第一章 鳥と楽園

一欠片の命

「ちょ、ちょっと待っ……‼︎」


 眼前に迫るのは、ぱっくりと大きく開いた口のような緑の物体。それは雛乃が見たことのあるものの中で言えば、ハエなどを取る食虫植物にそっくりだった。

 大きく開いた左右の葉には、ギザギザとした突起がついていて、まるで歯のようにすら見える。


(う、嘘でしょこんなの嘘でしょ夢よね⁉︎)


 よく見ると食虫植物って愛嬌あるねとか言っていた自分を叱りたい。愛嬌なんてどこにあるのか。今雛乃ヘ向けて口を開いているそれは、人一人を簡単に捕えられるほど大きいのだから。

 しかも、植物なら自分の意思で動けないはずなのに、目の前の食虫植物もどきは長い蔓をうねうねと蠢かしながらこちらへと向かって来ているのだ。

 それも、複数。

 右にも、左にも、上にも、蠢く大きな口。

 このままでは喰われる。それは本能的な恐怖だった。なにがどうなっているのかはさっぱりわからない。それでも、このままでは駄目だということはわかる。

 全身が総毛立ち、瞬間的に身震いが走った。

 これは夢だ、こんな現実があるはずがない、だって自分は日本に住むごく普通の女子高生なのだから。そう言い聞かせようとしても、本能からの警鐘は止まない。

 逃げろ、逃げろ、逃げろ……‼︎

 強迫観念とも思えるその声が、食虫植物もどきを視界に入れたまま雛乃の視線をふり回した。


(どうしよう、逃げなきゃ……‼︎)


 これまでろくに運動だってしたことがない。いや、運動なんてしてはいけなかった。でも、今はそんなことを言っている場合でもない。

 頭上の口がゆらゆらと揺れた。そこに目なんかないのに、雛乃を狙っているのがわかる。


(嫌だ、喰べられたくない‼︎)


 噛みつかれて潰されるのだろうか、それとも消化液で苦しみながらゆっくり溶かされるんだろうか、それとも……。

 脳裏をよぎる残酷な最期に涙がにじむ。

 こんなことなら、病院のベッドの上で苦しみながら死んだ方がよほど良かった……‼︎


 左右の大口も揺れる。

 今にも飛びかかってきて、喰われてしまう。逃げなければと思うのに、足が震えて動かせない。

 見上げた大口がひくりと動いた。そこには雛乃を喰べるという意志が見える。それに知らず涙が流れた。

 三つの口が蔓を縮め、雛乃に狙いを定める。

 蔓がバネのようにしなって雛乃へ飛びかかってくる!


「後ろへ飛べッ‼︎」


 誰のとか、どういう意味かとか、信じていいのかとか、そんなことを考える余裕はなかった。ただ鋭い声が雛乃の鼓膜を打った、それが全て。

 自分以外の誰かの声に、この状況で逆らえるはずもない。

 必死に身体を反転させ、横飛びの状態で身体を宙に投げ出す。


「うあッ……‼︎」


 受け身も取れず肩から地面に落ちて、痛みで一瞬頭の中が真っ白になった。

 胸が潰れたように息が吸えなくなる。

 それでも必死で目を開くと、さっきまで立っていた場所で三つの食中植物もどきが絡まっているのが見えた。

 長い蔓がうねうねと動き、余計に絡まっている。

 今のうちに逃げなければ。

 痛む肩を庇いながら、必死で半身を起こそうとするが、その間に蔓は絡まりを理解したようで、するすると解けていく。

 間に合わない……‼︎


「上を見ろそこのヒナ‼︎」

「えっ」


 不意打ちのように呼ばれた名前に上を見上げる。そこに、太陽を背にした大きな鳥の影が落ちた。

 次の瞬間、その鳥がきらりと輝き、光の矢が真っ直ぐに雛乃へと飛ぶのが見えた。

 どん、という重い感触が胸に響く。それを自覚した時にはすでに、光の矢は雛乃の胸に突き立って輝いていた。

 痛いとか、どうしてとか、そんなことが浮かぶ間もない。


「なに、これ……」


 その光の矢は雛乃の胸に深々と突き刺さったままひときわ大きく輝くと、吸い込まれるように胸の中へと消えていく。

 痛みはない。身体に違和感もない。


「じっとしてろよ」


 そんな声と共に、大きな影が雛乃を包んだ。次の瞬間強く手を引かれ、雛乃の身体はふわりと浮かび上がった。驚く間もなく、木々を越え空へと飛び出していく。

 耳元を風が切り、ワンピースの端が大きくはためいた。反射的に押さえようと手を伸ばすが、身体が揺れて上手くいかない。

 後方で大きな雷のような音がしたが、そちらへ視線を向けることすらできない。


「ちょ、えっ、なにこれ待ってどうなって」

「暴れるな‼︎」


 すぐ側でした大声に、身体が縮こまった。

 雛乃の動きが止まったことで、すうっと流れるように身体は前へと進み出す。そう、それはまるで空を飛ぶ鳥のように。

 流れる風の音が耳朶を打つ。


「って、鳥⁉︎ いや人⁉︎ じゃない⁉︎ えッ⁉︎」


 そしてその雛乃の隣には、鳥がいた。いや、鳥と言うには人間っぽく、人間というには鳥っぽかった。

 上半身はほぼ人間。胸や背に茶色い羽毛が生えているが、形としては人間のそれだ。美しくも鋭く、猛禽を思わせる顔立ちの男。二十代半ばくらいに見えるが、そもそも人間ですらなさそうな風貌だ、年齢などさっぱりわからない。

 その男の背には大きな褐色の翼があり、彼はそれを優雅に羽ばたかせて空を飛んでいる。

 そしてその下半身は、人間というよりは鳥だ。鳥と比べれば人に近いのかもしれないが、それでも鳥としか思えない形状で、羽毛から出た足は鱗に覆われた鳥のものだ。その立派な鉤爪は、明らかに人間ではない。


「ていうかわたし飛んでるッ」

「俺の命を埋め込んだから当然だ」

「は?」


 今、命と言っただろうか。

 埋め込んだ?


「そうは言ってもほんの一欠片だ。この手を離せば落ちる」


 そう言われて初めて、雛乃の手を鳥人が握っていることに気がついた。

 途端に、握られたそこだけが熱を帯びる。


(ま、待ってなにがどうなってるのか……)


 頭が混乱してくる。

 気がつくと森にいた。そして、あの食虫植物のようなものに囲まれていた。

 わけがわからず動けなかった雛乃を、この鳥人が助けてくれたことは間違いない。

 しかし、光の矢が刺さるとか、一欠片の命を分けたとか、だから飛べるとか、そもそも人とも鳥ともつかない男がいるとか、とてもではないが理解に苦しむ。やはりこれは夢で、夢だからこその突拍子もない展開ってやつなのだろうか。

 そもそも雛乃がこんな場所にいる理由もわからない。


「なにも覚えていないのか?」

「はい……」


 素直に答えて鳥人を見上げる。

 錦糸のように輝く亜麻色の髪が風になびいている。その下の瞳は赤く、すっと通った鼻筋はそれだけで美しいと思えるほど。色素が薄めの唇は、それらの美しさを引き立てるように形がいい。

 美貌と言って差し支えない容姿は、まるで神話の中の生き物のようだ。しかし、その鋭い眼光が現実味を感じさせる。


(すごい、こんなに整った男の人、初めて見た……)


 テレビでよく見る男性アイドルだって整っている。しかし、これほどまでに男を感じさせながらも美しいと思わせる人は見たことがない。

 しかもその背には翼が生えていて、空を飛んでいるのだ。

 身体に生えた羽毛も猛禽類みたいでかっこいい。そんなことをつらつらと考えてその胸から下へ視線を動かし、あることに気がついてヒュッと息を呑んだ。みるみるうちに顔が熱くなってしまい、鳥人から目をそらす。


(え、この人、え、えっこれ全裸なんじゃ……ッ‼︎)

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