第9話 四人目①

「そろそろ上がる?」

「そうだねぇ……」


 そんな二人の会話を聞いて、私は溶けきった体を持ち上げた。バシャバシャと湯をかき分けて湯から上がると、岩のタイルの冷たさが足の裏から登ってくると同時に、重力に体が負けそうになった。手に持ったタオルで体をサッと拭いて、浴室を後にした。


「いいお湯だったねぇ」

「ホントにね」


 脱衣所で服を着替えてる間に、額の髪の生え際に汗が滲んでくる。入浴というのは意外にも体力を使うもので、甘やかな気だるさが四肢に張り付いている。その気だるささえも、心地よい。

 暖簾をくぐって脱衣所を出た。脱衣所の湿気を孕んだ生暖かい空気と違い、パキリとした空気に素肌が包まれて、気だるさを残した四肢に爽やかな風を感じた。私はこの感覚が何よりも好きだった。

 脱衣所を出てすぐのコインロッカーから荷物を取り出して、鞄を肩から下げる。コインロッカーの隣には牛乳の自販機があって、当然のように桜ちゃんはフルーツ牛乳、香澄ちゃんはコーヒー牛乳を買う。私もそれに続いてビン牛乳を買って、休憩所まで向かう。


「今何時?」

「ええとね、三時ちょっと前」


 牛乳ビンのポリキャップを開けて、その下の紙の蓋に手こずっていると、そんな会話が聞こえてくる。次はどこに向おうかという声が桜ちゃんから上がった。


「次? 湯畑でいいんじゃない?」

「温泉か湯畑、どっちを先に行くかって話してたもんね」


 と、いうわけで我々の次の目的地は湯畑に決まった。湯畑と言えばザ・草津な観光地だ。草津と言われて、まず湯畑を思い浮かべる人がほとんどだと思う。この前三人で見た旅行雑誌にも、でかでかと湯畑の写真がど真ん中に載っていた。

 休憩室でスマホをいじりながら、ダラダラと居座る。目的地が決まっても、なかなか風呂上がりのリラックスモードから抜け出せないでいた。


「そろそろ行こっか」

「そだね」

「うん」

 根の張った重い腰を上げて、私たち三人はようやく動き出した。鞄に入れておいた木の板のカギを取り出して、下駄箱から靴を取り出して履く。ヒールを履くのに手こずっている桜ちゃんを掴まらせて、桜ちゃんが靴を履くのを眺める。心なしか桜ちゃんの足も色白になってツルツルになっているような気がする。


 ◇


 自動ドアを抜けて、湯畑の方へ歩く。着いた頃よりも日が傾いて、気温も下がって温泉で火照った体には過ごしやすくなっていた。元々標高も高く、私たちの街よりも気温が低いのもあって、今日着てきた服では少し肌寒いくらいだった。

 古びた街並みは、観光客の多さにその喧騒を壁に反射させて佇んでいた。坂の上から転がって来た笑い声も、そのままの勢いで弾んで街へと溶けていく。


「やっぱり人多いねぇ」

「ゴールデンウィークだしね」


 なんて会話を交わして坂道を上る。コンクリートで整備されていても、急な坂が多く、結構膝にクる。


「こっちかな?」

「桜ちゃん、逆」

「あ、こっちね」


 標識に矢印と湯畑という文字がハッキリと書かれていても、桜ちゃんは道が分からないらしい。この子は一体今までどうやって生きてきたんだろうか。そんな疑問を胸に抱きながら歩いていると、人が多くなってきて、湯畑が見えてきた。


「湯畑だ!」


 湯畑を視認するとすぐに我らが方向音痴が駆け出した。流石に目標が見えている状態では迷わないだろうと思うが、桜ちゃんならそんな当たり前のことさえも覆してしまいそうな気がして、焦って後を追いかけた。


「おおー! すげー!」


 湯畑を囲う柵に駆け寄った桜ちゃんが、柵から身を乗り出して叫んだ。


「おぉ……! テレビで観た景色だ!」


 突っ走っていった桜ちゃんを追いかけて遅れてやって来た私たちも、湯畑の傍まで来て桜ちゃんの横に並んだ。

 瓢箪形の柵の内側には、青とも緑とも言えない湯が流れて、空気に晒されることで湯気をモクモクと上げていた。高温の湯のせいか気温も心なしか暖かくなって、硫黄の香りもどこよりも強い。


「んー! 温泉臭だぁ……」


 息を大きく吸い込んで、恍惚の表情を浮かべる桜ちゃんは変態だと思う。温泉好きも高じるとこうなってしまうのか。


「ほー、すごいねぇ」

「生で見ると迫力あるね」

「いち、に、さん……。ほんとに七本だ」


 硫黄の香りで興奮している変態はほっといて、香澄ちゃんと二人で会話する。湯畑という非日常に触れて、桜ちゃん程でないにしろ私のテンションは上がっていた。


「二人とも! こっちこっち!」


 いつの間にか私の隣からいなくなった桜ちゃんが、数メートル先から呼びかけている。温泉に入って回復してしまったが故に、いつも以上に桜ちゃんは元気になっていた。まるでリードをつけてない犬のようだ。彼女の頭には犬耳が、腰には犬の尻尾の幻覚が見える。

 尻尾を振る桜ちゃんの後ろをついていくと、白い暖簾の小さな小屋のようなものの前までやって来た。


「なに? ここ」

「白旗?」


 白暖簾に書かれた文字を香澄ちゃんが読み上げた。暖簾の上には白旗源泉と書かれた札が掲げられていた。


「ほら! 見て見て!」


 暖簾をくぐった桜ちゃんがその内側から声を上げる。暖簾の下からニョキリと白い腕が伸びてきて、こっちに来いと手招きしている。


「なになに」

「んー?」


 私たち二人も暖簾をくぐると、方形に柵があってその内側に白濁とした液体が湛えられていた。源泉と書いてあった通り、この液体が源泉なんだろう。よく見るとプツプツと気泡が昇っている。


「すごい。温泉湧いてる!」

「もっとドバドバ湧くものかと思ってたけど、意外とちょっとずつなんだね」


 私のイメージではもっとこう、空高く水の柱が伸びるくらいの勢いで湧くものだったのだが。


「それって間欠泉じゃない?」

「間欠泉でもずっと吹き上がってるわけじゃないしね」


 私のイメージを伝えたら二人から総ツッコミを喰らった。私は温泉ビギナー。学びが多い。


「このお湯が湯畑に繋がってるの?」


 この白旗源泉は湯畑からほんの数メートルしか離れていない。振り向けばすぐに湯畑が望める。


「湯畑は湯畑で別の温泉が湧いてるんだよ。ゆい」

「へぇ……」


 こんな近さなのに二つも源泉があるのか。流石は温泉地。


「なんか神秘的だねぇ」


 そう言って香澄ちゃんがスマホのレンズを源泉に向ける。この源泉にスマホを落としてしまったらと考えると背筋が凍る。ヒヤヒヤしながら香澄ちゃんの方を見ていると、いきなりスマホを私の方に向けてパシャリとシャッターを切った。


「え、何?」

「あはは、ゆいちゃんすごい変な顔してるよ。見て桜ちゃんこれ」

「あっははは! ゆい変な顔!」

「ねぇちょっと!」


 私が香澄ちゃんからスマホを取り上げようと手を伸ばしても、香澄ちゃんは腕を上に目一杯伸ばしてしまって、十センチ近くある身長差のせいで届かなかった。

 そんなくだらないやり取りをして源泉から離れた。湯畑の周りを囲うように立ち並んだお土産屋に入ろうという話になって、湯畑の方へ歩く。


「――てください……!」

「――じゃん、――うよ」


 観光客たちの楽し気な声の中に悲痛な声が聞こえた気がして、辺りを見回すが何もなく、小さな違和感を覚えた。


「ゆい、なんかあった?」

「……ん。なんか声が聞こえた気がして」

「声?」

「やめてくださいっ!」


 今度こそ、しっかりと声が聞こえた。どこから声がしたのだろうと辺りを見回すと、十メートルくらい先で揉めている男女を見つけた。

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