第一章  あなただったら人を殺せますか? 高麗奏平1

ミッション失敗

 夜空には不気味な朧月が浮かんでいる。その淡い光を放つ球体の真下、暗闇の中に聳え立つ荘厳な宮殿のとある一室で、一人の男が懸命に命乞いをしていた。


「やめろぉ……助けてくれぇ。なんでもするからぁ」


 机上にあるランタンの灯りだけが頼りの部屋に、無様な声が虚しくこだまする。短刀を向けられている男の顔は恐怖一色だ。腰が砕けて立ち上がることすらできていない。すでに背中は壁にぶつかっているのに、なおも後退しようと足を動かし続けている。


「頼む。見逃してくれ」

「今更もう遅い」


 奏平そうへいは冷たく吐き捨てる。こいつは、この異世界の民を虐げ続けてきた独裁者だ。都合のいい時だけ弱者ぶりやがって、反吐が出る。


「命だけは助けてくれよ」

「黙れ」

「頼む。俺には息子がいるんだ」

「……え?」


 顔を涙や鼻水でぐちゃぐちゃにした独裁者からそう懇願された瞬間、指先にしびれが走った。思わず短刀を落としそうになる。


「とう、さん?」


 穏やかな顔で笑う父さんが目の前にいた。

 独裁者の顔が父さんの顔に変わっていた。


「絶対、金輪際悪いことはしないからぁ」


 独裁者の声が父さんの声として聞こえる。そのせいで、奏平は体の奥底に追いやったはずの罪悪感と恐怖を思い出してしまった。


 人を殺してはいけない。

 子供だって知っている常識だ。


「心を入れ替えるからぁ」

「お前は極悪人だ。殺さなきゃいけないんだ」


 奥歯をぐっと噛み締める。こいつは、カリーム・ベルドラは、暴力と恐怖によってこの国をこれまで支配し続けてきた極悪人だ。


「息子に、ラッシュに会いたいんだぁ」


 そんな残虐無比な男でも、我が子は可愛くてたまらないのだろう。息子の前では優しい父親を演じてきたのかもしれない。こいつを殺せば、ラッシュとかいうやつは最愛の父親が死んだと泣きじゃくるかもしれない。


「殺さないでくれぇ」


 ただ、どんな殺人であっても、それを正義だと周囲が認めさえすれば罪にはならない。目の前で失禁しているこの男は人間じゃなくて、人の皮を被った悪魔だ。


 幻聴を振り払おうと、奏平はあえて強い言葉を選んだ。


「お前はここで殺す。それが俺の使命だ」


 この世界に転移する前に、女神様に与えられた使命。


 カリーム・ベルドラの暗殺。


 これに失敗すれば、奏平は願いを叶えられなくなる。


 みんなの願いも叶わなくなる。


「殺す。絶対に殺す」


 しかし、言葉とは裏腹に握りしめている短刀は動かない。あと数十センチ動かしてこいつの体に突き刺すだけなのに、その場で震えているだけ。


「俺がやらないといけないんだ」


 自分自身に言い聞かせて迷いを断ち切ろうとする。こいつを殺すだけで、この国の民は幸せを手に入れられる。みんなだって願いを叶えることができる。


 女神様は言ってくれた。


 あなたたち五人が一人ずつ別の異世界に行って、その五つの異世界をすべて救うことができれば願いを叶えてあげると。それは裏を返せば、五人のうち一人でも失敗したら願いは叶わなくなるということでもある。残りの四人の苦労は水の泡となる。


「くそぉ!」


 けれど奏平の体は動かない。目の前で醜態を晒している男に、どうしても父さんの姿が重なってしまう。優しく笑う父さんが「お前は俺を殺せるのか」と心に問いかけてくる。


 カリーム・ベルドラを殺すことは、父さんを殺すことでもあるのだ。

 父さんを悪だと認めることになるのだ。

 どうしてこいつの優しい父親面の方が本物だと、信じてしまいそうなんだ。


「こいつは、俺の父さんじゃない」


 呟きながら目を閉じると、父さんとの大切な思い出が瞼の裏によみがえってくる。


 父さんが誕生日に買ってくれた犬のぬいぐるみは、今でも大切にしている宝物だ。

 子供の日に遊園地に行ってメリーゴーランドに乗った時は、天国にいるかのように幸せだった。

 公園でキャッチボールをしている時にワインドアップという投げ方を教わってから、コントロールが格段によくなった。


「だからこいつは父さんじゃない! 極悪非道のッ……」


 瞬間、右の脇腹に激痛が走った。

 痛みで、短刀が手から滑り落ちる。

 それまで恐怖に怯えていたカリーム・ベルドラの不敵な笑みが眼前に迫っていた。


「目を閉じるなんて余裕だなぁ」


 続けざまに左の頬を殴られる。腹を蹴り飛ばされて体が後ろに吹っ飛び、背中が壁にぶつかる。肩甲骨が砕けたかもしれない。そう思った瞬間には、もうカリーム・ベルドラに組み伏せられていた。


「こんな危ないもの、落としちゃだめじゃないか」


 喉が燃えるように熱い。カリーム・ベルドラが握っている短刀から赤い液体がぽたぽたと垂れている。血だ。カリーム・ベルドラの顔も返り血で真っ赤だ。


「さようなら。偽善者君」


 ああ、やっぱりこうなってしまったか。

 ごめん。みんな。

 願いを叶えてやれなくて。


 朦朧とする意識の中で最後に見たカリーム・ベルドラには、やはり父さんの姿が重なっていた。

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