その魔女を渇望してはならない

 その日から、俺はかなえさんの店の地下で、緩やかに飼われることになった。食事は部屋にある分はいくらでも食べていいらしいし、シャワーもトイレもあるため生活をするだけなら困らない。別に繋がれているわけでもなく、俺はあてがわれた部屋の中なら自由に歩くことが許された。どうせいつかは飽きられるだろうから、ここを出たら死ぬ気でいる。それをすんなり言える程度には、俺はこれまでの生活に未練がなかった。

 てっきりこの店が本業かと思ったが、かなえさんは日中は別の仕事で外に出ているらしい。それもあの店の内装のようなものかと思っていたが、形成外科で働く看護師であるという。さすがにかなえという名前を名乗っているかどうかは怪しいが、人の仕事は見かけではわからないものだと妙に関心した。


 外に出られない俺がかなえさんの仕事を信じざるをえなくなったのは、毎夜行われるが理由だった。



「……ねえ、今日は舌を弄らせて?」


 いつもの香水をまとわせて部屋にかなえさんが訪れるのが、支払いの合図になっていた。拒否をする理由もないので、俺は素直にかなえさんの待つベッドに腰を掛けた。昨日は右手に新しいタトゥーを入れられ、一昨日は巨大なピアスを鼻にあけられている。かなえさんは、いわゆる身体改造の施術を非常に好んでいた。毎夜体の一部分ずつ、身体改造の実験体として提供する。それが、かなえさんとの支払いの約束だった。あの美しい顔も形成外科の賜物たまものなのだろうか。どんな経緯があれ、美しいことには変わりはないためあまりに些細ささいな話だが。

 これは最近自覚したのだが、かなえさんに体を弄られる事を、だんだん喜んでいる自分がいる。痛みを伴うからではない。人からだんだんと離れていくのは、それなりの人間嫌いだからちょっとあるかもしれない。それよりも、毎夜共有するこの濃密な時間そのものを、俺は楽しみに待つようになった。


「落ち着いているみたいでよかった。出会った時の貴方、本当にやけっぱちだったもの」


 麻酔をかけられた後、舌の感覚が完全になくなるまでの間、かなえさんが甘い吐息と共に俺に話しかける。今日は舌を弄られているので、俺は軽くうなずくだけだ。甘い香りに体を委ね、体の奥底までかなえさんの好きにさせる。いたぶるわけでもなく、ぞんざいに扱うのでもなく、ただただ愛おしそうに身体改造を施す様は、奇妙ではあるが悪意はない。むしろ痛みを覚えることがないように細心の注意を払い、俺の心が落ち着くように語りかけてくれる。穢れのない、聖なる行為に思えた。


「昨日話してくれた人の事、考えていたのだけれど……貴方の言う事、正しいと思っているわ。あえて酷い言葉を使うのは、その人が悪いもの」


 支払い中はどうしても時間がかかるので、それしか話すことのない俺は、ありきたりな恨みつらみをかなえさんに吐き出すようになった。納期を考えない仕事を投げては罵倒してくる前の上司、これ見よがしに自分はできることを見せつけてくる年下の同僚、自分が間違っていると認められなくてコップを投げつけてくる母親、お前の考えが間違っているからと助けてくれないくせに、金ばかりむしり取っていく心療医とやら……。思えば、とにかく人を憎んできた人生だった。受けた罵倒の数だけ、俺も罵倒を返して、傷つけた。俺はただそれだけの、つまらない男だった。

 ……わかっている。わかっているのだ。原因は全部俺にあることも。それでも罵倒をしてくる奴らのことが許せなかった。わかっている傷口をえぐってくるような奴らの性格の悪さが、憎くてたまらなかった。死のうと思ったのだって逆ギレが大半だ。ただ、俺が全部悪いだなんて言ってしまえば、俺はこいつらに殺されると思っていた。


 そんな毒にしかならない話を、かなえさんは全て受け止めてくれた。貴方は怒っていいのだと諭す声に、俺は確かに救われた。そして今日もかなえさんは俺の味方でいてくれる。感極まって、顔をゆがめて俺は号泣した。きっと気持ち悪い顔をしている。せめて邪魔にならないように、開けっぱなしの口はできるだけ動かさず、彼女の手を汚さないように自分で涙をぬぐい続けた。汗のせいなのか、開けたばかりの鼻のピアスの穴が、少し傷んだ気がした。


 かなえさんの手元で、つぷつぷと舌が分かれていく。彼女の手によって切り分けられる舌の感触を反芻はんすうしながら、俺は痛み止めの説明を受けた。腫れが落ち着けば、それぞれ別の方向に動かせるようになるらしい。ちゃんと支払いが終わったことを示すために、今度に舌につけられたピアスを左右交互に揺らして見せようと思う。


「今日は、ここまでね。また明日、……いいかしら?」


 肯定の意味で、何度も顔を縦に振った。一時的な別れの言葉と共に黒いワンピースがドアの向こうへ滑るのを見送って、俺は言いつけ通り薬の準備をし始める。まどかのくれる痛み止めの処方は、いつも完璧だ。それもあって、俺にはこの支払いが全く苦ではなかった。むしろこの支払いは、今まで何もいいことがなかった俺へのささやかな褒美にも感じるほどだった。


(ああ、明日まで待てば、また会える)


 貰った薬の袋からかなえさんの残り香を感じた俺は、その香りをかぎながら床の毛布にくるまり、そのまま眠りに落ちていった。



 彼女に宛てられた「魔女」とはどうやら誉め言葉らしいが、俺にとっては救世主メシアであり、女神ヴィーナスであり、赦しそのものだった。



**********



(俺はなんでここにいるんだっけ。まどかを探さないといけないのに……)


 自分でもよくわからない疑問が浮かぶ。あれから支払いを数十回はやったと思うが、俺はずっと同じ生活を続けていた。

 支払い後に「俺はかなえさんの物だよ」と口走り、「それなら下の名前で呼んで頂戴?」と微笑まれてからというもの、俺はかなえさんを、下の名前であるまどかと呼ぶようになっていた。


  まどかに体を弄られ続け、支払いをしている俺もタトゥーとピアスだけではあまり満足できなくなってきた。当たり前ではあるが、支払いが長ければ長いほど、まどかは傍にいてくれる。簡単な支払いであれば個数を多く、時間があれば規模が大きく時間がかかるものを、俺はまどかに自分からねだり始めた。支払いたさに子供のようにぐずる俺に、まどかは俺の負担にならないようにと少しずつ順番にやってくれるようになった。最近のまどかはシルエットを大きく変えるような身体改造に興味があるらしく、俺も喜んで協力した。セイリーン・インフュージョンというらしく、食塩水を直接注入するらしい。体を膨らませるとなるとシリコンもあるが、水特有の柔らかな感触と温度がまどかは好きらしい。放っておくとしぼんでしまうので、数日おきに俺は体に針を刺してもらっている。

 なので、最初と比べるとずいぶん姿は変わったと思う。まどかがタトゥーを入れやすいように、俺は伸ばしっぱなしの頭髪をそり落とし、スキンヘッドにした。ピアスもより大型のものになり、ワイヤーで跡が付く程度に縛りながらつけるなど、特殊な付け方をするようになった。食塩水で膨らませた額が当たり前になった頃から、昔の自分の顔をほとんど思い出せなくなっていた。そもそも、それまでは自分の顔を熱心に見たりなんてしてなかっただけなのかもしれない。

 特に一番大きく変わっているのは、腹だ。ピアスやタトゥーに傷がつかないように、俺は激しい運動をとにかく避けた。その結果、中途半端に出始めていた腹を見たまどかが、膨らませてみたいと申し出たのが発端だ。大量の食塩水を複数の点滴で注入し、次第に股が見えなくなるほどの巨大な腹になった。重力に合わせて垂れ下がるのだが、その下に手を置き腹の重みを堪能する、まどか恍惚こうこつとした顔が忘れられない。俺は、まどかがあんなに喜んでくれるならと少しずつ食塩水の注入量を増やしてもらった。今や腹は、妊婦以上の大きさになっている。食塩水を注入されるたび、まどかが食塩水の中に溶け込み、俺と一緒にいてくれるような安心感を覚えている。一人になってもまどかが俺にそうしたように、丹念に腹をさすり、触れられたあの瞬間を夢想する。そうして眠るのがここ最近の日課になりつつあった。


 そんな俺を見るまどかは、相変わらず優しいほほえみを俺に向けてくれる。むしろ、最近になればなるほどまどかは愛おしげに俺に触れ、支払いが終わっても長い間俺のそばにいてくれるようになった。初めて出会った時から見惚れていた美しい顔が俺にだけ向くその瞬間、絶頂が生ぬるくなるほどの幸福感を毎度味わっている。その幸福が得られるのならば、死ぬなんてとんでもない。

 まどかが俺の姿を褒めるようになってから、俺は殆どの時間を裸で過ごすようになった。服を脱ぐだけで、こんなに開放的な気持ちになれるなんて、何故服なんか着ていたのだろう。いない間も、俺はまどかに褒められた自分の姿を心地よく眺める時間が多くなっていた。膨らんだ腹のせいでもう服は着られないが、そんなことはどうでもよかった。

 きっと、まどかにはとても美しいものが見えている。俺も、同じものが見たい。まどかの望む美しい物でありたい。まどかが見てくれるなら、美しくなりたい。



 ……今、まどかは出かけている時間だったような気がする。毎日必ず来てくれるのだが、なんだか今日は一段と遅い気がする。もう時間も分からないのに、そんな気がした。まどかがいない。落ち着かない。俺は背中を丸めて重い腹を守りながら、ふらふらと部屋の中を徘徊はいかいする。毛布を引きはがし、部屋中の箱を開け、便器に手を突っ込んでも見つからない。ふいに探していないことを思い出し、ゴミ箱をあさるとずいぶん前に捨てた薬の袋が出てきた。あの時は優しいまどかの匂いがしたのに、今はしない。まどかがいない。前はこの袋から感じられたのに、いない。


「……まどか、まどか、来てくれ」


 体中のピアスをまさぐりながら、俺はまどかが来るのを待ち続けていた。食事もどうでもいい。別に寝なくてもいい。とにかくまどかが来るまで、俺は落ち着くことができなくなっていた。俺はいつしかうなりながら床をひっかき、まどかの名前を呼び続けた。膨らんだ腹が床にあたり、まどかに優しくなでられていた時を思い出す。まどかの声が聞こえた気がしたが、途中で切れて何も聞こえなくなってしまう。それがたまらなく悲しくなり、体を、ピアスを、腹を、何度も振るわせて大声をあげて泣いた。

 泣いている間に、腹の下から細い水の音がして、足元に黄色い水たまりができる。……この恩知らず。せっかくまどかに腹を膨らませてもらったのに。なんでおしっこなんかするんだ。ばかだ。おれはばかだ。まどかにもらったものを捨てるなんて、おれはばかだ。あんなにきれいな水を、くさくてきたない色にしやがって。ばかめ、ばかめ、しんでしまえ。……うそだ。こわい。たすけて。うそなんだよ。ゆるして。うそだっていってるのに。


 こんなによんでいるのに、まどかがいない。ふあんでしかたがない。

 きゅうにへやにきたひどいことをいうやつが、もらしたおれをばかにしている。

 たとぅーがかってにうごいている。

 たすけてくれ。


「たすけてくれ、まどか……」


 ―――――ふいに、きたないおれのてを、だれかがにぎった。

 あまいにおいがする。……まどかの匂いだ。


「泣かないで、あたしはここにいるから」


 隣にまどかがいた。まどかがいる。よかった。少しだけだが、おちついてきた。いつ部屋に入ってきたかはわからないが、俺がそれどころじゃなかったから気が付けなかったんだろう。

 息が荒い俺に、まどかがハーブティーをくれた。飲み干すと、すっと気分が楽になる。冷静になってようやく、俺は相当呼吸が浅かった事に気が付いた。意識して呼吸を整え、部屋を見回し……そして、絶望する。


「ご、ご、ごっ、ごめん、汚くして……」

「大丈夫よ。少しの間だけ、触らせて頂戴ね」


 言葉に詰まる俺をあやしながら、まどかが俺の体をぬれたバスタオルで拭う。涙と鼻水とよだれにまみれた顔から始まり、首を伝って胸元を優しく包み、指先まで丹念にふき取る様子を俺はぼんやりと見ていた。まどかは俺を立ち上がらせて、手際よく背中から尻、足を拭いてベッドに座らせ、新しいバスタオルで今度は体の前面を拭き始めた。

 まどかに拭かれている事に勝手に興奮しかけたが、それにしてもずいぶんと丁寧に拭かれている。ふいに、まどか越しにさっきまでうずくまっていた床を見ると、尿で床が水びだしになっていた。急に意識が鮮明になり、それまでの奇行が頭にフラッシュバックをする。ようやく、俺はまどかに話しかけられるまで何をしていたかをはっきりと自覚した。

 俺は、自分が恐ろしくなった。まどかといる時は、落ち着いていられる。いなかったら、俺は部屋を散らかし、ションベンを振りまき、まどかがいないからと暴れてしまう。まどかは優しいから俺を怒らないが、自分ではどうしようもないのだ。そして、毎度まどかに迷惑をかけている。明らかに俺が悪い。気持ち悪い。……途端に、死にたかったことも思い出してしまった。



 部屋の掃除を終えたまどかに、俺から声をかけた。


まどか……支払いって、まとめてやっちゃいけないのか?」


 まどかが驚いたような顔をする。そうだよな。俺、自分から約束を都合よく変えようとしてるもんな。だけど、まどかに迷惑をかけないためにはこれしかない。


「今日に全部、ありとあらゆる体の部位を使ってくれ。おれからまどかに返せるものなんてこれしかないんだ。まとめて全部、持っていってくれ。迷惑、かけたくないからさ」

「迷惑だなんて……」

「俺は、まどかの物だから。どんな使われ方をしても、いいから」


 言葉の途中でも構わず、必死でまどかにすがる。まどかは服を掴まれ困惑していたが、しばらくして、真面目な、そして寂しそうな顔で俺の顔を覗き込む。


「その言葉、本当よね?」

「ああ、何なら、今からやってくれ」

「そう……。わかったわ。本当に、ありがとう」


 俺の気持ちが伝わったのか、まどかが俺の両手を取り、部屋の別の隠し扉を開いてさらに奥の部屋へと導く。

 案内された部屋の中には手術台があり、いろいろな器具がぶら下がっていた。ああ。これからまどかに体を弄ってもらえる。まどかの言葉通りだった。最後にまどかのために使われるなんて、後悔なんて微塵もない。


 手術台にタトゥーとピアスだらけの体を預け、麻酔を入れられる。もう目覚めなくてもいいのだが、それはまどかに任せることにする。

 ぼんやりとした視界の先にまどかが見える。その顔は……




―――――やけに、笑っているように、見えて。


「……ああこれで、あたしは貴方を愛せるわ」


 ひんやりとしたメスが顎に当たるころ、俺は意識を失った。

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