第一章第一節<深淵>

 「洞」と呼ばれる穴があった。

 直径は約1200kmを超えるほどの大穴だった。穴の周囲は岩山がそびえ、登攀を拒むかのような絶壁になっていた。

 誰しもが生まれたときから「洞」はあった。

 村の長老でさえ、物心ついたときから「洞」を縁取る岩壁を見ていた。

 知識を求める者は書を漁ったが、どれだけ時代を遡っても「洞」はあった。

 「洞」がどうしてできたのか、いつ頃できたのか、それを知ることはできなかった。

 しかし書から甦ってきたのは、「洞」についての伝説であった。



 かつて世界に「洞」はなかった。

 人々の暮らしは豊かであり、穏やかな時が流れていた。

 しかし人々は驕り紊れた。

 天秤の神は人を戒めるために雷を降らせた。それは光の槍となって地面を割り、大穴を穿った。

 戦の神は人に堕落と戦う力をつけるために魔物を放った。それは大穴の中で増え、近づくものに牙を剥いた。

 魔術の神は真実を大穴の底へと隠した。真実は宝玉となり、溢れる力は失われた魔術となって大穴に護られた。


 真実の書、と呼ばれる古文書の一つから、こうした伝説が発見された。

 それが神代の記録なのか、それとも事実をもとに編まれたのかは定かではない。

 しかし伝説を裏付けるかのように、岩山には無数の洞穴があり、それを進むと地上には存在しない類の魔物たちがひしめいていた。


「まあ、俺たちぁそんな話を信じてる大莫迦者ってわけさ」

 赤ら顔の男は、何杯目になるかもわからない安物の葡萄酒をあおった。口髭をぐっしょり濡らしながら飲み干し、顔をしかめるほどに盛大な曖気げっぷをした。

 だが男の首は猪首と呼べるほどに太い。袖から覗く腕もさほど力を込めていないにもかかわらず膨れ上がった筋肉の上に血管が浮かび上がっている。

「おっと、酒に文句は言わねえほうがいい。ここの酒は水っぽいし酸っぱいしでとても吞めたもんじゃねえが、それでも誰も何にも言わねえんだ」

「そういうあんたが、酒を褒めてるようには聞こえねえんだけどな」

 店主は腕を組みながら、赤ら顔の男を上から睨みつけた。しかし男は悪びれる素振りすら見せずに空になった酒杯をぐいと突き出した。

「そっちのあんたは、どっから来たんだい」

 今までの会話を聞いていたのだろう。酒場の店主は赤ら顔の男の隣に座った若い男に振り返った。

 冒険者、というにはその男はあまりに貧相な体をしていた。

 男というよりは少年だろうか。十五すら迎えていなさそうな顔立ちをしていた。黒い髪はやや乱れ、陰鬱な表情で深い海の色をした瞳を伏せていた。

「南の……『内地ハテノチ』の村です」

 たったそれだけを口にするだけならば、大したことはないはずだ。しかし少年は慎重に言葉を選んでいるようだった。嘘はつかない。しかし必要以上に詮索してほしくはない。だから、沈黙ではなく短い答えを選んだのだ。


 「内地ハテノチ」というのは、「洞」から離れたところにある集落のことを意味していた。

 伝説に語られている通り、「洞」からは時折魔法の品が発見されることがあった。それらは松明の代わりになる光る石の指輪や、刃毀れがしにくい短刀などの品であったが、かなりの高値で取引がされていた。当然、それらの品が見つかる「洞」には人々が富を求めて集まるようになったが、その分「洞」から離れた地域には人が減っていった。

 人が減ったことで、「洞」に近づかないようにしていた者たちは最初は喜んだ。何故なら労せずして耕地が手に入ったからだ。

 しかし、それはぬか喜びにしか過ぎなかった。人は減り続け、残されていったのは年老いた者たちばかりとなった。当然農作業ができるわけもなく、畑は荒れ、狼や獣に怯えるようになった。集落はやせ細り、残された人々は身を寄せ合うようにして暮らしていたのだ。

 ゆえに、「内地ハテノチ」に住む者は老人か、年端もいかぬ子供が多い。彼らは皆やせ細り、貧しい暮らしを余儀なくされていた。


 その様子をしばらく見ていた赤ら顔の男は、少年の頭を乱暴に撫でた。

「心配しなくてもそれ以上聞きゃあしねえよ」

 男は立ち上がると、懐から銀貨を一枚店主の前に置いた。


 ゆっくりと夜が更けていった。

 少年は、男が去ってからも何をするでもなく座っていた。店の客が減る様子はなかったが、明らかに雰囲気は変わっていた。

 酒杯をぶつけあい、談笑というよりは豪快な笑い声と怒号、それから囃し立てるような言葉が飛び交うようになっていた。

 それまでは何も言わなかった店主が、少年の前に肉入り粥の皿を置いた。

 少年は驚いたような顔をして、次に急いで首を横に振った。

「あ、あの、困ります、その、お金はないんです」

「黙って食え、金はもう貰った」

 店主は少年に目を合わさずに、先ほどの銀貨を指に摘まんで見せた。

「ただな、そんなお人好しを期待すんじゃねえぞ。それを食ったら、もう帰れ」

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