私の夫はヤモリに似ている

水越ユタカ

第1話


 私の夫はヤモリに似ている。

 丸まった背中をなぞるように沿わせられた着流しは、ヤモリの背中から尻尾の輪郭のように見える。夫は基本的に夜遅くまで起きていて、それでも朝になると一応起きてきて私と一緒に朝食をとる。

「…… おはようございます……」

 あくびしながら現れた夫は、眠たそうに食卓へついて、食膳に向かって手を合わせた。それを見てから私も手を合わせて食事に手をつける。

「今日の帰り、友達と喫茶店に寄ってきます」

「そうですか」

 夫は味噌汁をすすりながら素っ気なく言った。

「ではあまり遅くならないように」

「はい」

 食事を終えて身支度を整えた私が玄関に出ると、夫も決まって起き抜けの着流し姿のまま玄関に立つ。

「いってらっしゃい」

 これを素直に嬉しいと思えるようになったのはいつのことだっただろうか。私はいまだ眠たそうな夫の顔につい笑みを浮かべながら、玄関の戸に手をかけた。

「いってまいります」



 一年前、両親が蒸発した。

 私はごく普通の家庭に育ち、ごく普通の生活を今まで送ってきた。朝起きて父と母におはようを言う。母の作った朝食を食べる。父と一緒に母にいってきますを言って家を出る。学校に行く。授業を受ける。帰ってくる。母にただいまを言う。父におかえりなさいを言う。母の作った夕食を食べる。父と母におやすみなさいを言って、眠る。

 そういう、ごく普通のある日のことだった。父と母がほとんど同時に私の前から姿を消したのは。

 私は突然に、独りになった。

 両親が周囲に許されない仲であったことは、彼らが立て続けに蒸発したあと父方の伯母に引き取られてから知った。地方の田舎でひっそりと暮らしていた私は、なにがなんだかわからないまま、身一つで伯母さまのいる帝都にやってきた。

 伯母さまは未亡人ながらしっかりされた方のようで、私は伯母さまがおっしゃることをぼんやりとした頭で受け入れ実行するのみだった。田舎で通っていた女学校も伯母が手続きしてくださって、休学する運びとなった。

 亡くなったとはっきり言われたわけでもない。遺体を見たわけでもない。でも自分の力ではなにひとつできることがないのも確かで、私はただぼうっとしたまま何日も何か月も過ごした。

 しばらくすると、ふたりはどこへ行ったのだろう、などということを他人事のように考えるようになった。

 自分のことが他人事のように思えてしまうのをなんだか妙におかしく思いながら伯母の家の廊下を歩いていたとき、伯母さまが客間で誰かと言い争うような声が聞こえてきた。その声はしばらく続いたが、やがて静かになると客は帰っていった。

 翌日、私はあれよあれよという間に、気がつけばお見合いの席に座っていた。

(…… ヤモリみたい)

 真っ黒い髪の毛は大人の男の人としては有り得ない長さで、後ろはかろうじて結んではいたものの前髪は完全に目にかかっていて、隙間からのぞく瞳は細く鋭く、優しそうな見た目では全然なかった。

「―― これなる…… は…… の…… をしていまして……」

「…… でいらっしゃるんですね――」

 さっき部屋に入ってこられた時も、一緒にいらっしゃる男性よりは頭ひとつぶんくらいは余裕で背が高くて、鴨居に頭をぶつけそうになっていた。

「このたびは姪の…… を………… くださるようで――」

 結んだ髪が歩くたびに動くのがちょうどヤモリのしっぽみたいで、ちょっとおもしろかった。切ったら新しいのが生えるのかな。それはトカゲだっけ。

「…… いえ…… は………… ので、…… さえよければ……」

 ヤモリはトカゲの仲間なんだっけ。あれ、じゃあイモリは? ヤモリとイモリってなにが違うんだっけ?

「―― さん、…… 子……」

 小さい時に父と一緒に捕まえて飼っていたのはどっちだったろう。

 どうして今、ここに、お父さんもお母さんもいないんだろう。

「薫子!」

 突然横から名前を大きな声で呼ばれ、私は肩を大きく跳ね上がらせた。お相手の方も、その隣の男性も、私のすぐ隣に座る伯母さまも、みんなが私を見ているなか、私は小さく吐息のような声を漏らした。

「―― っや」

 涙が出る直前、目頭が熱くなるという表現をよく聞く。だけれども、あんなのは嘘だ、とその時の私は思った。

「やもりといもりって、なにがちがうんだっけ……」

 その場が静まり返ったかのように思えたのは、涙でくらんだ視界のせいもあるかもしれないと私はぼんやり思った。なにか言ってはいけない、この場に則さない言葉を口にしてしまったことはどうにか理解できたが、私の頭は依然として靄がかかったように判然としない。

「…… ヤモリは爬虫類、イモリは両生類です」

 と、沈黙を打ち破るように私の正面に座る男性が言った。いや、打ち破るなどという乱暴かつ強引な表現は、彼の声にまったく合っていないように思えた。心のなかで私にヤモリみたいと評されたその人は、笹船が湖面を静かにたゆたうような声で続ける。

「よく似ていますがいくつか見分け方さえ知っていれば、あとそれぞれの生態を知っていればまったく別の生物だとわかります」

 彼は説明しながら懐に手を入れ万年筆と懐紙を取り出すと、なにか書き始めた。

「―― 漢字で書くと、こう…… 『家を守る』と書いて家守、『井戸を守る』と書いて井守。ヤモリは家に棲みつく害虫を、イモリは井戸や田んぼのなかの害虫を捕まえて食べるのでそう名付けられたと言われています」

 不思議なくらい静かだった。この場も、周りの空気も、この人の声も、なにもかもが静かに、ただそこに存在していた。

 目の前に座る彼は私の方に向けていた懐紙を卓の上に置いて「ほかに質問は」と私に向かって尋ねた。

「…… どうして私は今このようなところにいるのでしょうか」

 またしても考えるより先に口が動いた。彼は残念ながら、とさきほどと変わらぬ静かな声で言った。

「私ではきっと、あなたの満足する答えを差し上げられないでしょう。今ここで私が、あなたにうわべだけの哀れむような態度をとることが無意味であるのと同じように、私がもつすべての知識や見解をもってしても今のあなたをどうにかすることは不可能です。したがって、どうにかしようとも思わない」

 彼は続ける。

「そして、これからさき、なにがあっても私があなたを愛することはないでしょう。でも、私はあなたという人間を否定しないし、権利も奪わない。どこへ行こうと、なにをしようとあなたの自由だし、私が夫という名のもとにそれらを制限することはない。あなたに私の妻であることも強要しない。あなたの感情があなただけのものであるように、あなたの権利はあなただけのものだからです」

 変な人だ。

 私は首筋を流れていく涙はそのままに、目の前の人を見つめていた。

「ただ、今申し上げたように私があなたを愛することはきっとありません。それでもいいのなら、私のところに好きなだけ居なさい」

 そのひとは、円城寺和彦さんといった。


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