青空に溶けゆく旋律5

 何も変わってないソファを眺めながら僕はあの時の会話を思い出していた。

 今思えば――もしかしたら僕はあの時、年上の女性との接し方を1つ学んだのかもしれない。


「何も変わってないでしょ?」

「そうですね」


 ソファもテーブルも棚も全てがあの日のまま。だけどどれも埃を被り発掘された遺跡のように人の気配はしない。時間に取り残されたもしくはあの頃のまま時間だけが止まった――そう表現するのが妥当な気がする。


「いやーでも懐かしいなぁ。なぜか君はいつも玄関からじゃなくてここから家に入って来てたっけ」


 後ろを通った夏樹さんを追い視線を向けると彼女は大窓の前で立ち止まった。

 そしてカーテンを開けあの日のように人1人分程窓を開ける。だけどあの日とは逆で今度は外から冷たい風が吹き僕の顔を撫でた。同時に風が運んできた夏樹さんの香りはほんのり甘い。

 初めてここに来た日以降、「いつでも来ていいよ」という夏樹さんの言葉に甘えそれから僕はよくここへ顔を出すようになった。だけど毎回決まってこの大窓から入って来ていた。別にここを玄関だと思っていた訳ではないがなぜだろう。ただ僕にとってそれはルーティンのように自然な行動だったことだけは良く覚えてる。


「あっ。そう言えばあの頃はさ。『夏樹お姉ちゃん』なんて呼んでたのに久しぶり会ってみたら『夏樹さん』だもんね。何だか君の成長を感じるなぁ」


 僕は夏樹さんの言葉を聞きながら彼女の1歩後ろまで足を進めた。


「なんかこうママからお母さんって呼び方が変わる感じっていうのかな。違う気もするけどそれに似た何かだよね」

「いやもう僕もお姉ちゃんって呼ぶ歳でもないかなって。あと少し恥ずかしいというか照れるというか」

「――私は別にいいけど?」


 後ろを振り返った夏樹さんは少しだけ首を傾げて見せた。意識しているのかしてないのか微かに口元を緩めながら。

 そんな彼女の仕草や表情から僕は少しだけ目を逸らした。


「それに(それに)」


 それは丁度僕が口を開いたタイミング。まるで前もって掛け声をして合わせたように完璧に被ったせいだろう――夏樹さんに僕の声は届かず(いや、それで良かった)彼女はそのまま話し続け僕は黙った。


「私、一人っ子だからさ。ちょっと弟ができたみたいで嬉しかったっていうのもあるかな」

「そう――だったんだ」


 正直に言って何となくそんな気はしていた。だけど実際に言葉にされて言われるのとでは全く違う。もう気の所為などという言葉で目を隠すことは出来ず嫌でもチラつく。

 しかし彼女の記憶なかの僕は小学生で止まってしまっていた。それは不幸中の幸いなのかもしれない。まだそこには一筋の光が差し込んでいる。


「今でも弾いてる?」


 その言葉の後ろで椅子を引く音が聞こえた。僕は返事より先に彼女へ視線を向ける。


「たまに、ですけど」

「それは良かった」


 微かに頷く夏樹さんから今度はピアノに視線を移動させる。あの頃はとても大きくまるで巨大怪獣のような迫力を感じていたが、それと比べてしまうと今ではそうでもない。

 そんな風に懐かしみつつ自分の成長を感じながらピアノを見ているとあることに気が付いた。それはこの時間に取り残されたような家の中で唯一このピアノだけは自分の時を刻んでいるということ。埃は被ってないしあの日のように体には艶がある。廃れた部屋の中でまるでひとりスポットライトでも浴びるように綺麗なままだった。


「このピアノ...」

「そう。これだけは綺麗にしてあげたんだ」


 頭を撫でるようにピアノへ手を伸ばした僕の傍で鍵盤蓋を開けた夏樹さんは適当に1音鳴らした。少し高い音がモールス信号でも送信するように何度か部屋に響く。その後に連なった3音が2度ステップを踏んだ。何年かぶりに外へ出たであろう音達は陽気に僕の周りを回るとそのまま薄暗い部屋へ消え行った。

 音が消えその薄暗さのように静まり返った部屋。夏樹さんの大きく息を吸う音が微かに聞こえた。そんな彼女の横顔を見ながら僕は演奏が始まることを察し1歩後ろに下がる。そして鍵盤に顔を落とし細長く綺麗な指を乗せた夏樹さんを見つめ、ただ静かに最初の音を待つ。

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