りんとの約束

 奈々の母親が横浜に引っ越してから三日が経過した。


 寂しさという悪魔にとりつかれて日に日に歪んでいった結果生まれてしまったモンスターも、これでようやく一人の女性に戻れるのだろう。それ自体はすごくいいことだし歓迎すべきことだと思うのだが、奏平はこうも思ってしまうのだ。


 自分も、いつか奈々の母親みたいなモンスターになっているかもしれないと。


 そんなことを考えてしまったから、駅前の書店で『孤独のすすめ』なんていうタイトルの自己啓発本を買ってしまったのかもしれない。


 信号に引っ掛かり、奏平は足を止める。十八時を回ったというのに、太陽は地平線の上にでんと鎮座していた。吹いてくる風も生暖かく、こうして信号待ちをしているだけでも不快指数は急上昇する。日本の夏はどうしてこうなった。信号が青に変わり、横断歩道を渡り切った直後、奏平はある光景を目撃してしまった。


「りん……」


 一階が駐車場、二階が店舗になっているファミレスの道路に面した席にりんが座っていた。帽子、マスク、ジャージという姿でそこにいるりんは、素というか、すごくリラックスしているように見える。素朴な鈴の中でも聞こえてきそうだ。


 りんは奏平と二人きりで会う時は必ずオシャレを決め込んでくる。その時の彼女からは荘厳なグランドピアノの音色が聞こえてくる。


「利光……か」


 今、鈴の音を纏っているりんの対面には利光が座っており、二人きりで楽しそうに話をしている。


 なるほどね。


 ショックもなにもなかった。


 ふーん、と思っただけ。


 相手は利光だし、友達が二人で駄弁っているというのは、まあ一般的に普通と思えということなのだろう。


 そう。


 りんと利光は友達なのだから、男女二人きりで出かけてもなんの問題もない。

 ま、そもそもりんとの恋人関係は〝偽装〟だから、最初からとやかく言える筋合いは無いのだけど。


 奏平は二人から視線を切って帰路に就く。我が家の玄関ポーチで「あっつ……」と湿った息を吐き出してから、ガラガラと引き戸を開けた。


「おかえー。お兄ちゃん」


 おかえり、を意味もなく「おかえー」なんて省略するのは妹の双葉しかいない。


「お、おかえり。奏平」


 遠慮がちに双葉の後ろからやってきた奈々は、頬をわずかに朱色に染めている。


「ただいま」


 奏平は後ろ手で扉を閉める。まるで家族になりたてかのように、恥ずかしがりながら「おかえり」と言う奈々が目の前に現れれば心が飛び跳ねてしまう。


「あれ、母さんは?」

「まだ仕事。ってか今日の夜ご飯、奈々さんが作ってくれたんだよ」


 双葉が嬉しそうに破顔する。双葉からすれば、単純に家族が増えたという感想なのだろう。母さんも


「娘が一人増えたみたい」


 なんて楽しそうにしている。そんな中で、奏平の反対意見など通るはずもない。厳密に言えば、奈々と同じ居候という立場である自分が、血のつながっていない偽の家族が、二人の決定に異を唱えることなどできるわけがないのだ。


「女の子の一人暮らしは物騒じゃん。それに、夜とか寂しいからここに泊めて欲しい」


 奈々の母親が横浜へ向かった日。


 一人暮らしを始めるはずだった奈々が夕方ごろ高麗家にやってきた。


 彼女曰く、やはりここがベストだとのこと。


 利光の家はアパートで狭いし、モデルの仕事で帰らないことも多いりんの家だと、家族と気まずいとかなんとか。その点、高麗家はフレンドリーだし、家も広いから条件にぴったりだそうだ。双葉も母さんも喜んで奈々の提案を受け入れた。昔から五人で集まるならこの家だったので奈々は双葉とも母さんとも仲よしである。


 そして、たぶんだけど母さんと双葉は盛大な勘違いをしている。


 奏平とりんがつき合っていることを知っているのは、奈々と利光と寛治だけだ。りんはモデルだから、一応週刊誌対策として必要最低限にしか教えていない。まあ、りんとの恋人関係が偽装であることは、その三人も知らないのだけど。


 リビングに入ると、スパイシーな香りが鼻先をくすぐった。


 奈々が作ったのはカレーみたいだ。


「へぇ、奈々って料理できたんだな」

「なにその意外そうな顔」


 そっぽを向く奈々を見て、奏平はまた変な妄想をしてしまった。エプロン姿の奈々との新婚生活……ああだめだ。奈々は、みんなは、友達だからいいんだ。双葉も、母さんも、義妹や義母だからいいんだ。


 本当の家族も恋人もいない方が、奏平にとっては都合がいい。いや、そうでなければならない。なのに奈々のことが好きだという気持ちが抑えられなくなっている。奈々に恋されていることも知っているから余計にたちが悪い。両想いなのになんで! だから一緒に住みたくなかったんだ!


「意外って、そんな顔してないだろ?」

「してた」

「してない」

「してました」

「お兄ちゃんって、ほんとそういうところダメだよねぇ」


 やれやれと手のひらを上に向ける双葉に「うるせぇ」と言ってから、奏平は買った本を二階の自分の部屋に置きに行くべくリビングを後にした。階段の横にある一階の客間――今は奈々の部屋――の扉の隙間から、下着のような水色の布切れが見え……見てない見えてない。


 不慮の事故だと階段を駆け上がる。


 自分の部屋に飛び込んで、息を吐き出しながらベッドに倒れ込んだ。


「もう……もたねぇ」


 こんな生活、嬉しいやら苦しいやら痛いやら。


 だから、この選択をするのも間違っていない。


 友達なら、それがたとえ男女であっても、二人で出かけることは普通だ。


 りんだってそれをやっているのだから、彼氏が同じことをやっても文句は言えない。そもそもりんとの恋人関係は偽装なのだから、これはりんに対する不貞行為ではない。


 奏平はリビングに戻ると、キッチンでカレーをよそっている奈々の隣に立った。


「あのさ、言ってたじゃん。お礼がどうとか」

「うん。でも無理なんでしょ? りんがいるから」


 さっきの言い合いをまだ引きずっているのか、奈々の態度はどこか素っ気ない。


「まあ、昨日はそう言ったけど、りんに言ったら許してくれてさ」


 そんな嘘が流れるように出てくる。


 それもこれも全部、奈々が悪いんだ。


 最近ボディタッチ多いし、一緒の家にいるし、隙あり過ぎだし、双葉も母さんも囃立てるし。


 最低な行為だと分かっていても、許されざる関係を得ようとしていると分かっていても、奏平の心は大きく揺らいでしまう。なにもかもを忘れて奈々とつき合えたらなぁと。理性で抑え込んでいた感情が爆発しそうになる。


「だからさ、いいよ。映画、奢られてやるわ」


 努めて素っ気ない声で、しぶしぶ感をあからさまに言葉に表す。


「本当に? じゃあそこの映画館の近くにプールあるから、その前に水着買わないと」

「え?」


 新情報が飛び出したが、「いいじゃん。近くなんだし」という奈々の笑顔に押し切られた。


 まあ、これはデートではないからな。


 友達と二人で出かけるだけ。


 こうやって理論武装しないとやってられない。


 自分の中にある奈々に対する思いが溢れる前に、デートで少しでも満たさなければ、もう我慢できない。りんと偽装の恋人関係を結んだ意味がなくなってしまう。


 奏平はぶんぶんと頭を振って奈々の水着姿を脳内からかき消す。


 すぐに沢崎さん(仮名)のことを思い返して、穢れた血を持っている自分を強く戒めた。

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