ファンファーレ! 〜競馬場って楽しいよね♪〜

伊島尚希

プロローグ

「また、商談上手くできなかったな 」


 小金井遥は、落ち込んでいた。学歴から考えればなかなか良い商社に入社出来たのだが、上手く仕事が出来ない日が続いている。


 今日も同行している先輩がフォローしてくれたが、いつまでもこれではいけないと思っている。




「もう仕事辞めたいなぁ……って、これ5月病ってやつなのかな」




 そんな風にモヤモヤした気分でデスクワークをしていると


「おい、小金井、昨日頼んだ件終わったか?」と課長に声をかけられた。




 ハッとした。


 何を頼まれたか全く覚えていないのだ。恐る恐る課長に尋ねる。




「すいません。どの件でしたでしょうか?」


「北星商事の件だ。まさか忘れていたのか?」


 呆れたように課長が言う。




 確かに言われていた。


 完全に頭の中から抜け落ちていた。遥は自分の落ち度に情けなくなった。


「すいません。本日中に作成します」


 目一杯頭を下げて課長に言う。




 どうにか許しを得た遥は、資料作成のために残業していた。もう22時を過ぎたところだ。


 もう周りに人のいない広いオフィスでひたすらに作業をしていく。


 ひたすらに業務に邁進していたが、ようやく一息つけた時、ひたと頬を涙がつたった。




「情けないなぁ。本当に」


 一筋の涙は、徐々に水量を増していく。


 その時、横合いからゆらりとえんじ色の缶が差し出された。




 広報の三鷹ゆりだ。


 多くの男性社員から「嫁にしたい」と社内有数の人気を誇る美人社員だ。


 もう誰もいないと思っていたところの、突然の差し入れに遥は戸惑い固まっていた。




「あら、ドクペはお嫌いかしら」


 慌てて遥はプルタグを引き、そして一気に飲み干す。


「ありがとうございます。美味しかったです」


「いい飲みっぷりね、どう落ち着いたかしら」


 ゆりは、遥に優しく微笑む。


「はい、本当にありがとうございます」


 ゆりが来なければこのまま一人、泣き続けていたかもしれない。


 傷ついた心を優しくさするようにドクペを差し出してくれたゆりを、遥は女神のように思った。




「三鷹さん、ありがとうございました」


「落ち着いた?あまり無理しちゃだめよ。もう仕事は終わったの?」


「一通りは。あとは最終チェックをして、最後の仕上げを……」




「あとは明日やりなさい」


 真面目に答える遥にゆりは言う。


「えっ、でも……。いやこの程度の仕上がりで帰れないです」


 ちょっと考えるとゆりは、遥を諭すように言う。


「熱心なのはいい事よ。でも明日の自分を信じなさい。すぐに帰るのが不安なら、そうねあと30分だけにしなさい。チェックだけして、残りは明日。いいわね」


 気圧された遥は思わずうなずく。


「じゃ私は先に帰るから。約束よ。あと30分よ」




 そう言うとゆりは、きれいに茶色に染めた、軽くウェーブのかかった長い髪を翻してオフィスを出ていくのだった。




 遥はこの時の杏仁豆腐のような味を忘れられない。遥はこれほどまでに美味しい飲み物があるということを知らなかった。




 だが遥は、このあとの人生でこの飲み物を何度か飲むのだが、なぜか一度も美味しいと感じることはなかった。


 遥は思う。あの時は本当に追い詰められていたのだったと。

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