第一部あなた 第一章6

 新しい年を迎えるに当たって、岩城実言の邸では邸に仕える者は従者侍女、その子供に至るまで皆の衣装を新調した。皆、箱を開ける前から新しい衣装に心を躍らせた。元旦の朝には真新しい衣装に袖を通し、邸の主人の部屋へ挨拶に行った。

 実言は妻の礼を隣に座らせて、皆が新年の挨拶をするのをにこにこと笑って受けている。別の部屋では、宮廷に行く兄の実津瀬を妹弟たちが囲って、励ましている。実津瀬は初めてのことではないが新年を迎える行事の中で舞を舞うのに緊張して真っ白な顔をしているのだ。

「兄様、いつものように舞えばいいのです」

 榧がそう言って実津瀬の膝の上にある手を握った。

「……榧」

 宗清は、新しい年を迎えた朝に気持ちが昂って部屋を縦横無尽に走り回っている。蓮は危ないからと元気な宗清と珊の後を追いかけている。実津瀬は榧の白い手を握り返して頷いた。

 あれだけ練習したというのに、当日になると緊張で膝から震えがくるのだった。

「何よ!実津瀬ならできるわよ」

 蓮が声を掛けた。それに応じて宗清が兄様の舞は一番だ、と叫んで走り回る。

 まったく賑やかなことだ、と思って実津瀬は息を一つ吐いた。

 そこに母の礼が庇の間に現れた。

「いつものことだから心配していないけど、あなたの顔、榧の顔と同じくらい真っ白」

 榧の手を握ったまま榧と共に立ち上がった実津瀬の前に立った母の礼は言った。

「緊張したら、そうなるのよね。でも、本番になれば今までの様子が嘘のように体の緊張が消えて体が大きく開かれて舞えるのだから、それはあなたのその場に立った時の度胸の良さね。今日も大王をはじめとして多くの方に舞を見ていただきなさい」

 自分よりも背の高くなった息子の胸に手をやって、服のしわを伸ばすようにちょっちょっとなぞった。

「行ってきます」

 隣に立っている榧を見ると、白い愛らしい顔がにっこりと笑っている。色の白い子で、この子ほどに今の自分は青白くなっているのかと思った。

「兄様、行ってらっしゃいませ」

 そう言って榧は心なしか手に力を込めて握り返してくれた。

 部屋の前の階を下りるときには、母、妹たち、弟が並んで手を振って送り出してくれた。

 邸の門を出る前に、簀子縁に立つ父が見えたので、実津瀬はその下に駆け寄った。

 実言は最初だけ笑った顔だったがすぐにその表情を引っ込めて、実津瀬を見下ろした。

「いい顔じゃないか。お前の舞を楽しみにしている人が大勢いる。私も楽しみだ」

 実津瀬は一礼すると、門を出て宮殿へと向かった。



 新年を迎える行事は恙無く執り行われていく。神事は終わり、新年を祝う宴に移っていった。

 実津瀬は目の印象が強くなるように目の周りを黒く縁取り、目尻には赤い色を細く入れて彩った。髪を一つにまとめて上げて帽子を被り、煌びやかな衣装に身を包んで一緒に舞う宮廷楽団の青年、淡路と舞台の下に控えていた。

 舞台の端には音楽を奏でる奏者たちが各々の位置で準備を終えて座っている。

 琵琶の弦に撥があたると共に、幽玄な響きが奏でられ一筋の調べになり、それに絡まるように笛や笙、琴の音が続いた。

 実津瀬は淡路の後ろについて舞台へと進み出て行った。

 舞台中央に立つと一呼吸おいて、ゆっくりと二人の右手が上がった。その速度、角度ともにピタリと同じで、観衆は手の先の先まで意識の行き届いた指先を見つめていたら、手の平を上に向けていたのが、これも同時瞬時に裏返して一瞬で甲を天に向けた。甲から指に輪を掛けた赤の下地に金の刺繍の飾りが見えた。

 観衆はあっ、と思った。そこで、大きく左足を出し、体全体を使った舞が始まった。手も足も大きな振りで、曲もゆっくりだった調べが速くなった。それでも、二人の手の先足の先は一糸乱れぬ同時の動きで皆は耳でその調べを捕らえ、眼は二人の揃った動きに見とれ、どこかで綻ばないだろうかと、そうであればそれを見逃すまいと凝視しているのだった。

 前日まで実津瀬と淡路の二人が余念なく舞の型を確認し、納得するまで舞った後のものだ。今、この舞台の上ではこの日にかけてきた二人の最高の舞が披露されていた。

 荒を見つけるために見開かれた聴衆の耳目は何一つ狂いのないものを最後まで見届けることになった。

 宴会の最初がそのような完璧な舞で始まったため、皆、その美しさに感嘆して箸を取るのも杯をあげるのも忘れてしまった。

 聴衆が素晴らしいものを見た後のあっけに取られている中、大王は立ち上がって舞を舞い終わった二人に手招きした。一つの雑音もない中、皆が固唾を飲んで見守っているところに実津瀬と淡路は大王の前の階を憚りながら一歩一歩と登った。

 膝をついて大王の前に控えると。

「素晴らしい舞であった。新年を迎えて清々しい気持ちであったが、加えて心が躍るような気持ちになった。今日の日のために鍛錬をしたのであろう大義であった。褒美を取らせる」

 と声が掛かった。

 実津瀬と淡路は頭を垂れてその言葉をありがたく頂いた。

 舞終わった実津瀬は抜け殻のような放心で、控えの間に帰った。舞の前は寒いと思っていたが、今は汗でぐっしょりと濡れて温かった。

「実津瀬、早く着替えろよ」

 淡路に言われて、実言は帽子を取って上着を脱いだ。すると露わになった肌がすぐに冷えて下着を羽織った。

 淡路はそうそうに着替えを済ませて冷えた体を火鉢の傍に置いて、熱い粥の椀の湯気を口で吹いていた。

「うまく舞えたな」

 遅れて火鉢の傍に座った実津瀬に淡路は言った。

「真っ白い顔をしていたから、どうなることかと思ったが」

 実津瀬は遅れて渡された粥の湯気を同じように口で吹いて、冷ましたところ一匙口に入れた。

 いつものことだけど……と母の礼が言っていたが、自分は緊張のあまり周りの人を不安にさせるほどの白い顔をしていたのだと、改めて知った。

「昨日、でだしが合わなくて苦労したけど、今日はぴったりでしたね。本当に良かった」

「ああ、大王にもお褒めの言葉をいただいて、本当に良かった」

 実津瀬は黙って粥をすすって体を温めた。しばらくすると、師匠である宮廷楽団を率いる一族の息子である音原麻奈見がやってきた。

「二人とも素晴らしかったよ。会心の舞ではなかったかな」

 二人は謙遜するような笑みを見せて、やっと食事が喉を通る喜びを感じた。

 邸に帰ると、蓮が階を駆け下りてきて、沓も履かずに実津瀬の傍まで来た。

「おかえりなさい」

「うん」

 蓮は兄の隣に並ぶと一緒に先ほど下りた階を上がった。

「どうだった?」

「大王からお褒めの言葉をいただいたよ。褒美も頂けるそうだ」

「まあ、それはとても栄誉なことね。さすが実津瀬ね」

「うん。……ああ、これでしばらくこんな重圧から解放されるな」

 実津瀬は大きく伸びをして庇の間に入ると、榧が湯を入れた椀と栗の蒸したものを載せた膳を持って立っていた。

「兄様、お帰りなさい」

 妹二人が左右に座って疲れていないか、喉は乾いていないか腹は空いていないかとかいがいしく世話を焼いてくれる。まったく優しい家族だと実津瀬は思った。

 


 それからしばらくして、大兄(皇太子)の地位にある有馬王子が主催する宴が開かれた。新しい年になって御年十五歳になった有馬王子を囲んで年の近しい男女が懇談する。ともすれば周りはうんと年上の者ばかりに囲まれて生活している若い王子に、同年代の者たちとの関わりを持ちたいということであるが、臣下たちにとっては、我が息子を大兄にお目通りさせたいし、娘であれば大兄の目に留まればとの思惑があった。 

 有馬王子の母親が岩城家出身ということで、岩城から四名の男女が参加した。言わずとも実津瀬と蓮は自動的に出席することになった。本家から実津瀬たちと同じ年の稲生(いのう)とその妹で有馬王子の二つ年下になる藍が行くことになった。

「有馬王子には藍をよくよく見てもらわないと。あんなにきれいな子はいないわ」

 蓮はそう言って藍の売り込みに尽力しようと決意している。

 当日着る衣装と装飾品は岩城家が前から用意していた。

 実津瀬と蓮は父の実言と一緒に本家に行って、用意した衣装を身に着けた。着付け終わった後に、大広間に集まって実津瀬は蓮と藍を見た。

 蔦高叔父も父の実言もこの宴で有馬王子に藍を印象付けたいと考えていることがよくわかった。藍の衣装も装飾品もたいそういいものを用意している、蓮がそれに劣るわけではないが色、柄、装飾品の大きさ、豪華さは藍を際立たせて蓮よりも目を引くものだった。

 蓮もそれをわかっているのか、藍を褒めちぎっている。

 今年十三になった藍はまだ頬のふっくらした少女の表情だが、美しく化粧をして大人びた雰囲気を出していた。

 宴は王宮の中の大有馬王子の館に面した庭で行われ、岩城家を始めとする貴族や地方の有力豪族の子女が集まって有馬王子を囲んでいた。

 有馬王子は案内役の侍従にどこの誰であるかの説明を受けては、その者が話す自己紹介に耳を傾けていた。最後に部屋の前の階のたもとまで来た。そこに、四人の男女が頭を垂れて控えていた。

「岩城様のご子息たちでいらっしゃいます」

 そう説明があったが、有馬王子は言われる前からその者たちが血筋の近しい者であることを分かっていた。

「有馬王子、私たちを覚えていただいていますでしょうか。岩城実津瀬でございます。幼い時に、母上さまである碧様のお邸に我々の母と上がって、一緒に追いかけっこのような遊びを飽かずにして過ごしたことを」

「ああ、覚えているよ。子供の頃は同じ年頃の遊び相手がいなかったから時折来るそなたたちと遊ぶのが楽しかった」

「私も、こちら、妹の蓮もよく覚えています。懐かしい思い出です。これが、岩城本家、岩城蔦高の息子稲生です。そして、隣が妹の藍です。稲生は王子の一つ上、藍は二つ下です」

「やあ、年の近い二人。母上からは岩城のことはよくよく聞いているよ。母上と共に、私を大変助けてくれる実家だ。何かあればいつでも、私を訪ねておくれよ。朝は勉強をしろとうるさく言われているけど、それが終われば時間があるからね」

 実津瀬を始め三人は皆、再び頭を垂れた。

有馬王子は部屋の前の階を上がり、庭を振り返って見渡した。その場に来た全員が頭を垂れて見送った。

 帰り道、本家に向かって四人で歩いている時に、蓮は藍に有馬王子をどう思ったかと尋ねている。

 十三になったばかりの藍は、煌びやかな衣装、装飾品の重さに疲れているし、初めて王宮の中に入ったことによる緊張で、有馬王子の袖から出る手や袴の裾から見える沓の先ばかり見て、顔を上げて有馬王子をはっきりと見ることができなかった。

「もう、そうなの?じゃあ、有馬王子に藍の顔を見ていただけていないじゃない!ああ、残念!」

 と頭を掻きむしらんばかりに残念がった。稲生も藍も蓮がなぜ、それほどまでに悔しがるのかを分からず、顔を見合わせている。実津瀬だけは、蓮の気持ちをわかっている。

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