間章 参<花風>

 風が吹いていた。

 それは僅かに頬を撫でるほどの風であった。

 しかし、風は眼下に広がる花原に揺らぎを生むには十分すぎた。

 まるで大海の上に揺れる小舟のように、見下ろす少年は眩暈さえ覚えた。

 思わず、握る手に力を込めてしまう。少年の指の力に、傍らにいた少女が小さく痛みを訴える。

「ご、ごめん」

 慌てて少年は手を放し、しかし代わりに少女の腕に優しく手を添えた。

 明るい樺色の髪をした少女は、頤を上向けて風を浴びる。心地よさそうに、小さくほうとため息をつくと、胸いっぱいに風を吸い込む。

「私、今……風を飲み込んだの」

 鼻孔に感じる冷たい空気を、体いっぱいに満たすように。

 風には花原で揺れる白鷺花の香りをたっぷりと含んでいた。

 だが少女は花を知らない。見下ろすことさえできない。

 少女の目は、光を失っていた。

「白鷺花の香り、雪の色、雲の色……そう教えてくれたんだっけ」

 花原が轟いた。

 幾百、幾千もの葉が波に揺れ、互いに打ちあい、海原のような音を立てる。

 だが、少年と少女は、海を知らぬ。


「ねえ、雲ってなぁに?」

「……知らない」

 少年は頭上を見上げた。

 白く霞んだ空。その中で、一際明るい光輪。

 もしその場にいる者であれば、空にかかった霞こそが雲であると少年に教えたかもしれない。しかし少年は首を横に振り、こう答えるだろう。

 あれは幽世かくりよとばりだよ、と。

「私ね、最近考えることがあるの」

 右手を伸ばすと、足元から伸びた草に指先が触れる。

 少女はぎこちない動きで細い茎を摘み取る。花さえついていない、頼りなく伸びた草だ。

「私は世界を知らない。こうやって触れるものさえ、どんなものかを知らない。いくら教えてもらったところで、同じものを思い描いていないのかもしれない」

 掌に乗せられた草は、強くなってきた風に乗って崖の下へと落ちてゆく。

「でも、本当にそうかしら。目で見た世界が本当の世界だって、誰が決めたの?」

「もう帰ろう、風が強くなってきた」

 少年は少女の手を取り、自分の肩に触れさせた。

 いつだったか、顔を忘れてしまった人が言っていた。


『第九層からの風は、魂を奪う』と。

 

 

 

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