第三章第二節<過去>

 豪快な笑い声が響き渡った。

 正直、トールヴァルドの笑い声がイースは苦手だった。明らかに普通ではない大きさだったし、周りには客がひしめいている。そんな場所で腹に響くほどの声を出そうものなら、怒鳴り返されても文句は言えない。

 しかし、次第にイースにも分かってきた。

 町に辿り着いた最初の晩に行った店のような場所が、ここにはいくつかあった。

 そんな店は、「洞」に挑む者たちが日々の疲れを癒し、飯を食い、酒を飲み、そしてまた「洞」へと向かうための場所なのだ。

 そこでは怒声と区別がつかないほどに声を張り上げるものが少なからずいる。賭け事に盛り上がり、武勇伝に花を咲かせ、そして本当に殴り合いが始まることもある。大抵はそんなことは日常茶飯事で、自分が巻き込まれない限り、人々は知らぬ顔をしているのだった。

 炙り肉を齧り、麦芽酒エールで流し込む。肉入り汁を啜り、塩漬けの魚を頬張る。イースにしてみれば、トールヴァルドの食べっぷりは驚くべき健啖家であった。

 しかも、それだけの量を胃袋に収めながら、途切れることなく喋り続けているのだ。料理を褒め、戦いを語り、仲間の勇気を讃える。そしてまた、目の前に運ばれてくる皿に手を伸ばす。仲間のことであれば「ここをこうしろ」「もっとああしろ」となることも多かったが、イースの話題ではもっぱら褒めるばかりだった。

 そんなとき、ふとイースはあることを思い出した。

 教会で出会ったあの少年のことだ。自分と同じ見習いをしているのだろうが、恐らくは祈りの力を学んでいるはずだ。

 トールヴァルドの仲間に聖職者はいない。祈りの力があれば、「洞」での戦いがもっと有利になるではないか。

「あの、トールヴァルドさん」

 大音声にかき消されそうになりながら、イースは話しかけてみた。

 ちょうど骨付き肉を食べ終えたトールヴァルドは、口の周りの脂を拭いながらイースの方を向いた。

「あの、ぼくのことを知ってる人で、その……あまり話したこともないんですが」

「おう、そいつがどうした」

 トールヴァルドは魚料理の盛られた皿に手を伸ばす。

「その人が、教会で見習いをやってて、だから……」

 なんて切り出そうかと言葉を探していたときだった。

 矢継ぎ早に喋り続けていたトールヴァルドが黙っていることに気づいたのは、やや時間が経ってからのことだった。

「あの、トールヴァルドさん」

「だめだ」

 トールヴァルドは低い声で短く拒絶した。

 イースは目を丸くした。トールヴァルドの、そんな声を聞いたのは初めてだった。

 トールヴァルドが何かに怒っているのは分かった。しかし自分の話のどこに怒らせる内容があったのか、イースには理解が出来なかった。

「ちょっと借りるよ」

 立ち上がったアルベリクが、イースの肩に手を置いた。


 夜の空気は、息苦しい酒場で火照った顔に気持ちよかった。

 さすがに酒は飲まなかったが、それでも冷たい空気を吸い込んでいると、体の火照りも収まってきた。

 酒場を出ても、アルベリクはしばらく何も言わなかった。

 そのまま道を歩き、通りから離れて人が住まなくなった古い家の塀に腰かける。

「トールヴァルドはね、前に息子を亡くしてるんだ」

 言葉を選びながら、アルベリクが話し始めた。

 見上げるイース。冷たい夜風がアルベリクの前髪を揺らす。

 濃い褐色の髪の奥で、アルベリクの黒い瞳はどこか遠くを見つめていた。

 イースが奇妙に思ったのは、アルベリクの口元に浮かんでいた、微かな笑みだった。

 なんで、そんな話を微笑みながらするのだろう。もしかすると、アルベリクはトールヴァルドのことをよく思っていないのだろうか。自分が知らないだけで、あの男たちは互いに憎しみ合っているのだろうか。

 だが、アルベリクの横顔には、トールヴァルドへの敵意は感じられなかった。それがイースには理解できなかった。

 そのまま星空を見上げながら、イースは独り言のように続けた。

「俺も直接見たわけじゃないけどね、そのときに教会の人間と揉めたみたいなんだ。だから、あいつは教会を嫌ってる」

 聖職者は祈りの力で癒しをもたらすことができる。

 癒し、と一言で言っても、その効果は様々だ。

 たとえば、毒蛇に噛まれた者がいたとする。その毒が全身を蝕み、死の危険があるほどであれば、聖職者は「浄めの神」に祈る。毒に冒された者の体から毒という名の穢れを拭い去り、浄めるほうが先だからだ。しかし、腫れあがり鈍く痛む程度の毒であれば、「命の神」に祈る。その者の生命力を奮い起こし、命の力によって毒に打ち克つためだ。

 イースも詳しくは知らなかったが、熱病に喘ぐ患者を前に祈りを捧げる聖職者を見たことがあった。それまで脂汗を滲ませて苦し気に呻いていた者が、安らかな寝息を立て始めたのだ。祈りの力で奇蹟を導く。それこそが聖職者のもつ力だった。

 そこでようやくイースにも理解ができた。

 トールヴァルドの息子を、聖職者は死から救うことができなかったのだ。

 だから、奇蹟をもたらすことができなかった聖職者を、そして教会を、トールヴァルドは憎んでいるのだろう。

 アルベリクが微笑んでいたのは、トールヴァルドに向けたものではなかったのだ。知らぬこととはいえ、唐突に理不尽な拒絶を受けたイースに対して、慰めるためのものだった。

 トールヴァルドの話を知らなかったのは、あの場にいた中では自分だけなのだ、とイースは理解した。あの場でイースに事実を伝えれば、トールヴァルドにもその話を聞かせることになる。かといって、理由を知っている以上、トールヴァルドを責めるわけにもいかない。

 結果として、誰かが遅かれ早かれ、イースにこのことを伝えなくてはいけないと思ったのだろう。そんな中、行動に移したのがアルベリクだったというわけだ。

「そうだったんですね」

「あとで謝ろう、なんて考えるんじゃねえぞ。あいつはそんなことを望んでるわけじゃない」

 心の中を見抜かれた気がして、イースはアルベリクを見上げた。

「このまま戻って、何もなかったみたいに飯を食ってろ。それでいい」

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