約束

「お前が元の場所に帰れる保証はないが……」


 繋いだ手に力が込められる。その手を引き寄せるように、そっとヴィンが雛乃の側に膝をついた気配がした。

 繋いだ手が離れ、その手を探す間もなく雛乃の身体は頑丈な二本の腕に捕らえられた。ヴィンの胸に抱き寄せられていると気が付いたのは、大きな手のひらが優しく頭をなでてからだ。


「帰れるように俺ができることはしてやろう。それまでは側にいてやる」


 返事をしたいが言葉にはならなかった。

 ただヴィンの胸に触れるほおが、腕を回された背中が、羽毛に触れる足が燃えるように熱を帯びてめまいがしそうなほどに胸が鼓動を打つ。

 どうしてもありがとうも言えず、ヴィンの体温と混じりあってしまったかのような熱さを味わう。それはどこからが自分で、どこからがヴィンなのかわからないほど。


「だから今日はもう眠れ」


 ヴィンの翼が大きく広がった音。そしてその翼が雛乃を包み込む。それと同時にヴィンの腕が雛乃の背中と膝を抱え、お姫様抱っこの要領で雛乃を地面に転がしてしまう。正しくは、地面の上に広げられたヴィンの翼の上に、だ。

 驚いて起きあがろうとするも、お腹に腕を回され後ろからがっちりと捕まえられた。そのまま雛乃の背中にヴィンの身体が寄り添った。


「ちょ、ちょっとヴィン、ま、待っ……」

「なんだ」

「いやなんだじゃなくて‼︎」


 なにがどうなって美貌の鳥人にバックハグされているのか。あまりにも理解が追いつかなさすぎて、とにかくヴィンから逃れようともがく。それでも、やはり男の腕はびくともしない。

 これは、かなりまずいのでは。そう思うのに、そう思えば思うほどに顔が火照ってわけがわからなくなる。


「騒がしいヒナ鳥だな」


 今度はヴィンの足が伸び、羽毛から出た鱗に覆われた足が雛乃の足に触れた。その感触に驚き縮こまっている間に、ヴィンの両足の間に雛乃の足が収納された。もこもこの羽毛が素肌をくすぐる。

 万事休す。


「羽毛がないから寒いだろう。ただでさえ存在が希薄なんだ。凍えたら命がいくつあっても足りなくなる」

「え……」

「姿勢を変えるときは遠慮なくそうしろ。だが、ちゃんとくっついていろ。離れるな。いいな」

「あ、はい……」


 今度は別の意味で全身が火照った。穴があったら入りたいとはこのことだ。

 今が夜で本当に良かったと胸をなで下ろすしかない。赤くなった顔を見られないで済む。

 胸の鼓動は、まだ暴れている。


(ああ、もう、静まってわたしの心臓……‼︎)


 休むように言ってくれているのに、これでは逆効果だ。

 ふうっとヴィンの息が耳をかすめて、思わずびくりと身を縮ませてしまう。


「落ち着け、大丈夫だ。鳥喰草が来たらわかる。そんなに怖がらなくても安心していい」

「う、うん」


 ヴィンは雛乃が鳥喰草を怖がっていると勘違いしているようだったが、それを訂正する気にはなれなかった。

 少し身じろぎしたヴィンの気配がして、息づかいは遠くなった。そのことにほっとする。

 相変わらず雛乃のお腹にはヴィンの腕が添えられていたが、その力は抜けた。絶妙に雛乃に重さがかからないように調節してくれているのがわかる。

 その腕の中で体勢を整えようとして、自分の下に敷かれた翼に触れた。上からも覆い被さるように雛乃を包む翼は、風を避け明らかに保温をしてくれている様子だ。


「ヴィン、翼、痛くないの?」

「ああ。平気だ」


 それは本当に大丈夫そうな、平然とした声。その調子に胸をなで下ろす。

 お腹に感じる腕の体温。そしてなにより、全身を羽毛に包まれて、ほかほかした心地の良いあたたかさが染み渡ってくる。そうだ、これはダウンだ。ふかふかの羽毛布団。冬の幸せの形。

 ヴィンはそこにいる。隙間なくくっついていて、きっと朝までこのままでいてくれる。置いて行ったりしない。そのことに、ひどく安堵している自分がいた。

 そう自覚した途端に、雛乃の頭に霞がかかったように眠気が押し寄せてくる。張り詰めていたものが決壊したように、瞼が重くなった。


「ねむい」

「寝ろ」

「ん……」


 身体があたたまるにつれ、鼓動も落ち着いてくる。

 それよりも、今は眠くて仕方がない。

 文字通り包み込まれる安心感に、なにもかもが解けていく。

 背中に感じるヴィンの身体が、ゆっくり呼吸している。そのリズムに身を委ねるように、雛乃はあっという間に眠りに落ちていった。


 ◆ ◇ ◆


 腕の中で小さく寝息を立てているヒナの体温を感じながら、ヴィンはそっと添えていた腕を上げた。

 なんとなく、ヒナの髪をなでる。そして、そのほおを。幸いにも目を覚ます気配はなかったものの、やはりあちこち触ってしまうのもいけないだろうと思い直し、腕を元のように戻す。

 楽園になにかが侵入してきた。その気配をヴィンは確かに感じた。それは、だ。

 久しく感じることもなく、この先もないはずだったそれを無視する事の方が難しかった。すぐ近くに落ちたその気配を追いかけ見つけたのが、この小さなひな鳥のような命。


(いや、違うな)


 ひな鳥は生命力にあふれる存在だ。だが、ヒナの存在はあまりにも薄かった。少しの傷が致命傷になりそうなほどに、弱々しく感じられたのだ。

 とっさに自分の命を分け与えてしまったが、今のところうまく定着している様子だ。それに心底安堵している自分がいる。

 不思議な感覚だった。なぜだかわからない、だがこの命をどうにかして助けなければ、元の場所へと帰さなければという焦りにも似た感情があった。それは、楽園のどの鳥相手に感じたものとは違う感情だ。

 同情しているのかもしれないと思ったが、それもまた違う気がする。


(今ならまだ間に合うかもしれない)


 この楽園は崩壊しつつある。ここに残っていても、いずれ命は尽きてしまうだろう。楽園も、鳥も、なにも残さず。

 しかし、この世界の外から来たなら、帰れるのならわざわざ巻き添えになる必要はない。

 ヴィンには楽園から出られない鳥たちを救うことはできない。しかし、ヒナは鳥ではない。楽園の生き物でもない。もしかしたら出られるかもしれない。

 助けられる命なら、助かるに越したことはないだろう。


(入ってきたのは、おそらくあの場所だ……)


 そこから出てしまえば、もうヴィンは力を貸せない。ヒナが自分の力で帰り着くことを祈るしかない。

 それでも、出れば帰るのは難しくはないという確信めいたものがヴィンにはあった。

 ヒナ自身は自覚がないようだが、ヴィンにはヒナと繋がった命の気配がのだ。なぜそれが視えるのかはヴィンにも説明がつかない。おそらくは、ヴィンの持つ特性で視えているのだろう。その視えている命の気配はヒナの帰る場所まで確実に繋がっていて、彼女を導いてくれるに違いなかった。

 ふとヴィンの顔に自嘲が浮かぶ。誰も助けられないという絶望の中に、助けられるかもしれない命を見つけた。だから自分は必死になって助けようとしているのだ。それに気が付く。

 それは贖罪にもならない、ただの自己満足。反吐が出るほどの汚い感情だ。

 それでも、こんな自分でも誰かを助けられるのなら。

 どうか。

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