Ρ 縄の如く Nemo ante mortem beatus. 1948,5,8(STU)

Ⅰ死は確実、時は不確実 Mors certa, hora incerta.


美しさが、富が、名誉が、崇高が、

いったい何になるだろう?

死が勝手きままに、

我々の上に雨を降らせたり、乾涸びさせたりしているのに。

                   エリナン・ド・フロワモン『死の詩』


 昨日、五月七日は聖グレゴリウス七世教皇の日だった。伊太利北部の貧しい村に生まれたこの御仁は苦学の末に教皇となり、教会改革政策に不満を持ったドイツ皇帝ハインリッヒを破門した。

 カノッサの屈辱。皇帝の破門など誰も予測できなかったであろう。何事も不意に訪れる。バイロン『ドン・ジュアン』曰く『事実は小説よりも奇なり』。

 岩田は奇なることが、目の前に現れんとしていることを薄々予感していた。『マリヤ』との別れを迎えた翌朝の朝食時、卓子には穂邑の姿がなかった。創作に熱中するが故に穂邑が朝食の席を外すのは稀ではないらしいが、現在の状況が状況だけに皆の胸中には穂邑の無惨な姿が描かれた。ヨハネの默示録の四番目の見立ては「死」。阿見光治の死によって見立ては完結したのではないか。否、あれは犯人にとって想定外の殺人だったのではなかったのか。ならば、穂邑は何者かによって陰府に召されたのか? 穏やかであるべき朝食のひと時は慄きと不安の坩堝と化した。だが妻である百合子、そして帥彦は未だ事情聴取から返されておらず、穂邑の不在によって最も不安を受ける者がいなかったことは幸いしていた。不安の渦は最小限の求心力で回転するに留まった。

 穂邑のいる工房の様子を見に行くという平戸警部と万里雄の後に続いて工房に向かった。

「扉に鍵が掛かっています!」

 あのピエタのある右の間の扉―深見の遺体の見つかった部屋の向かい側の扉―を揺す振りながら、万里雄が言った。冷や汗と不安で毛並がテラテラと輝いていた。平戸警部は万里雄を押し退けて扉の前に立ち、ドンッ、ドンッと扉と叩きながら、「穂邑さん、返事をして下さいッ」と言った。しかし中から返事はない。平戸警部は万里雄に向かって「合鍵はないのか」と訊いた。

「合鍵はありません。内側からのみ鍵が掛かるやつですから」

 万里雄が言うと、警部は唇を噛み締めて眉間に皴を寄せた。

「扉に体当たりをしましょう! それしか術は無い!」

 岩田が提案すると、警部は怪訝な顔をした。

「体当たりをする?」

「そうですよ、さあ、早く!」

 岩田は扉に向かって全身の体重を掛けて体当たりを始めた。扉は重く、岩田の一人の力ではびくともしなかった。けれども事態は一刻を有さない。岩田は懸命に体当たりを続けた。

 ドンッ、ドンッ。

 岩田に追従して万里雄が扉に体当たりを始めた。続いて観念したかの様な顔をして平戸警部も体当たりを始めた。

 ぱあんッ。ドオーン。 

流石に丈夫な扉も三人の体当たりには敵わなかった。扉は軋みを立てて、勢い良く室内に向かって倒れた。

 嗚呼、美しい(Beau Voir)。

 岩田は図らずも扉の向こうに開けた凄惨なる状況に無極の美しさを見出してしまった。目の前に見えたもの、それは『生気を吹き込まれた大理石』だった。

 室内には羽を持った少年の裸身像、甲冑を見につけた女戦士。肉体美を誇る希臘神話の神々の像。亡骸を抱く母。聖書の中の聖人や神話の住人。聖なるが生気を持たぬ大理石像が室内には埋め尽くされていた。岩田が幾晩か前に見た大理石像が其処に変わらずあった。だが岩田が美しいと心動かされたものはそれらでない。それらに取り囲まれる様にしてその中心にあったものだ。

 生気を吹き込まれた大理石。それは穂邑の死臭漂う肉体だった。肉体美の礼賛を称えた生気のない大理石に囲まれて芸術家久流水穂邑の遺体があった。青年は地面に横たわり、両手を左右に広げていた。その脇腹には長い柄の槍が突き刺さっていた。槍の矛先と肉体の間からは真ッ赤な、毒々しいまでに真ッ赤な鮮血が流れて、床一面と、白いシャツを真ッ赤に染めていた。遺体のズボンからは懐中時計の真鍮の鎖が覘き、綺羅綺羅と輝いていた。同心円を描いた真ッ赤な血溜りに十字に青年が寝そべる。青年の顔に苦悶はない。青年の顔付きは穏やかであり、その肌の色は蒼白くて尊かった。少し波の掛かった漆黒の髪は生あるときよりも艶やかに思われた。穂邑の遺体の傍らには主の死を認識していないのか、尨犬メフィストが気遣わしそうに鼻を鳴らしながら、ぐるぐると回っていた。賢き黒犬も主の死の認識はできぬものなのか。

 真ッ赤な背景に十字の格好をして槍にて穏やかに絶命した青年。恰も中世の宗教画然とした風情だった。この世のあらゆる罪を受けて、死した青年。それを取り囲み、冷ややかに見詰める魂の無い人形たち。艶やかな毛並みを立てて生々しい獣の匂いをさせた尨犬は、美しき生気を吹き込まれた大理石を対比として美を引き立てていた。すべてが絵画的だった。岩田が忌むべき遺体に美しいという感情を芽生えさせたのも止むを得ない。青年は生前に希求して止まなかった美を死によって完成させたのだ。

 かつて岩田は美しき美少年、美少女を剥製にしてしまう探偵小説を読んだことがある。まさに目の前にある情景はそれだった。死によって魂が抜かれた肉体が何故にしてこれほどに美しいのか、これほどに生気を持ったのか。魂なくして生気を得たように見えるのはなぜか。魂というやつは地上ばかりか、天上を含めて最も尊い代物かも知れぬ。だが魂はあまりに尊く、峻厳が故にその器を直ぐに駄目にしてしまうものかも知れぬ。魂の峻厳さに現世の肉体が耐えられぬのだ。耐えられぬが故に現世の器は皹が入りて老残を迎えるのではないか。肉体は常に悲鳴を上げているのではないか。ならば魂が抜けて尚且つ魂の僅かばかりの残り香が漂うものは現世の中で最も穏やかなものではないのか。それ故に生気を得ている様な輝きを見せているのではないか。

 魂の残り香のない大理石には生気は宿らぬ。魂が宿っている肉体は悲鳴を上げる。魂の残り香のある肉体が最も美しい。岩田は眼前の美に酔いしれた。皮肉な、最も皮肉な美に。

「今度は槍か!」

 岩田が凄惨なる美に酔いしれている背後で平戸警部が懊悩した声を発した。岩田はその声に我に返り、改めて目の前にあるそれを殺人遺体として認識し直した。穂邑の遺体に刺さる槍は匕首のようなものに長い棒を柄として括り付けた手製のものであった。犯人はどうしても槍を使用したかったか。

「ヨハネの默示録の第四の封印は死の権利だった。ならば槍を手製で拵えなくとも見立てはできた。犯人は何を考えている!」

 平戸警部はチョッと舌打ちをして言った。無理に槍である必要はないのだ。平戸警部に指摘されて岩田もその事に気付かされた。しかし、この疑問は真ッ黒な顔をして遺体を見詰めていた万里雄がその答えを出した。

「默示録は四人の騎士の実像に仮託して表現される。『ベアートゥス注釈書』を見るように四人の騎士は各々手に弓矢、剣、天秤、槍を持っている。犯人はこの四人の騎士を念頭にして凶行に及んだのでしょう。警部さん、そんな槍よりもこの事件で重要なことがあるでしょう。それにお気付きですかね?」

「重要なこと?」

 岩田は穂邑の遺体を見直したが判らなかったなかった。平戸警部も岩田と同じらしく怪訝な表情をして、万里雄に発言を促した。

「この部屋の窓は全て羽目殺しで開かないのです。扉は内側から鍵が掛かっていた。人が出入りできるところがない!」


今この世に生きている人たちが死にたえても、

……君は永遠に生きる。

                ウィリアム・シェイクスピア『ソネット集』



Ⅱ監禁、即ち地獄imprisonment


我等はみな必ずキリストの審判の座の前にあらはれ、善にもあれ惡にもあれ、各人その身になしたる事に隨ひて報を受くべければなり。

                    コリント人への後の書第五章一〇節


 悲劇は余りの悲劇であるが故に転じて喜劇と思わせる瞬間が存在している。人々はそれをもって人生にはいつか良いことがあると嘯く。人生における喜びなどは暗闇に潜む獣の爛爛とした眼の輝きにしかすぎぬ。その輝きに魅せられて近寄るといつの間にかに獣の牙が首の根っ子の部分に食い込んで血を噴出すことも無く、闇に身を委ねることになる。血肉を闇夜に奉げて初めて魅せられた輝きが獣の眼のそれであることに気付くのだ。絶望、無駄な悔悛が闇夜に薄っすらとした靄を掛ける。

 獣の牙に掛からぬためにはどうしたら良いか。それは単純な答えだ。目暗になっていしまえばよい。己の目を潰すなり、唯に目を閉じ続ければよいのだ。輝きを見なければ、見ようとしなければ、獣の眼に魅せられることはない。眼を瞑ってさえおれば良いのだ。目を瞑ってさえいれば。闇の獣に対して眼さえ瞑っていればよいのだ。無駄に輝きを見出そうとするからこそ辛いのだ。

 岩田は黙秘を続けていた。それ以外にこの悲劇を軽減させる術はない。岩田は対面する平戸警部の罵倒に無言で通し続けた。

 岩田は穂邑の遺体発見後に平戸警部に逮捕されてしまった。久流水家の奇水館の隅に特設された捜査室にて、百合子と帥彦に代わって尋問を受けることになってしまった。百合子と帥彦は穂邑の殺害時に警察の面前にいたのだから確固たるアリバイが証明されることとなって釈放となった。また『主流帥彦』なる名前は百合子が義人に代わる心の支えとして、さりとて、そのまま『義人』と名乗らせるにも躊躇われて義人をアナグラムをして帥彦に名づけたと言う供述をしていたらしい。

 岩田の尋問は数時間にわたり行なわれ、日は落ちて夜になっていた。四角く区切られた小さな窓からは糸の様に細い月と幾数の星の瞬きが見えるばかりであった。平戸警部は今朝までの岩田に対する温厚さを消して、藪睨みで岩田を攻め続けていた。「やいッ、貴様がやったのだろ!」、「白状せんか!」、「新法では何やら人権なんぞと言っているが、犯罪者に権利なぞない、豪そうに黙秘権など使うな」。平戸警部の岩田に向けた罵詈雑言は凄まじかった。尋問当初は懸命に反論していた岩田だったが、猛然とする平戸警部にはなすすべなくして、沈黙を決め込んだ。

 穂邑の懐中時計が凶行時に壊れたお陰で、正確に判った犯行時間がちょうど、岩田が『マリヤ』と別れた後に工房の前を通りかかった時間であった、また岩田が犯人であるという心証を得たのは、何よりも現場に岩田のハンケチが残されたいたということだった。犯行時間に現場付近にいた事は偶然にしか過ぎぬし、岩田のハンケチがあったことも真犯人が濡れ衣を被せようとした詭計だと考えられるにも関わらず、警部は執拗に岩田を責め立てた。 

 なぜにこうも僕は不幸の中にいる? 亜里沙の死を知り、『マリヤ』と別れる。冤罪逮捕。何故に悲劇が続くのだ。しかもこんな時に限って御堂周一郎は失踪している。自分を助けてくれる者などいない。何故自分一人だけが不幸の中にいる?

 亜里沙。僕は不幸のどん底にいるのだぞ。僕を助けてくれ。天使ベアトリーチェ、君はどうして今この時に僕の微笑んでくれない? どうして僕の下を離れているのだ。どうして陰府に旅立ってしまったのだ。君はどんな時も僕の側にいたではないか。

 あれは探偵小説家として糊口を凌ぐ事が難しくなって来たころだ。仕方なしに日雇いの仕事でもしようと、西奔東走したのにも関わらず、一つも仕事が決まらないで間借りした薄暗い家で日がな酒を飲んで酩酊していたころだ。探偵小説家としてしか生きていけないにも拘らず、それもできない八方塞の状態を怨み、愚痴を零していた。酒を飲み、愚痴るだけの生活。それしかなかった。亜里沙はそんな情け無い亭主を非難軽蔑することなく、自ら内職をして黙々と夫を支え続けていた。

 けれども、何もかも上手くいかない男にとって女の健気さは空恐ろしいものだった。無上の誠心は後ろ暗い者の心を照らして丸裸にする。つまらない自分を責め立てているようにしか感ぜられなかった。その健気さ憎らしくて、同時にそれほどになって自分を支えてくれることが愛おしくて、相反的に懊悩させた。

そして懊悩する故に、妻を殴った。

「僕を軽蔑すればいいじゃあないか」「僕を冷笑しろ、哂えよ、哂え」「あはは、あはは、あはは」

 岩田がどんなに殴っても亜里沙は健気であった。

 なんて自分は惨めなのだろうか。目を瞑しかやってられない。ジッと、ジッと目を瞑るしかない。目を開けるから惨めに思えるのだ。闇夜に光を求めようとするからこそ惨めに思えるのだ。盲目にて生きてゆけばよいのだ。心の盲目になればいいのだ。決して絶望することはない。絶望とは希望を前提にしたものなのだ。だがその希望なんてものはとても曖昧で大抵は夢幻の産物なのだ。自ら闇夜を造り出した者が皮膚に張り付く外界の闇を懼れることがあろうか、否、ありはしない。

 たとえ絞首台に送られようとも何を嘆くことがあろう。恒久の闇が永久の闇になるだけだ。半端な闇より真なる闇の方が寧ろ潔い。光さえ呑込んでしまう程の闇なれば返って半端な光を放つマッチの燃え滓よりも心地よい。冤罪が何だ、絞首刑が何だ。結局は普段と変わらぬ日々の延長線あるに過ぎぬではないか。濁りし瞳が深淵の闇になるのだ。悦ばしいではないか。

「あはは、あはは」

 岩田は唇に一寸歪めてシニカルに哂った。哂い声は区切られた真ッ黒な空間的闇夜に吸収されていった。

 岩田が己の人生を呪って冷笑していると、突然に扉がバンッと開いた。扉の先には真ッ黒な人影が見えた。岩田は突然に入ってきた者が何者か眼を凝らした。

「莫迦か? 平戸君、岩田が犯人だって? 岩田ッ、お前も莫迦か? 頓馬に警察に捕まるなんて。まあ、日付を超えるまで沈黙し続けたのはお前にしては根性があるけどねェ」

 扉から入って来た人影――。それは真ッ赤な支那服を着て女のように長い髪を垂らした黒眼鏡の男、失踪していたはずの解決屋、御堂周一郎だった!


『ゆきてシロアム(釋けば遣されたる者)の池にて洗へ』乃ちゆきて洗ひたれば、見ゆることを得て歸れり。 

                       ヨハネ傳福音書第九章七節


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