青空に溶けゆく旋律7

「まぁそれは置いておいて早く弾いてみなよ」

「あぁ――うん」


 辛うじて聞こえたその言葉に対しただの音として言葉を発した僕は鍵盤に視線を落とす。だが目では見ていても今の僕に鍵盤は見えてなかった。なのにそっと指は動き始める。演奏を覚えていた体が独りでに弾き始めた。

 それ故にいつも思い浮かべるはずのは無く頭は真っ白。色々な事を考えているようで何も考えきれてない。それはまるで音符の無い楽譜のようだった。いや、それどころか五線譜すらないただの白紙かもしれない。

 空っぽな頭のまま始まった演奏だったがしばらくして少し落ち着きをを取り戻した。何か考えられる程度には。

 よく考えてみればこれは必然的なことなのかもしれない。過去を振り返ってみても僕は一体何度その想いを口にしただろうか? 一度もない。いや、もし仮に口にしていたとしてもそれは本来の意味とは違う解釈をされてしまうのは目に見えて分かる。

 だけどそれはピアノを弾かなければ音は鳴らないのと同じことだ。それに音が無ければ演奏は聴かせられない。だから演奏も聴いていない彼女に感想を求めるなんて無理な話だ。

 でもこんなことを考えたところで何も変わらないのは分かってる。過去は所詮、過去。決定事項を変えることはできない。それに僕はいつからか薄々気が付いていたのかも。こうなることを。いや、僕が思い描いた通りにはならないということに気づいていたのかもしれない。だから最初は青天の霹靂に出くわしたかのように衝撃を受けたが今ではどこか納得してる。

 逃避行したいと思う程ではないが僕はきっとあの初めて演奏を聴かせてもらった時から(もっと奥底の無意識下ではもしかしたら塀を覗いた時からかもしれない)夢の中にいたのかもしれない。

 それが彼女の言葉で季節が変わりゆくように覚めていった。だけど――だからこそ僕は新たな夢の世界へ足を踏み入れることが出来のかもしれない。

 そう考えるとあながちこれは単なる光明無き絶望という訳でもなさそうだ。

 でもやっぱり胸は締め付けられる。気が付けば僕は鍵盤へ視線を落としながら眉を顰めていた。

 こんな夏と冬の交差する秋のような気持ちで弾くのは初めてだ。もしあの時の彼女も同じ気持ちだったのだとしてら一体誰を思い浮かべていたのだろう。いや――そんなことはどうでもいいか。

 僕はふと窓外の空へ顔をやった。終盤に差しかった指は動かし続け雲の多い青空を見上げる。冷たい空気の中で見上げる空は他の季節と変わらず青かったがどこか悲しげだった。それは雲が太陽を隠してしまっているのも理由のひとつかもしれない。

 だけどよく見ればその雲から微かに陽光が漏れている。晴れ渡っている訳ではない曇り気味の空から差す光。

 そして窓の隙間から吹き込んだ寂しげな風は僕の顔を包み込むように撫でた。その時――微かに春の香りがしたのはなぜだろうか?

 そんなことを思っている間に指は最後の音を奏でる為に鍵盤の上を移動し、僕は視線を落とした。最終的に零れてしまった分の悲しみを拾い上げるようにそっと、涙を拭いてあげるように優しく――僕は最後の旋律でこの曲の終わりを迎えた。

同時に名前をもう一度思い出し2別れを告げる。次は相棒とも呼ぶべき存在と出会えることを願いながら。

 そして僕は再び青空へと視線を戻す。最後の旋律は風に乗り青空まで舞い上がると、そこにのせた想いと共に溶けて消えた。この4分35秒という短くも長い時間の中、指先に乗せられた感情の重みで奏でられた旋律と同じように。

 そして僕が演奏を終えた後に訪れた数秒の沈黙を破ったのは1つの拍手。それはホールを揺らす程のものではなかったが僕にとってはそれと同等の価値があるものだった。

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