1-2 6/15(ii)

 今日も日中の授業はつつがなく終わった、というのは僕に限った話で、本浄は相変わらず小テストに失敗して課題を増やされていた。

 朝の件からなんとなく彼女が気になって、昼休みなんかにもちらりと目を向けると、彼女は前の授業で間違えた部分を必死に書き直していた。ノートは黒字より訂正部分の方が多いのではないかと言うほど真っ赤になっていた。昼休みの半分ぐらいの時間が過ぎたところでノートを閉じ、やっと昼食を食べ始めていたが、その後チャイムが鳴っても全然食べ終わっていなかった。彼女は慌てて弁当箱をしまっていて、悲しいことに中にはまだ半分ぐらい食べ物が残っていた。彼女は食べるのも遅いのか、新しい発見だった。

 そうして昼過ぎの授業、予習のチェックで指名された彼女は例のごとく一問も解けなかった。ちゃんと予習をやってきなさいと言ったでしょう、という教師の苦言に対し、俯いたまま小さな声で「考えてはきたんです」と答えていた。その声は雑音にかき消されてしまい、教卓まで届くことはなかったが、彼女の教科書には確かにいくつも文字が書き込まれていた。勿論そんなことを知らないクラスメイトの一人が「嘘つき」と呟く。こっちが雑音にかき消されればよかったのに。


 本浄瑠璃は直接的にはいじめられてはいなかった。けれども間接的にはそう変わらないことが起きていた。皆がそこそこ勉強できるような学校では特に珍しくもないことなのだろうが、なにかストレスが溜まっている人間は、上手く問題が表面化しないようにそれを発散させる。タチの悪いことに、頭が良い分、露呈するようなことは決してしない。教師が気付かない、あるいは気付いてもどうしようもないような刃で傷をつける。その中の一つが先ほどのような「聞こえる陰口」なのだろう。それについて本浄がどう思っているかは知らないが、彼女に対する誹謗中傷やぞんざいな扱いは、日に日に頻度が高くなっている。並みの女の子がここまでされて何も感じない、ということはないのだろうけれど。

 やっぱり不憫だなと思いながら、僕はチャイムと同時に板書を終えたノートを閉じた。


 そうして放課後になり、僕と本浄は机を少しだけ近づけて、けれども決してくっつかない距離で勉強を始めた。僕も本浄も友人が多いほうではなく、加えて席が角ということもあり、僕が彼女に勉強を教えていることを不思議がるような人間はいなかった。

「これでも、中間の前と再試の前に、ちょっとは勉強しているつもりなんですけど」

 彼女の理解度は壊滅的なものだった。二度も試験を受ければ、問題自体は解けなくとも何かしらのイメージが浮かんでいるのではないかと思ったが、少しだけ僕の予想を上回っていたようだ。良くないほうの意味で。

「もしかして、エネルギー保存から怪しい? どういうことかわかってない?」

「………………はい」

 朝ではなく放課後に教えることにしてよかったと心から思った。少なくとも二時間はないと、とてもじゃないが彼女に理解させることはできないだろう。

「あのね、エネルギー保存、力学的エネルギー保存っていうのはさ……」

 かなり初歩的な部分から彼女に説明を始める。話を聞くときの彼女は相変わらず真剣で、そして相変わらずノートにメモを書く速度が凄く遅い。

「——この場合だと、高い所にあった物体が斜面を下ったあとに早くなっているのは、位置エネルギーが運動エネルギーに変わっているから。全体としてのエネルギーが保存されるんだから、高低差の分だけ他のエネルギーに変わらないと不自然でしょ」

 僕がそう言うと、本浄はあからさまに理解できていないような表情をした。それからすごく申し訳なさそうな顔をする。理解ができないのは自分のせいだとでも思っているのだろうか。教え始めたばかりだし、時間は十分にある。そもそも僕の教え方にも問題がある可能性が高い。だからそんなに卑下しなくてもいいのに。

 どうにか理解してもらえるよう、言い方を変えて何度も伝えてみる。僕の不慣れな説明に対して本浄は長考しつつも、やっとのことで自分なりの理解を見つけたようだった。

「え、えっと、エネルギーはなくなっていくように見えて、他のものに変わったりしてて……だから、なにがどのくらい減ったのか考えれば、増えた分もわかる、ってこと、ですか」

「そうそう。高校の古典物理ぐらいだと、そういう法則に全部当てはまるように式を立てていけば基本的には大丈夫だから」

 僕も正しい説明ができているとは到底言えないけれど、そのぐらいにざっくりと説明しておいたほうが、ほぼ初学者の彼女にとってはわかりやすいのではないかと思った。

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