エピローグ

ー Destiny ー

 賑やかな喧騒に包まれ、雛乃は人波に押されるように改札を通り抜けた。

 雛乃は造血幹細胞移植を受けたものの、一時は意識不明になり命が危ぶまれていたと母親が聞かせてくれた。しかし奇跡的に一命を取り留め、意識が戻ってからの回復は医師も目を見張るほど順調だった。

 結局半年間は免疫抑制剤を服用しながら自宅療養となり、進級は出来なかった。それでもやっと戻れた学校生活は以前にも増して楽しく感じられた。一学年上になった友人たちも、新しいクラスメイトたちも優しく気づかってくれるのが素直に嬉しかった。

 両親も、友達も、先生も、ご近所さんも、そして大好きだったオンラインゲーム内の友達も、そして彼も。誰もが雛乃の治療が上手くいったことを喜んでくれた。その度に、帰ってきて良かったという気持ちになる。


(どこだろ……このまま、人の流れに付いて行けばいいのかな)


 この改札から出たらみんな行く場所は同じ。そんな思いで誰とも知らないたくさんの背中を追いかけ、ビルを左手に歩き出す。

 一人で東京に来たのは初めてだった。とはいえ、友達と連れ立って遊びにはよく来ていたため、電車の乗り換えもさほど迷うことはない。それでも、今は一人で初めての場所にいると思うと少しだけ心細かった。

 雛乃が降りたのは、東京スカイツリー駅。

 ビルの中に入っているコンビニを通り過ぎると、目の前に見えてくるのはエスカレーター。あれを登ればいいはずだ。人波もそちらへと向かっている。

 雛乃が意識不明になっていた期間は三日半。楽園で雛乃が過ごした時間とは合わないが、時間の流れが違うのかもしれない。

 いや、そもそもあれは夢だったのだろうか。


(そんなはずない)


 ヴィンの約束は、雛乃を日本へ帰すための嘘だったのではないかと疑うこともあったが、雛乃の胸には変わらずあたたかな熱が宿っている。きっとこの世界のどこかに生きている。もしくは、これから生まれてくる。それが信じられるから、それまで雛乃も頑張って生きようと思えていた。

 エスカレーターに足をかける。横に設置されたスカイツリーのマスコットキャラクターたちを眺めながら上へ。目の前が開けて、遠くのビルが見え、風が吹いた。その左手にまたエスカレーター。ひたすら上へと登っていく。空へ近い場所へ。

 左手の看板に目を移すと、東京スカイツリーチケットカウンターの文字と上矢印。まだ上へと登るようだ。何度目かのエスカレーターに足をかけながら、次第に雛乃に緊張感が生まれていた。エスカレーターはここからビルの中へと吸い込まれていく。

 本当に、スカイツリーに来てしまった。雛乃が今行ける一番空に近い場所へ。


「あ、合ってる……」


 四階まで上がると、広い通路に出た。その中央付近にある柱には、左側への矢印と東京スカイツリー展望台の文字。

 初めて来たものの、事前に教えられていた通り来ることが出来たようだ。

 左へ折れて、そのまま広い通路を進む。通路の先は明るい。外へと出るようだ。


「わぁ……」


 建物から出て見上げた空は青。東京の空も青い。その青はここに来るまでも見上げていたが、初めての場所で見ると何故だか新鮮に感じてしまう。

 少しの間足を止め、空を眺める。大小の建物ばかりが立ち並ぶ風景は、楽園とはあまりにも違う。それでもここが雛乃が生きる場所だ。


(どうしよう、緊張して来た……)


 どうしてここへ来ることにしてしまったのだろう。なぜかわからないけれど、行かなければと思ったのだ。

 深呼吸をして右へと歩を向ける。その視界に、これから登るスカイツリーの巨体が映った。その迫力に、もう一度足を止める。

 もう飛べない。こんなに巨大な建物も、空には届かない。だけど行かなければならないのだろう。気持ちに整理をつけるためにも。

 雛乃は人間。ここで生きていくのだ。そしてヴィンを待つ。いつか出会える日を。

 一歩踏み出す。もう止まらない。しっかりと地面を踏みしめながら、長い遊歩道を歩いて行く。

 やがてメインエントランスという表示が掲げられた入口にたどりついた。ここだ。

 そこから出入りする人々の楽しそうな笑顔を少し眺め、あたりを見回す。

 見上げると空にそびえ立つスカイツリー。太陽の光を受けて白く輝くその姿は、同じ色の翼を持った鳥を思わせた。

 ドゥードゥは、ナツは、ナギはどうしているだろう。楽園は再生を始めていた。今頃三人でピクニックをしていればいい。三人と言わず、楽園の鳥たちとともに穏やかな、癒しの力だけを使う日々を過ごしていてくれたらと願わずにはいられない。

 そんなことを考えていて、気がつくのが遅れた。はっと気がついた時には、入り口からその姿が出てきて雛乃へと歩み寄って来ていた。

 その姿を目にした瞬間をどう言い表したらいいだろう。胸の奥が急に熱を帯びて鼓動がめちゃくちゃに暴れた。まるで時が止まったかのように、周囲の音が遠ざかる。


「ひなのさん? だよね?」


 雛乃の目の前で足を止めた人物を見上げる。それは、雛乃と同い年の男の子だ。

 爽やかな短髪に、ひょろっとした身体。少しだけ垂れ目で、優しそうな口元。そのどれもが初めて目にする人物であることを告げている。でも。


「僕がわかる?」

「え、あっ、はいッあの……ッ」


 声が詰まる。息が苦しいほどに胸の鼓動が早く、その音がいっそうるさいくらいに耳元で鳴ってるような気がする。

 なにもかも違う。でも、その命を間違えるはずがない。

 喉が熱い。

 彼の名を、なんと呼んだらいいのか。


「ヴィン……ヴィンセントくん……」

「良かった、人違いじゃなくて!」


 くしゃっとした笑顔を浮かべた彼の姿は、年相応の笑顔だ。

 雛乃を病院のベッドの中で元気づけてくれたオンラインゲーム。そのゲームの中で彼が名乗っていた名前は、ヴィンセント。世界的な超有名ゲームのキャラクターから取ったと嬉しそうに話してくれたことがある。

 楽園で初めてヴィンの名前を聞いた時、それを思い出して辛かった。彼は待っているに違いないのに、と。

 絶対に帰って来るから待っていて。元気になったら、あなたのお気に入りの場所へ連れて行ってね。絶対よ。そう言ったのは自分だ。その約束を、彼は叶えようとこうしてスカイツリーへと誘ってくれた。

 オンラインゲームの中ではなく、初めて現実で会う彼。でも、まさかこんなことが……。


「なんか照れくさいね、その名前で呼ばれるの」


 おかしそうに笑っている目の前の男の子は、ごく普通の日本人の容姿をしている。翼だってない。だから飛べない。

 声も、喋り方も、一人称だって違う。神話の中の人物のような美貌でもないし、がっちりもしていない。なにもかも違うのに、懐かしくてたまらない。


「おかえり、ひなのさん。待っていたよ」

「あっ、あ……ありがとう……」


 上手く言葉が出て来ない。

 間違いじゃない。胸の熱がそれをはっきりと告げている。

 まさか雛乃が知っている人物がそうだったなんて。もう、生まれていたなんて。地球で、日本で生きていたなんて。

 時間が合わないとか、そんなことはどうでもいい。雛乃にとって、目の前の存在が真実だ。


「こうして出会えるのをずっと待っていたんだ。生まれた時からさ……」

「––––––––ッ」


 その台詞で確信する。彼には記憶がある。

 約束通りに、雛乃を見つけてくれたのだ。十七年という長い時間をかけて。


「約束、守って……くれたんだね……」


 涙がにじむ。しかしそれは悲しい涙ではない。

 泣きながら笑ってしまうのが止められない。彼がいる。


「だって約束したから。それに、僕を救ってくれたのは、ひなのさんだよ。だからどうしても会いたかった」

「救ってもらったのはわたしの方だよ。わたしも、会いたかった」

「欲を言えば、取られたくもなくて……いや、それはこれから努力するけど……」


 少しだけ恥ずかしそうに口ごもる彼の顔が赤らんだ。その表情に思わず吹き出してしまう。反動で涙の粒がぽろぽろとほおを転がり落ちた。

 全てが違う姿。そして変わることのない命の輝き。


「ずっと僕を救ってくれたヒナに憧れてたんだ。ひなのさんとゲームで出会えてからは、本当に……」


 きっと彼が好きになる。そんな予感が雛乃の胸をあたためる。待っていてと伝えるくらいには、雛乃にとっても彼は特別な存在だった。無事に治療が終わったら、会いたいと思ったただ一人の人。

 楽園でヴィンに惹かれて、彼への気持ちは変わったと思っていた。けれど変わっていなかったのだ。雛乃が惹かれていたのは、ただ一つの命。

 これからここで、ともに生きるのだ。新しく。

 涙をぬぐう。


「知っていたの? ゲームで、会った時から……?」

「そうだとは思っていたんだけど確証はなかった。でも、こうしてひなのさんが帰って来てはっきりしたよ。ほら、そこに」


 彼が指さしたのは、雛乃の胸。

 そうだ、ここにはヴィンにもらった命がある。雛乃に熱を送ってくれる、優しい命の輝きが。


「僕はもう空を飛べないけど、良かったら一緒に空の近くまで行きませんか?」


 おどけた調子でそう言った彼が、雛乃に向かって右手を差し出す。笑って頷き握り返したその手は、熱い。胸を一瞬で焦がしてしまうくらいに。

 新しくて、懐かしい熱。


「えっと、ヴィンセントくん? って呼んでいいの?」

「え、あ、そう名前! そう言えばひなのさんの本名も知らないや」


 そう言いながら、彼が手を引いて歩き出す。一度だけスカイツリーを見上げ、入口をくぐった。

 名前なんて知らなくてもこうして出会えた。そのことがたまらなく嬉しい。

 空では、飛べない雛乃の手を引いて飛んでくれた。その必要がない時も、手を繋いで安心をくれていた。そして、今も。


「わたしは、本当にひなのって言うのよ。雛鳥の雛に、すなわちの乃」

「へえ!」


 感嘆を上げた彼の目尻が下がった。優しい顔でほほ笑むその表情に、胸がきゅっと締め付けられる。それは、心臓の鼓動を早め、雛乃のほおを熱くさせた。

 途端に、楽園でヴィンと交わしたキスを思い出してしまい、一気に恥ずかしさが込み上げて来て彼から目をそらす。


(このタイミングで思い出しちゃうなんてッ、わたしのバカバカ!)


 一体なにを考えているのだろう。彼はもともとヴィンだったと言っても、二人が地球で会うのは初めてのことなのだ。

 もちろんこれまでオンラインゲームでたくさん遊んだし、会話もした。でも、それがヴィンだったなんて思ってもいなかったのだ。


「僕の名前……あれ、どうかした?」

「いや、あの……恥ずかしい……」


 言い訳しようとして、それは失敗した。繋いだ手の熱にほおまで染め上げられる。

 頭上から笑い声がして、繋いだ手に力が込められた。


「ゆっくり知っていこう。時間はあるから」

「うん」

「実は僕も少し恥ずかしいんだ、こんなことしたことないから」


 その台詞に思わず吹き出す。けれど、見上げたその顔は、思いがけず真剣なまなざしをしていた。その表情に、慌てて笑いを引っ込める。


「僕は、ヒナが好きになってくれたヴィンとは変わってるよ。記憶はあるけど、うん、違う人物になっているよね」

「でも、わたしにはわかるよ。命は同じだって。わたしが好きになった命だって」

「うん。でも雛乃さんはその、約束に縛られて欲しくないんだ。もちろん、好きになってもらえたら嬉しいし、努力はするけど」


 繋いだ手をぎゅっとにぎる。そこから流れこむ熱は、変わらず雛乃の胸を焦がす。それがきっと答えだ。

 でもそう、時間はある。これから変わってしまったところも知って行けたらいい。そしてそんな変わった部分も含めて、好きになれたらいい。


「じゃあ、わたしも努力する。好きになってもらえるように」


 見上げてにっこりと笑いかけると、彼の方は真っ赤になってそっぽを向いてしまった。そのことにまた笑いが込み上げる。胸の中に喜びが広がった。

 一緒に、ゆっくり歩いて行こう。大好きな、あたたかい熱をくれるこの人と空を見上げながら。

 行こう、今一番空に近い場所へ。彼のお気に入りの場所へ。そこからきっと、はじまる。二人の、楽園では叶えられなかった未来が。


 ––––––行こう、ヒナ。ともに生きるために。





【楽園の鳥ヴィンと巡る命の旅・完】

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