのか?」

 まさか話しかけられるとは思わず、沙良はかめにはりつくようにして首を振る。

「えーと。じゃあ、ひどいこと言われたとか、されたとか」

 また首を振る。男の子と話したことのない沙良は、きゅっと唇を結んだ。

 どうしよう、と視線をさまよわせて、沙良はあっと声をあげた。少年の足下にじゃれつく白い子犬に目が釘付けになった。

「こいつ? 黒丸っていうんだ」

「……白いのに?」

「尾っぽにほら、ちびっと黒い丸があるだろ。だから黒丸。あー、こら、待て。座れ」

 沙良の興味が自分に注がれていると気付いた黒丸がかけだそうとする。その気配を察して、少年が低めの声で止める。

 ちぎれんばかりに揺れる短い尾っぽには、確かに黒い丸がある。主の言いつけを守り、ちょこんと腰を落とす姿が可愛くて、沙良は頬をほころばせた。

「……犬、好きか?」

 こくんと頷く。

 沙良は動物が好きだ。犬に限らず、猫も鳥も好ましい。虫は触ることが苦手だけれど、きれいだと思う。加茂の社は背後に山を頂いているので、常に自然のなかで生き物とふれあっていた。

「なでるか?」

 と尋ねられ、思わずこくこくと頷いた。

 何を思ったのか、少年が小さく吹き出して笑った。首を傾げると、何でもないと頭を振って子犬を抱きかかえる。

 沙良の目の前にそっと下ろされた子犬──黒丸はお座りの姿勢を崩さない。やんちゃそうな目をしているが、吠えもしないし、よく訓練されているのだろう。

「いいこね」

 そっと沙良が首を撫でると、心地よさそうに目を細め、たちまち地面に転がった。まるみえの腹をふかふかと撫でると、ご機嫌に鳴く。

 起き上がったかと思うと、沙良の膝の上によじのぼろうとする。しかし失敗してこてんと転がり落ちてしまう。その姿に、沙良は笑み崩れた。

「……かわいい」

 と零す沙良の様子から警戒が消えたのを覚り、少年はぽつりと零す。

「ほんとはさ、けっこー前から泣いてるの気付いてた。おれは、帰ろうとしてたんだけど、黒丸が動かねーもんだから」

 そうだったのか。沙良は相変わらず膝の上にのぼろうとしている黒丸を見下ろす。

 沙良が見つめていることに気付くと、黒丸もまた小首を傾げた。そのまま、またころんと地面に転んでしまう。

 あまりの愛くるしさとおかしさに、沙良は吹き出してしまった。

「なんかあったかわかんねーけど」

 膝をついた少年が沙良をみる。射貫くような真っ直ぐな眼差しに、知らず沙良の頬が熱くなった。

「ちょっとは元気でたか?」

 と尋ねられ、沙良は控えめに頷いた。そっかと少年が白い歯を見せて笑い返す。

「ここにくれば、黒丸にあえる?」

「あー……、いや、黒丸の家はべつにあって」

 少年が急にたどたどしく答える。今日しか会えないのか、と沙良はうなだれた。そんな沙良を慰めるように、黒丸が膝に前足を乗せる。その脇に手を入れて、ちょっと抱きしめる。

「なあ、名前は?」

 泣き止んだ沙良が、またうるりと目を潤ませたので少年が慌てて尋ねる。沙良が首を傾げると、少年が慰めるように続けた。

「おまえの名前が分かれば、黒丸を連れて会いに行く」

「なまえ、……沙良」

「……もしかしなくても、それ、真名か?」

 枝を使って地面に『沙良』と書くと、少年がうろたえた。沙良はきょとんと彼を見上げる。

「うん。おかしい?」

「いや、いい名前だな。……わかった、おれは稚秋ちあきだ」

 沙良の名前の横に『稚秋』と書く。荒っぽい口調とは裏腹に、その字は美しく整っていた。沙良はじっとその二文字を見つめて、顔をあげる。

「ちあき?」

「うん」

 ちあき。稚秋。沙良がつたなく呼ぶと、稚秋ははっきり微笑んだ。

「黒丸も書いとくか」

 沙良、稚秋、黒丸。並んだ名前を見下ろして、沙良は胸の中が温かくなった。

 ちょっと前まで淋しくて、ひとりぼっちで死んでしまいそうだったのに。

「沙良、おまえ頭に葉っぱついてるぞ」

「えっ?」

「あー待てまて。お下げがくずれる。とってやるから」

 稚秋の手のひらがつむじに触れたので、沙良は真っ赤にして俯く。稚秋が触れていたのは玉響たまゆらのことで、すぐ彼は離れた。

「ほら」

 と、辰矢が沙良の手の上ではらりと落とす。それは美しい青もみじだった。

「きれいな形だし、文に添えるのもいいかもな」

「あ! おつかい!」

 急に思い出して、沙良は慌てた。膝の上の黒丸を抱え上げて、鼻先をくっつける。

「ごめんね。もどらなきゃ」

「ひとりで戻れるか?」

「うん。黒丸、またね。ちあきも」

 名残惜しいが、稚秋は「会いに行く」と言ってくれた。約束を破るような人でないことは、その瞳を見れば分かる。

「またな」

 稚秋が黒丸を抱え上げ、その前足をぷらぷらと揺らす。沙良はほんのり笑って元来た道を戻った。

 いつのまにか、藤の花がこわくなくなっていた。


 常磐からの返事を持って柊の局に戻る。その庭に、出かけたときにはなかった氷柱花を見つけて沙良はびっくりした。

 そんな沙良に気がついたのは、先ほどまで一緒に床磨きをしていた少女たちだ。目を白黒する沙良に、彼女達はくったくなく笑いかける。

「おつかれさま。禁苑からのおすべりよ」

「おつかいをおえたら、いっしょに遊びましょうよ」

 と、誘われて沙良は迷う。ちょっと前の沙良だったら俯いて首を振るのだが、この時は思わず頷いてしまった。

 沙良が首肯したので、少女たちは嬉しそうに笑う。

「ないしさまに、お渡ししてくる。まってて……くれる?」

「待ってるわ」

「ゆっくりでいいのよ」

 なんだか、沙良はむずがゆくなった。黒丸と稚秋の存在が、沙良の背を押してくれた。

 そんな沙良の様子をみて、端近に居た橘が微笑む。

「ないしさま」

 沙良は橘のもとへ走り寄った。彼女の傍らには、庭のものより一回り小さな氷柱花が置かれていた。中には薄紅の躑躅がひっそりと咲いている。

「沙良、おかえり」

「ただいまもどりました」

「まずは、麦湯をおのみなさい」

 橘はつくろいものを置いて、手ずから麦湯を飲杯いんぱいに注いだ。差し出された飲杯を受け取りこくこくと飲みほす。

 文をなよらかに広げながら、橘は柔らかく目を細めた。

「常磐にね、侍名さぶらいなについて相談していたの」

「さぶらいな?」

「宮仕えの間に用いる仮名よ。女の子はね、家族以外には背の君にしか真名をお渡ししてはいけないのよ」

 沙良はえっと声を上げる。ついさっき、知らずに真名を男の子に告げてしまった。

 固まる沙良をよそに、橘は続ける。

長名おさな(※幼名)でも良いのだけれど、女の子はほとんど小姫とか、大姫でしょう? だからお室親へやおやがつけるのよ。あ、そんな顔しないで。初めてだからって、変な名前をつけるつもりはないわ」

 橘は沙良の表情から、名付けに不安をもたれていると勘違いしたらしい。沙良はぶんぶんと首を振る。

「ちがいます。ないしさまにつけていただけるなら、なんでもすてきです」

「まあ。沙良ってば。……三つまでしぼってみたの。見てくれる?」

 橘は短冊を出して床に並べた。沙良の瞳の『浅葱』色、御所にあがった『青葉』の頃、そして。

かえで……」

「この文に添えてくれた青もみじを見て浮かんだのよ。あたしの侍名とちょっとおそろいなの」

 稚秋がとってくれた青もみじをゆかりに、橘とちょっとおそろい。沙良は迷わず『楓』を取った。

「楓がいいです。ないしさま」

「本当? じゃあ、楓にしましょう」

 こくんと頷いて、沙良は『楓』の短冊を胸に抱いた。その頭を撫でながら、橘が続ける。

「侍名が決まったからには、よいかげんに『内侍さま』はやめなくてはね」

「?」

「奥御殿に内侍はたくさんいるわ。だから、室子へやこはお室親へやおやを『あねさま』と呼ぶのよ。今から先は、内侍さまと呼んでも返事をしてあげないから」

 悪戯っぽく言われて、沙良は湧き上がる嬉しさに頬を染めた。一人っ子の沙良にとって、姉妹というのは憧れの存在だった。

 良いのだろうか。本当に。

 窺うように橘を見つめると、彼女は優しく目を細めている。沙良はおそるおそる口を開いた。

「あねさま」

「なあに? かえで

 ぎこちなげに呼べば、橘が明るく応える。くすぐったくなるようなやりとりに、沙良はやっとこれから御所になじめるような気がしてきた。

(……黒丸もいるし)

 この御所にいれば、小さな子犬と、その飼い主の少年──稚秋にまた会える。

 稚秋は沙良の真名を知っても吹聴するような少年には見えなかった。知らずに教えてしまったことを伝えて、『楓』の方を覚えて貰おう。

 沙良、と呼ばれなくなるのは淋しいけれど。


 そうして、沙良は『楓』となり。

 后妃御殿の女官職出仕としての日々が始まった。



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