1-6

 エルが声を荒げるも虚しく、御者が収集家を引き上げるなり馬車は大きく方向を変え、来た道を一目散に引き返していった。

 馬の蹄の音が聞こえなくなったと同時に、張り詰めていた糸が切れたかのように全身の力が一気に抜ける。


「メイ!」 


 呼び捨てにされたのは気のせいだろうか。地面に倒れ込みそうになったメイを、エルがしっかりと抱きとめた。


「エルさん……無事で本当によかっ――」

「馬鹿野郎っ!」


 思いがけず怒鳴られて、メイは言葉を呑み込んだ。


「ど、どうして怒ってるんですか……?」

「傷、見せて」


 聞き慣れない標準語が、なんだか怖い。肩に触れられそうになって、慌てて身を引いた。


「だ、大丈夫です。かすり傷ですし。ほら、見てください。服がちょっと破けたくらいで、血だってそんなに――」

「やせ我慢する必要なんてないだろ! すぐに村に戻る。手当てしないと」


 そう言うなり、エルは思わぬ行動に出た。メイをひょいと横抱きにして歩き出したのだ。


「え!? ちょ、ちょっとエルさん……!」

「痛むよな」


 息を呑んだ。本当に心配そうな声だったから。

 打ち明けてしまいたくなる。


(エルさん、わたしは天使なんです。だから、ちょっとのことじゃ死なない。傷だって、数時間も経てばすぐに消えるんです)


「……本当に、大丈夫なんです。わたし、今すぐに出発しなくちゃいけなくて……だから、降ろしてもらえますか? そ、それに言葉が……いつもと違うんですけど、どうしたんですか?」


 気遣ってくれているというのに、こんな台詞しか言えない。口調の違いを指摘したのは、話題をすり替えたかったからだ。

 おそるおそる視線を上げると、彼は固く口を閉ざして何かを考えているようだった。


「……たまに、出てくる。もしかしたら、こっちが本当の俺なのかもな」


 はっとする。いらない指摘をして、彼を混乱させてしまったかもしれない。


「ごめんなさい! わたし、余計なことを!」

「いや、謝る必要なんてあらへん。……悪いけど、楽やからこっちでいかせてもらうわ」

「は、はい……。それは、構いませんけど……」

「んじゃあ、もうこの話は終わり。で、なんやわからんけどメイちゃん必死やし、村には戻らん」


 その言葉にはほっと胸を撫でおろしたが、何故だか彼はメイを降ろしてくれない。


「あの、エルさん……?」

「この道を選んだっちゅうことは、目的地は港やろ? 俺が責任もって送り届けたる」

「え、そんな!」

「つべこべ言ってる時間はないで。あいつが目え覚ます前に出発せなあかんやろ」


 エルが顔を向けた先には、未だに畑で伸びている青年の姿がある。

 もしエルが来てくれなかったら……そう考えると、ぞっとした。今頃羽根と『鍵』を奪われ、もしかしたら、裸にされるだけでは済まない状況になっていたかもしれない。

 今までは運がよかっただけ。今後、いつ同じ状況になるかわからないのだと思い知らされる。


(……今だけ。今だけ、お言葉に甘えよう)


「エルさん」


 すでに歩き始めていたエルが、「ん?」と返事をする。メイは声が情けなく震えないように気をつけながら、口を開いた。


「本当にありがとうございます。港についたら、きちんとお礼をしますね」

「お礼? そんなモンいらん」

「そういうわけにはいきません! エルさんが来てくれなかったら、わたし――」

「なにしろ、俺もちょうど港に向かうところやったからな」

「え?」


 今更ながら、彼の肩に荷袋がかかっていることに気づく。


(もしかして……!)


「記憶が戻ったんですか!?」


 メイの勢いに驚いたのか、エルは一瞬息を呑むと苦笑した。


「いいや、それはまだ」

「……そうですか」

「そろそろ宿のツケもきつくなってきたし、出発しよう思っとったんや。なんとなく朝早く目が覚めて外に出たらメイちゃんが出ていくのが見えたから、急いで追い駆けてきたっちゅうわけやな」

「……待ってください。ちゃんとお代は払ってきたんですよね?」


 エルはすっと横を向くと、わざとらしく口笛を吹いた。


「まさか、払ってないんですか!? やっぱり戻りましょう! わたしが代わりに――」

「うそうそ。ちゃあんと払って来たわ」


(からかわれた!)


 思わずむっとしてしまったが、エルが楽しそうにケタケタと笑うからどうでもよくなった。


(そういえば、エルさんはさっきの状況をどう理解してるんだろう)


 尋ねようとした時、「それにしても」とエルが声を静める。


「ほんま、間に合ってよかったで。あの変態親父、今度会ったらシバいたるわ」


 どうやら、勘違いしているようだ。


(羽根を盗られそうになったなんて、言う必要はないよね)


「で? メイちゃんは、俺を置いてどこに行こうとしてたんや?」

「えっ? ええと」

「挨拶もなしにひどいやんか。俺、これでもめっちゃ傷ついてるんやで?」

「ごめんなさい! その、なかなか切り出せなくて……」


 エルはむうっと唇を尖らせていたが、急にぱっと明るい表情になった。


「恋はタイミングや言うもんなあ。そーゆー意味では、ここでこうして再会した俺たちはタイミングばっちりってことやな! これぞ運命っていうヤツや!」


 がはは! と豪快な笑い方をしている。その表情を確認できるのは口元しかないのに、こうやって近くで見ているのはなかなかおもしろい。

 メイは、重たい前髪をじっと見つめた。その向こう側にある瞳をあれこれと想像してみるけれど、なかなかしっくりこない。


(きっと宝石みたいに綺麗な瞳をしてる。見てみたいな)


 飽きずに同じ感想を抱いていると、エルが「ん?」と小さく首をかしげた。


「なんやそんなに見つめて。はっ、ついに俺に惚れ――」

「すみません。そういう意味じゃないんです」

「……はい」

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