第5話

 先程まであれほど心地良く耳に届いていた店内のBGMが、蓮にはもう聞こえない。

 反して、耳の奥では時計の秒針だけが不気味に響いている。違う、これは自身の心臓の音だ。自分にすら追い立てられているような気がして、蓮はますます焦りを募らせる。

 客席には蓮とカンナギの二人しかいない。

 最初に沈黙を破ったのはカンナギだった。


「なぁ、蓮には『なんで』って思うことってあるか?」

「えっ?」


 蓮は反射的に顔を上げた。

 なんで、って思うこと……僕が疑問に思うこと……。ある、かもしれない。いや、すごくある……ような。どうせ答えは出ないだろうと蓋をして、考えないようにしていた疑問の数々。

 不安そうに俯く蓮に、カンナギはなおも続ける。


「なんで、って思うこと。すぐに答えがみつからなくてわからない、って思うこと。僕はたくさんある。それはすごくしょーもないことだったり、他の人からすれば『なんでそんな当たり前のことをわざわざ?』ってことも含めて………たくさんある」


 カンナギはここで言葉を切った。悲哀に染まった過去のうち、何を、どう話すべきか。同情を引くことが目的じゃない。

 どんな人でも、いろいろなものを背負って生きていると、カンナギは思っている。そしてその「いろいろなもの」が、必ずしも容易に言葉にできるとは限らないこと、そして、表出するにはさまざまな要素――時機、本人の心の準備、覚悟など――が求められることを、カンナギは承知している。


 少なくとも、いま自分がすべきことは、過剰な自己開示をして蓮から無理やり本心を引き出すことではない。

 蓮に伝えたい思いと、その思いを伝えうる言葉を照合し、適切かどうかを判断する。 


「……僕は、人から『おかしい』『変だ』ってよく言われる。そうだな、単に〝言われる〟というより、『おかしい』『変だ』という言葉によって僕と他の人たちとの間に境界線を引かれているって感覚に近い。お前は自分たちと違っておかしい、変なやつだ。だから近寄ってくるなってね。実際、今までどの場所でも大抵ひとりでいたんだ。子どもも、大人も、みな等しく僕の扱い方に困ってたみたい」


 できるだけ、淡々と事実を、そしてそれに対する本音をカンナギは伝えたつもりだ。すべてを伝えない代わりに、たとえかけらでも嘘偽りない気持ちを言葉にすることは、蓮に対するカンナギなりの誠意のかたちだった。


「それで、僕は――」

「……おかしくなんか、ない」


 唸るような低い声がカンナギの言葉に被さる。一瞬何事か判断がつかず、カンナギは「え?」と蓮に聞き返した。


「カンナギは、たしかに、他の人とちょっと違うところはあるかもしれない。だけど、それは断じて切り捨てられるようなものじゃない! 僕にとっては、全然変じゃないし、おかしくない!」


 カンナギの誠意が、蓮の心に火をつけていたのである。予想外の蓮の反応に、カンナギは虚をつかれ、らしくなく言葉を失した。


 ――しまった、カンナギはまだ話の途中だったと気づきはしたが、蓮はもう止まらなかった。


「僕は、僕は……! カンナギのそういう、人とちょっと違うところが……ふつうなら気がつかないような点に気づいたり、枠に囚われない考え方をしているところ、すごいと思ったんだ。僕はそんなカンナギのこと、もっと知りたいと思ったんだ。話したいって、思ったんだ……。ほら、初めて一緒に帰ったとき、ゴフマンの話してくれただろ? あれさ、すごく面白かった。もっと教えてほしいって……あ、もちろんカンナギが嫌じゃなければだけど、とにかく僕は……!」


 蓮の勢いにすっかり気圧されたカンナギは目をパチクリさせ、口も半開きの状態だ。そんなカンナギの様子にようやく気づいた蓮は我に返ったのか、耳まで真っ赤になり、「ごめん」と再び俯いて、そのまま閉口してしまった。


 カンナギは自分が何気なく話した内容を蓮が覚えていたこと、さらに「面白い」とまで感じていたという事実に、胸が熱くなる。蓮が自分に対してある程度の好意や興味を抱いているのはわかっていたし、そのことについて多少なりとも好ましく受け止めていた。


 しかし他方で、そうした「好意」および「興味」が純然たるものであるかどうかについてはあまり期待していなかった。蓮個人に対する猜疑心からではない。これまでの経験から、自分と積極的に関わろうとする人間全般に対し、カンナギは良い感情を抱くことができなかったのである。


 教室でぽつんとひとりでいるクラスメイトに声をかけることで、自身の心優しさを周囲にアピールする者。あるいは、一見仲良くするふりをして、その実裏ではカンナギの物珍しさを嘲る者。またあるいは、正義感や義務感に突き動かされたらしい善良そうな子らがカンナギに手を差し伸べたこともあった。しかし、その眼差しや態度は隠しきれない憐れみや優越感の色に満ちており、対等な友だち関係であるとは言い難かった。結局、周りから仲間はずれにされそうになると、その子達はあっさりとカンナギを見捨て、初めから関わりなどなかったかのようにカンナギの悪口に加担する側に回った。


 自尊心を満たす道具にされることも、興味本位の対象となりストレスの捌け口にされることも、優しさや正義感を持て余している子たちの気まぐれに振り回されることも、全部ごめんだ。


 だけど、蓮はどうやら今までの子らとは違うらしい。

 蓮は「カンナギ」そのものに興味・関心を抱き、同じ目線でモノを見ようとしたがっている。

 ふわふわしたような、足元が覚束ないような、はっきりしない感覚。どうやら自分は嬉しいらしい。それもめちゃくちゃ、嬉しい。カンナギは目を細めた。


「蓮、ありがとう。そんな風に思ってくれていたんだな。すごく、嬉しい」

「あ……いや、それは……そうなんだけど……」


 まだ恥ずかしさが抜けないのか、蓮は膝の上で拳をぎゅっと握り、顔を上げることができないでいる。カンナギは構わず、先程途切れてしまった続きに踏み込む。


「さっきの続きだけどね、蓮。僕は、自分が『なんで?』って思ったことを放っておきたくないんだ。わからないことを、わからないままにしておきたくないんだ」

「うん」

「それはさ、学校でやる『勉強』とはちょっと違うかもしれない。あ、僕はいわゆる『学校の勉強』は嫌いでもないけどすごく好きってわけでもない。まぁ必要性はなんとなくわかるから一応ちゃんとやらなきゃなって気持ちはあるけどね」


 店内に溶け込むように響くカンナギの声。蓮の気持ちはすっかり落ち着いていた。


「僕の疑問って、すぐに答えがでないものもあるけど、大抵は『世の中』がそうだから、『みんな』がそう言ってるから、で簡単に片付けられてしまう。でも本当にそうなのかって僕は思うんだよ。何か大切なものを見落としているんじゃないか、鵜呑みにしてしまっていいのかって。僕は、周りからおかしい、変だって言われても、疑問に思って、そして知りたくなってしまう『僕自身』を無視したくないんだ。ちゃんと自分で考えて、納得したいんだ。それが『僕を生きる』ってことだから」


 淡々と語っているのに、言葉の節々から熱が伝わってくるようだった。冷たく、分厚い氷の奥で燃え盛る真っ赤な炎のイメージが蓮の頭に浮かぶ。その静かなカンナギの迫力に、今度は蓮が圧倒されていた。


「でも、ただ疑問に感じてるだけじゃ何もならない。自分で考えるための……そう、自分で答えを導きだすための、補助線になりそうなツールを探してみたんだ。ほら、数学で幾何の問題を解くときに、補助線を引くことで見えなかったものが見えたりして解答できるようになるだろ? 僕にとって、その補助線の役割を果たしてくれそうなものが『社会学』だったんだ。心理学とか哲学の分野も興味深かったんだけど、いちばん面白くて、しっくりきたのが『社会学』。僕に合っていたのかもね」


「そっか……ゴフマンは『社会学者』って言ってたよね。カンナギが話してくれていたのは『社会学』に基づいた話だったんだね」


「そう。社会学をヒントに、僕なりに感じ、考えたことをちょっと話してたってわけ」


 おそらく、「社会学」を先に提示されても、興味は湧かなかっただろうと蓮は思った。それは他でもない、「カンナギ」というフィルタを通してこそ――


「カンナギ」

「ん?」

「さっきも言った通り、僕はカンナギのこと、もっと知りたい。そして『社会学』のことも知りたいって思う。本当なら、それこそ僕が自分で勉強すればいいのかもしれないけど、僕は……できれば、カンナギから社会学の話を聴きたいなって思うし、そこに限定せずとも、いろんな話ができたらなって思う」


 そう、知りたいなら自分で勉強すれば良いだけの話なのだ。それをわざわざ話を聴かせて欲しいとお願いしている。厚かましいだろうか、都合のいい話だろうか。蓮は俯きそうになるのをぐっと堪え、カンナギの目を見る。


「なーんだ。先に言われちゃったかぁ」

「へっ⁈」


「先に」……? それってどういう……ああ、だめだ。期待した答えが返ってきそうで、蓮は口元の緩みを抑えきれない。


「僕も、社会学のこと含めて蓮とたくさん話がしたいよ。君が望んでくれるなら、いろんなこと、僕の疑問、蓮の疑問、二人の疑問、一緒に考えていこう。しょーもないことから、大切なことまで。色んな話しよう。うん、楽しそうだ!」


 無邪気な笑みを浮かべるカンナギ。高揚感に包まれる蓮。

 そうだ、と提案したのは蓮だった。


「そ、それなら! 『社会学カフェ』っていうかたちでやるのはどうかな?」

「社会学カフェ? ああ、哲学カフェにちなんで?」

「うん、このルディックで『社会学カフェ』を開催する。といっても、そんな大げさなものじゃなくて、二人でルディックの美味しい飲み物を飲みながら話すってだけなんだけどね」


 誰でも気軽に哲学的なテーマを議論することを目的として、主にカフェなどで開かれる「哲学カフェ」。蓮は参加したことはなかったものの、哲学カフェというものが巷にあるらしいことはなんとなく知っていた。そして、その形式がこれからの二人がやろうとしている内容に合っているような気がしたのだ。


「いいな、それ! 自由に、気楽に、脱線もアリで。ただし、真面目な話のときは真剣に、自分たちで考え抜く」

「うん、よろしくね、カンナギ」

「こちらこそだ、蓮」

「いつもご贔屓にしていただいてありがとうございます。よろしければ、こちらは私からのサービスです」


 ちょうど会話が途切れたタイミングでマスターから二人に差し出されたのはクッキーの盛り合わせだった。レースペーパーの上に並べられたアーモンドにチョコチップ、茶葉が練り込まれたクッキーの数々。思い切り息を吸い込みたくなるような甘く香ばしい匂いが、焼きたてであることを伝えている。


 知ってか知らずか、まるでこれからの蓮とカンナギを応援するかのようなマスターの粋な計らいに、「ありがとうございます!」と二人の声が重なる。品の良い微笑みを返すマスターに、蓮は気になっていたことを訊ねてみた。


「あの……お店の名前、『Ludiqueルディック』って、どういう意味なんですか?」

「ああ、『Ludiqueルディック』はフランス語でして、『遊び心』という意味があるんです。実は、店の名付け親は私ではなく、孫なんですよ」

「お孫さんが?」

「ふふ。そうなんです。身内の贔屓目かもしれませんが、なかなかのセンスでしょう? 孫はちょうどあなた方と同じくらいの年齢でしょうか。たまに店の手伝いもしてくれるんです」


 饒舌に語るマスターの表情は、孫への深い愛情を窺わせた。カンナギは「へぇ、マスターのお孫さんかぁ。それは気になるなぁ」と言いつつも、焼きたてのクッキーを凝視している。

 そんなカンナギの様子に気づいたのか、「すみません、つい長話を。それでは、ゆっくりお過ごしください」と会話を切り上げて、マスターは再びキッチンへと戻っていった。マスターの背に向かって会釈をするのと並行して、カンナギが嬉しそうに

「マスターの気まぐれクッキー、すっごく美味しいんだよ。こうしてたまに焼いてくれるんだけど、本当にたまに、なんだよ。蓮が考えてくれた社会学カフェ、幸先いいな!」

 とヒソヒソ声で蓮に伝える。


「どれから味わうべきか……やはりここは紅茶、いやチョコチップだ!」


 まるで難問でも考えるような顔でクッキーと向き合うカンナギに吹き出しそうになりつつ、蓮は「お先に」とアーモンドクッキーを頬張った。

 サクサクとした香ばしい食感のあとに、やさしい甘さが口の中いっぱいに広がっていく。

 美味しい……! カンナギが力説するだけの、いやそれ以上の感動を味わいながら、蓮はこの日のことを深く心に刻んだ。

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