私の守りたい世界

 夜ご飯を食べている間も、お風呂に入っている間も、ドライヤーで髪を乾かしている間も、ピキリ、ピキリという音が耳のすぐ近くで鳴っていた。


 自室のベッドに座り、「ピキリ、ピキリ」と自分で呟いてみる。


 ――じゃあな。


 そう言い残して去っていった寛治の背中は、子供のころからずっと見続けていた寛治のどの背中とも異なっていた。孤児院に帰るのではなく、どこか別の暗闇の中へ進んでいる。もう会えないような気がした。


 ――じゃあな。


 そんなことは絶対にさせない。させたくない。いつもだったら、これが山那奈々だからと諦めるのに、今日だけは諦めてはいけないと強く思った。


「よしっ」


 ようやく寛治に電話する決心がついた……が、つながらない。だったらもう孤児院へ行ってしまえと、パジャマのまま家を飛び出した。リビングからお母さんの声が聞こえたが――今だけはごめん。世界の危機なの。


 じめじめと暑い夏の夜道を突き進む。雨はもう上がっていたが、水たまりはまだちらほら見受けられる。


「……ん?」


 寛治の孤児院と、奈々の家の中間地点にある空き地の前を通り過ぎようとした時、人影を二つ見つけた。そいつらは空き地の中央で抱き合うようにしてくっついている。そこは周りも空き家だらけなので、外でイチャイチャするには絶好の場所だ。わざわざ外でやる神経は奈々には理解できないけど。


「え、寛治?」


 気にせず通り過ぎようと思っていた奈々だったが、そのうちの一人の顔がふいに見えたことによって足が止まった。いや、淡い月の光だけしかない夜に、その顔がはっきりと見えるはずもない。その立ち姿が寛治のそれだったから、顔が見えたように思えたのだろう。


「寛治?」


 もう一度名前を呼ぶと、寛治はよろめくようにして後退した。


 もう一人の男は、寛治の体を追うようにして上半身だけを前へ傾けていく。


「…………え?」


 寛治は前に倒れる男の体を受け止めもせず、逆にひらりとかわした。男の体が、雑草が生え散らかった砂の上にぼとりと落ちる。


「嘘……」


 寛治は地面に倒れた男をじっと見下ろしていた。右手の辺りが銀色に光っている。その先端から、ぼたぼたと液体が地面へ落下している。


「かん、じ?」


 その声に反応したのかはわからないが、寛治がつと顔を上げる。視線がぶつかった。もちろん地面に倒れている男は動かない。


「寛治?」


 奈々が寛治に向けて手を伸ばした時だった。


 寛治が人間とは思えない呻き声を挙げながら、右手に持っている包丁を両手で握り直し、その刃先を自分の喉元へ向けた。


「く、来るなぁ……。違うんだぁ!」


 心臓が止まったかと思った。


 寛治は刃先を喉元に向けたまま、ふらふらと後退していく。


「寛治、もうやめて」


 奈々が左足を一歩前に出すと、寛治も左足を一歩後ろに下げる。これ以上刺激してはだめだ。それだけは直感的に判断できた。というよりこの状況はなに?


 寛治が、人を殺した?


「俺は! そんなつもりじゃなかったんだ」

「寛治。私は言わないから」

「俺はただ奏平を守りたかっただけなんだ」


 叫び声と共に寛治が目を閉じた。


 自分の首にナイフを突き刺すつもりだ!


 奈々は走った。


「ダメ! 寛治!」

「来るなっ!」


 刃先が寛治の喉仏の下に近づいていく。ダメ! そんなの絶対に許さない!


「寛治!」


 奈々は寛治の右腕に飛びつき、そのまま寛治に覆いかぶさるように倒れた。寛治は目を閉じたまま動かない。


 え? 間に合わなかったの?


「ねぇ寛治。寛治ってば!」

「え……あれ……」


 寛治が自分の喉を左手でまさぐり始める。ナイフは寛治の頭の上に落ちていた。


「なんで俺、生きて」

「なんでなんて言わないでよ!」


 奈々は寛治の胸のあたりを拳で思い切り叩いていた。


 うぐっ、と寛治が息を吐き出す。


 よかった。


 生きている。


 寛治は生きている。


「もうこんなことやめてよ」


 絞り出すようにして伝えると、寛治は眉毛をぴくぴくさせ始めた。


「無理だ。俺は人を殺した。俺の身勝手で、人を殺し続けてたんだ」


 寛治の左手が動く。自分で自分の首を絞める気だと思った瞬間。


「なにやってるの!」


 奈々は寛治の左手にしがみついてそれを止める。


 しかし、寛治は暴れるのをやめない。


「離せっ! 俺は悪人なんだ!」

「やめてよ! 動かないで!」

「悪は死ななきゃいけないんだ!」

「そんなことで私は寛治の友達をやめないから!」


 奈々がそう叫んだ後、こと切れたかのように寛治がようやく動きを止めた。


 奈々は、寛治の震えている瞳を真っすぐ見据える。


「だからもう、自分から死のうなんてバカなことしないで」

「……すまん」


 寛治の身体から力が抜けていくのが分かった。


 もう死のうとは思っていないようだ。


「絶対に、約束だからね」


 念を押しながら奈々は寛治の体から下り、隣に座った。血で真っ赤になった自分の服を見て、胃液がせり上がってくるのを感じた。


「ほんとに、悪かったよ」


 寛治は仰向けのまま夜空を見つめている。


 目じりから、涙が一直線に流れ落ちた。


「俺はこうするしかないと思ったんだ。じゃないと奏平が死ぬと思って」

「奏平が、死ぬ?」


 意味が分からず聞き返すと、寛治は死んでいる奏平の父親を一瞥する。


「奏平は、父親から暴力を受けていたんだ」

「え、暴力?」


 でも奏平そんなこと一度も……と続けると、寛治はゆっくりと首を横に振り、奏平の父親の真実をすべて話してくれた。


「だから、俺は殺すしかないと思った。救いようのない悪だと思ったから」


 寛治にかけてあげるべき言葉が見つからない。


 目の前の現実を理解するだけで精いっぱいだ。


「ただ、それは違ったのかもしれない」


 寛治がようやく上半身を起こして、悔しそうに唇を噛む。


「こいつ、俺の耳元で『すまない』なんて言いやがったんだ。俺に刺されたのに抵抗もしない。なんであんな顔で笑ってられるんだよ」


 寛治が地面を殴りつける。奈々は倒れている奏平のお父さんを見た。家族全員に看取られて幸せに息を引き取ったかのような、穏やかな表情をしている。


「俺は奏平の父さんを悪だと思ったから成敗した。奏平の父さんから謝られた瞬間、俺はもう悪だと思えなくなった。奏平の父さんも悩んでたんだ。でも暴力はやめなかった。奏平を殺すかもしれなかった。もうわけ分かんねぇ。なにひとつ真実なんて分かんねぇのに、俺が人殺しになったことだけは紛れもない現実なんだ」


 寛治の乾いた嗤いが、夜の闇に溶けることなく空き地にとどまり続けている。


「俺はもうだめだ。生きてちゃいけない。ただ人が殺したかっだけなんだ。奏平のためなんて嘘だ。俺は正義の中毒者なんだ。ヒーローじゃない。俺が異世界で殺したやつと同じなんだ。ただの殺人者だ」

「なにそれ。それこそ意味分かんない」


 奈々は寛治の声を遮った。不満を感じている。自分の胸に手を当ててぐっと奥歯をかみしめる。


「そんなこと言ってる暇があるんなら、だったらちゃんと償ってよ」


 本能も心も理性も感情も、奈々の中にある全てがただそれだけを望んでいた。


「は? つぐな、う?」


 目を見開く寛治に、奈々は深い頷きを返す。


「そう。それしかないじゃん。ちゃんと償うんだよ」

「無理なんだってそれは」

「どうして?」

「俺はもう狂ってるから」


 寛治は後ろめたそうに目を伏せ、小さく首を振った。「


「身勝手な正義感は麻薬よりたちが悪い。俺はあの時に狂ってしまった。母さんが俺を殺そうとしたから、俺は、逆に殺したんだ」


 母さんは、息子を失った母親として注目を浴びたかったのだろう。


「どうしていいか分からなかった。でも、死なせたことで注目を浴びさせてやったって、注目されるのは母さんの望みだったって、俺の自由をずっと奪ってきた悪人だったんだって、あの人殺しを正当化したくて」


 自分の過去を吐露している寛治。ものすごくつらそうに見える。同情してやるべきか、慰めの言葉をかけてやるべきか、それとも寛治は悪くないよって言ってあげるべきか。


 ただ、奈々はそのどれも選ばなかった。


 自分の中に沸き上がっている揺るぎない怒りの感情に身を任せて、地面の上に寝て夜空を見上げたままの寛治の胸ぐらをつかんでいた。


「そんなのどうだっていいよ!」


 自分史上一番大きな声が出る。


「どうだっていいって、俺はもう死ぬしか正常に戻れないんだ」

「そんなの私が許さないから!」


 力強い声で寛治の言葉を抑え込む。こうやって誰かの考えを徹底的に無視して、自分の感情を最優先するのは初めてだ。しかもこれは説得じゃない。納得してもらいたいとも思っていない。寛治が首を縦に振るまで何度だってこの本心を言い続けてやる!


「寛治が死ぬなんて、そんなの私が絶対に許さないから」

「でも俺は!」


 上半身を起こした寛治に両肩を掴まれる。指がめり込んで痛い。だけど目の前にある引きつった頬や額に張りついた髪の毛、異様なまでに震えている瞳を見ている方がもっと痛い。


「俺はもう普通には戻れないんだよ。染まったんだ。体が正義を求める。悪を成敗するあの快感を欲する。だから俺は悪人を探したかったんだ。能力で悪を裁いてもらえばよかったのに、与えられたのは俺自身が裁かなければいけない能力だった。こんなのおかしいだろ。こんなはずじゃなかったんだ」


 寛治の顔は涙でぐちゃぐちゃだ。苦しんでいる理由も理解はできる。でも寛治がいなくなるのがなにより嫌なんだ! 寛治がなにをしたとか、なにを思ってるとか、悪人とか正義とか、そんなのどうだっていい! 寛治がいなくなるのが嫌なんだ!


「俺は生きてちゃいけない。死ぬしかない」

「ふざけんな! 寛治は私が殺させない!」


 奈々は寛治を抱きしめていた。寛治の体は氷のように冷たい。絶望を抱きしめているみたいで、だからこそ今思っていることを、まっすぐに伝えないといけないと思った。


「寛治の言ってることなんて知ったことか! 私には関係ない。ちゃんと償ってよ。みんなで待つから。私たちは寛治のことをずっと待ってるから」

「こんな殺人鬼とつき合うなんて、みんなのためにならない」

「殺人鬼だからなんだよ! 知るか! 誰がなんと言おうと、寛治は私のかけがえのない友達なんだ!」


 奈々は決意する。


 寛治の居場所を守るため、大切な友達が更生して戻ってくる場所を守るために、私だってやってやると。【導師】が教えてくれたことを実行すると。


「私が絶対に、みんなをいつまでだって離れ離れにさせない。寛治の居場所を守り続けてみせる」


 だからお願い。死なないで、生きて。


 奈々は寛治と目を突き合わせて、くしゃりとはにかんだ。みんなのことが大事なんだって、脳天から爪先まで強く思っている。寛治を失いたくなんかない。だってかけがえのない大切な友達だから。


「私たちはいつまでも私たちのまま、寛治の帰ってくる場所であり続けてみせる。だから寛治は安心して、何年かかっても償って、更生して、寛治のままで戻って来てよ」

「奈々……俺は! まだ……」


 その先、寛治がどんな言葉を言おうとしたのかは、想像でしか語れない。だけど私たちの中で誰よりも大人っぽくて、冷静で、凛々しかった寛治の慟哭を、子供みたいに泣き続けるその姿を、奈々は初めて目にしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る