第四章  これでよかったのだと思っている 高麗奏平2

奈々の来訪

 父親がいなくなった我が家にだって、一ヶ月もすればありふれた毎日が戻ってくる。高校生にとって最大の悩みである期末テストが終わり、ごくごく普通に夏休みがやってきた。


 俺はみんなとずっと友達でいたい。

 だからこそ、俺のために能力を使おうとは考えないでくれ。

 すべてを受け入れ、きちんと更生して、ちゃんと生きていきたいから。


 奏平はスクショしておいたメッセージを見返しながら、ベッドの上で寝返りを打った。このメッセージが五人のライングループに送られてきたのは、寛治が逮捕された時間の直前。起床直後のぼんやりとした頭でこのメッセージを見返すと、この一ヶ月で起こった出来事が全て夢だったんじゃないかと思えてくる。


 ちなみに、警察の事情聴取を受けた時、奏平は自分の父親が暴力を振るう親だったとは言わなかった。父親の真実が報道されて、それが周知の事実になるのが耐えられなかったのだ。双葉と母さんが父親のDVのことを話さなかった理由は、人の死を喜ぶ自分たちという罪悪感から目を背けたかったからだと思っている。


「もう、昼なんだよなぁ」


 スマホで時間を確認すると、十三時。夏休みにこれだったら早起きだなぁなんて思いながらカーテンを開ける。奏平の部屋は二階だ。神凌町には高い建物がないから視界は開けている。太陽、というより青空全体が眩しい。


 喉、渇いたなぁ。


 奏平は一階のリビングへと向かった。冷蔵庫から麦茶を取り出して飲むと、刺すような冷たさが体中に染みわたる。


「双葉も……いないのか」


 母さんは仕事のはずだ。中学一年生の妹は、友達と遊びに出かけてしまったのだろう。まあいいか。エアコンを稼働させて、テレビでも見ようとソファに座った時、突然インターフォンが鳴った。リラックスタイムなのになんだよ。


 奏平は自分の身なりを確認する。ステテコによれよれのTシャツというダサい格好だけど、別にいいや。どうせ宅急便かなんかだろ。のそのそとリビングを出て玄関に向かい、ドアを開ける。


「おはよ……って」


 来訪者は奏平がよく知っている女の子だった。


 グレーのクロックスに黒の短パン、カラフルな骸骨がプリントされた白いTシャツを着た奈々が庇の下に立っている。この熱い中を走ってきたのか、息づかいが少しだけ荒い。


「おはよ。終業式ぶりだよね、会うの」

「ああ。ってか来るなら連絡しろよ」

「いきなり来ちゃ悪かった?」

「悪かないけど、なんの用だよ?」

「えっとね……」


 奈々はそのまま黙ってしまった。


 少し待ってみたが、なにも答えてくれない。


「とりあえず、上がるか?」


 いつまでもこんな暑苦しい場所にいる理由もないので、クーラーのガンガンに効いたリビングに奈々を迎え入れる。


「んー、涼しぃ」


 奈々はローテーブルとソファの間のスペースに座った。汗でTシャツが身体に張りついており、下着が少しだけ透けている。なんでキャミソール着てないんだよ。奈々の姿を見ないようにしながらコップに入れた麦茶をローテーブルに置く。


「で、なんでまた突然?」

「いやぁ、まあその……寛治のことで、ちょっといろいろあって」

「寛治の?」

「そ」

「なにがあった?」

「まあ、なんていうか……家出」

「家出?」

「お母さんと喧嘩したの」

「喧嘩って、なんでまた?」


 奏平は奈々の隣に座りながら眉をしかめた。


 奈々が親と喧嘩だなんて、そんなの初めてだ。


「寛治のこと悪く言われて、みんなのことまで否定された。あんなやつらともうつき合うなって言われたの」


 奈々は今にも泣きだしそうに見えた。


 その姿を見ているだけで胸が痛くなる。


「それは、たしかに腹立つな」

「でしょ? 私だってまだ寛治のこと受け止められてなくて、心の中ぐちゃぐちゃなのに」

「俺もだ」

「ねぇ、奏平。私をここに匿ってくれない? あんな最低な親がいる家に帰りたくないの」


 奈々の顔は真剣そのものだった。なにがなんでも居座ってやるっていう覚悟すら見て取れる。


 ただ。


「……それは厳しい」


 奏平は奈々から目を逸らす。奈々が家に帰りたくない理由は理解しているつもりだが、匿うっていうのは難しい。


「ほんとにだめ?」


 首を傾げた奈々の手が奏平の二の腕を掴んだ。そのひんやりとした感触が奏平の心を揺さぶったが、りんの姿を思い出してなんとか踏み止まった。


「ごめん。できない。家には帰った方がいい」

「あんな家には帰りたくないって言ったじゃん」

「感情的になるな。冷静になれ」

「そんなのできるわけない」

「帰れ」

「やだ」

「娘のことが心配だからそう言ったんだよ」

「なんでそんなことが言えるの? 奏平は私の親じゃないじゃん」

「世間的には寛治は人殺しなんだぞ。悪く言われるのも無理ないよ」


 奏平自身、言っていて虚しくなった。


 けれど事実を捻じ曲げることは誰にもできない。


「奏平が、そんなこと悲しいこと言わないでよ」

「でも実際そうなんだから、しょうがない」

「寛治は優しいよ。絶対に悪人じゃない」

「そうだけど、それを世間に分からせるっていうのは難しいだろ」

「じゃあ奏平は、父親を殺されたから、寛治のこと悪人だって恨んでるの?」


 奈々は涙で声を上ずらせながら、ぽつりぽつりと言葉を吐き出す。


 その言葉を聞いて、奏平は目の奥が冷たくなっていくのを感じていた。


 寛治が父親を殺した理由は分からない。でも、もし仮にDVのことがばれていたのだとしたら、それが理由になってもおかしくはないのかもしれないと思う。寛治は正義感が強くて、優しくて、友達思いだ。俺たちのすぐ近くにいる悪を、寛治が成敗してくれた。


「そんなわけないだろ。寛治は俺の親友なんだ」

「だったら」

「でも寛治は人殺しだ」

「じゃあ奏平は、私のことも、人殺しの友達だって言うの?」


 その言い方はずるいよと、奏平は口に出せなかった。きゅっと唇を結んで、口から出かかったその言葉を強引に飲み込む。


「ねぇ? どうなの?」


 奈々は視線を逸らしてくれない。


 奏平は、自分の心の奥底にある葛藤を見透かされているような気さえしていた。


「大丈夫だよ。俺は奈々のことを人殺しの友達だなんて思わない。だって俺も、はたから見たら人殺しの友達だから」

「そういうことが聞きたかったんじゃないの。私はもう、誰かと一緒じゃないと苦しくてたまらなくて、泣きたくなる」


 その言葉は偽りのない奈々の本心に思えた。


 でも奏平は、その感情を受け取れないのだ。


 りんという彼女がいるから、奈々と一緒に住むことは絶対にできない。


「なんで俺なんだよ。りんの家でもいいだろ。女同士なんだから」

「お願い、します」


 奈々の額がちょこんと奏平の胸に押し当てられる。


「私、もう奏平のことしか頼れないの」

「そんなことはないだろ」

「なにもかもが戻れないとこまで進んでるの」

「だから無理だって」

「私をここに置いてください」


 奈々の涙が奏平の服をじっとりと湿らせる。奏平だって、奈々が今どれだけ辛いのかは分かっているつもりだ。友達として協力してあげるべきだ、その心に寄り添ってあげるべきだということくらい理解している。


 でも。


「俺にはりんがいるから。彼女がいるから。そういうのは誤解されるし」


 本当に小さな声しか出なかった。りんのことを理由にするのは自分でもずるいと思ったけど、これが奈々のためだと自分に言い聞かせて心を鬼にした。


「それでも、どうしても、だめ?」

「困るって言ってるだろ」

「困らせないようにするから。家事とかするから匿ってよ」

「そういうことじゃなくて」

「いいじゃんお兄ちゃん。匿ってあげたら」


 突然、後ろから声が聞こえた。振り返ると、眉間にしわを寄せた双葉がリビングに入ってすぐのところに立っていた。


「お前、遊びに行ってたんじゃ」

「そんなの今はどうでもいいよ。奈々さんだって辛いんだよ。お兄ちゃんと同じだよ」

「そんな簡単に言うけどなぁ。お前、母さんの許可はどうやって」

「私たちには責任があるよ」


 双葉は長い睫毛を小刻みに震わせている。


「寛治さんのことで誰かが苦しんでるなら、それを私たちは助けなきゃいけないんだよ。だって私たちは寛治さんに……」


 双葉の声は次第に小さくなって、最後には消えてしまった。苦しんでいる奈々を助ける責任が双葉にあるのかどうかは分からないけど、少なくとも高麗奏平にはその責任があるような気がする。寛治のおかげで高麗家は平穏を取り戻せた。心のどこかで分かっていたことを、双葉の言葉によって再認識させられてしまった。


「分かったよ。協力はする。だけど、ただ家に匿うだけってのは違うだろ。それは本当の解決じゃないって奈々も分かってるはずだ」


 奈々の目を見て問いかけると、奈々はゆっくりと頷いた。


「だろ? だからきっと、こういう問題が起こってしまった時だからこそ、みんなで話し合うべきだよ」

「みんなで、話す……」

「いいタイミングだよ。これまで俺たちは寛治のやったことから逃げてきたから」

「まだ一回も話し合ったことないもんね。寛治のことで、私たちは」


 奈々は噛みしめるように呟いてから、奏平の体にしがみつき、大粒の涙を流し始めた。


「ごめんね。奏平。ありがとう」

「謝るなよ。別にいいから」

「うん。本当にごめんね」

「だから別にいいって」

「お兄ちゃん。ありがと」


 目を逸らした先には、眉根をひそめるようにしてぎこちなく笑う双葉がいた。


「お前は気にしすぎるな。大丈夫だから」


 奏平は苦笑を浮かべつつ、父親と決意をかわし合った日のことを思い返していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る