カラスの目

 カラスは自分をいじめたやつのことを忘れないらしい。そいつの後をつけ必ず報復するのだ、と何かのテレビで言っていた。


「あ、ごっめぇん! あたし消しゴム忘れちゃったぁ」


 私の一つ前に座る女子が猫撫で声でその隣の男子に言った。

 ぞくりと私の背筋が粟立つ。


「じゃあ俺、消しゴム二つ持ってるから」


 そう言って男子、としき君が消しゴムを差し出すと、


「あっ」


 二人の手が当たり、消しゴムが床に転がった。

 その女子、まこちゃんがせいぜい申し訳なさそうに拝んで、


「ごめぇん、マジでごめん! あたしドジだからぁ」


 つばを吐きかけてやろうかと思った。

 としき君がさっと消しゴムを拾い、まこちゃんの机に置く。


「いいよ別に。ていうか、お前ほんとにドジな」


「えーひどーい。まあドジだけどぉ。あ、消しゴムありがとー」


 私は鳥肌の立つ二の腕をさすって顔を伏せた。

 ふつふつと敗北感が沸き上がってきそうになり手首に爪を立てて、耐えていた。


 二時間目の授業が終わって休み時間。


「ね、かえでちゃん。さっきの発展問題、意味分かった?」


 私の席に友達が来た。

 ボーイッシュな短い髪に男子を合わせてもクラスでは背の高い方に入る女子、ゆいちゃんだ。


 と言っても、小学五年生は女子の方が先に成長期が来て、グッと背が伸びる子が多い。私はまだ小さい方だけど。


「うん。私も難しくて」


 そう答えながらチラリととしき君に目を逸らしてしまったことをゆいちゃんは見逃さなかった。


「大丈夫、かえでちゃん?」


 心配そうに訊いてくる。ゆいちゃんは私がとしき君を好きなのを知っているのだ。


 まこちゃんが悪い子だという訳ではない。それでも私が苛立つのは、まこちゃんが邪魔な虫だからだ。


「うん、ありがと。さっきはちょっとウザかったけど」


 小声で笑い掛けると、ゆいちゃんは「うわ、毒舌だ」と苦笑した。


 少しだけ、しまったと思った。ゆいちゃんはあまり人の悪口を言い合うのが好きじゃない。


 軽蔑されたくなくて先回りして「もうしません」とおどけながら、内心本気で反省する。


 給食の時間になった。

 私は今週の給食当番だったので、わかめスープを器に注いでいく。


 隣ではまこちゃんがご飯をよそっていた。

 時々のろのろと動きが遅くなる。しゃもじでよそうだけだが「あっ失敗しちゃったぁ」と呟いてみたり。


 何をやっているのか、意識を向けてから気付いた。

 としき君が見ている時だけ「ドジっ子」とやらを演じているのだ。


 としき君がまこちゃんに近付く。


「ちょっとおせ―よ、お前」


 責めてる風ではなくじゃれ合うような、からかうような口調をまこちゃんに。

 嫉妬が胸を締め付け、当番マスクの下で唇を噛む。


「だってぇあたし、かえでちゃんみたいに器用じゃないしぃ」


 何故そこで私を引き合いに出すのか。

 まこちゃんが視線で「合わせなさいよ」と命令してきた。


 それを無視して私は早口に言う。


「別に私そんなに器用じゃないよ。ていねいに注がなきゃこれ陶器だから、落としたら割れるし」


「あ、だよな。プラスチックにすればいいのに。たまたま手が滑っても割れたら弁償とか、どうなの」


 としき君が応えてくれたことに胸が弾む。


「うん、私もそう思う。けど、物を大切にしましょうみたいな意味で、陶器になったって聞いたことあるよ」


「え、どゆこと?」


「プラスチックだと落としても割れないから、落とさないように気を付けようって子供が思わなくなる、みたいな」


「えー、つっても普通、プラスチックだろうが中身こぼれるの嫌だし、気を付けるだろ」


「ああ、確かに。ま、私の話も本当か分かんないけどね」


 としき君と一緒に苦笑交じりに吹き出す。


 としき君ならこんなどうでもいい話でも楽しそうに相槌を打ってくれる。としき君とならこんなたあいない会話でも今日一番の幸せな時間になる。


 と、それを遮るようにまこちゃんが口を挟む。


「てゆーか、かえでちゃんもうスープ注ぎ終わってるじゃん? ねぇご飯よそうのやってよ」


「え、でもまこちゃん、」


「えーいいじゃぁん! だってあたしドジだし、のろまだもん。あたしお皿運ぶのやるから、かえでちゃんおねがーい」


 まこちゃんはさっさととしき君の腕を取り配膳係に回った。


 私は一度呆然として、次に唇を噛み締めて、黙々とご飯をよそい始めた。


 一部始終を見ていたゆいちゃんに「ご飯よそうの替わろうか」とそっと気遣われて、「……平気」と答えた。私の声は固かった。


 配膳係に回り、まこちゃんととしき君のじゃれ合いを見せつけられるより、機械的にご飯をよそっている方がましだ。

 しかし、それを説明するのは余計に惨めさが募る。


「分かった」とあっさり引き下がって、それ以上何も言って来ないゆいちゃんの優しさにかろうじて救われた。


 放課後、外は雨が降り始めていた。


 私とゆいちゃんは好きな本の話で盛り上がっていた。

 前の席にいるとしき君が何かノートに書いていて、まこちゃんがつまらなそうにランドセルのストラップをいじっているのが見えていた。


 そのうちとしき君の友達の男子がやって来て「帰ろーぜ」と誘ったので、としき君が立ち上がった。


「あ、あたしも帰ろう」


 すかさずまこちゃんが席を立つ。そのまま金魚のフンみたいにとしき君にすり寄ろうとした。


 その時。

 教室の出入り口付近まで来たまこちゃんが足を滑らせた。

 漫画みたいにスッテンと転んだ。


 ガンとお尻を思い切り打ったらしい。まこちゃんはぽかんと口を開けて、ランドセルを背負って床にしりもちをついたまま不格好に固まった。


 雨のせいで湿度が上がってどこもかしこも滑りやすくなっているのだ。


 としき君の友達がまこちゃんの様子に爆笑した。


「うっわあ! お前ってほんとにドジでのろまなんだな!」


 悪気があって言ったことではないだろう。

 そのままとしき君と連れ立って教室を出て行った。


 しばらくしてまこちゃんがしくしくと泣き出した。


「ひどい。あたしがドジなのはあたしのせいじゃないのにぃ」


 私の横でふっと息を吐く気配がして、私はゆいちゃんを見上げた。


「自分で種蒔いといて、よく言うよ。流石にあそこまでいくと痛いね。悲劇のヒロインもどきは」


 天気の話をするよりもフラットな声音。


 私は耳を疑った。ゆいちゃんは憐れむようにまこちゃんを観察していた。


 すっと背筋が凍るような思いがした。

 ゆいちゃんはカラスが獲物を見つけたような鋭さで目を細めた。


「かえでちゃん。そろそろ私たちも帰ろうか」


 私に笑い掛けた時にはもう、いつもと変わらないゆいちゃんだった。

 私は声が出せず、ただただ頷いた。





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