第一部あなた 第一章3

 実津瀬は部屋の真ん中に寝転んで、ぼんやりと天井を見ていた。ともすれば、焦点はぼやけて、自分の意識の中に入り込んでゆく。

 そんな自分を叩き起こすように、簀子縁をバタバタと走ってくる者がいる。

「実津瀬!」

「兄様!」

 自分を呼ぶ声に意識は引き戻されて、実津瀬は体を起こした。

 勢いよく庇の間に飛び込んできたのは弟の宗清だった。

「兄様、笛を聴かせて!」

 八歳の宗清はまだまだ子供で、飛び跳ねて部屋の中に入って来た。その後ろから、妹の蓮と榧と珊が続いた。

「実津瀬!もうすぐ宴でしょう!練習しましょうよ!私たちが聴衆になるから」

 と蓮が言ってきた。

 なんと、呑気なことを言ってきてと実津瀬は思ったが、失敗しても笑って楽しんでくれる弟妹であれば自分の笛を気軽な気持ちで吹いて聴かせられるため、懐から笛を出した。

 実津瀬の周りに四人が集まって、さあ、吹けと見つめている。 

 唇に笛を当てて、ふうっと息を入れた。そこからいつもの実津瀬の音色が出た。

 子供の頃から熱心に練習してきた笛と舞である。それも、都一と言われている宮廷楽団の跡取りから直に教えを受けている。どちらも子供の遊びとせずに、真剣に取り組んで自分のものにしてきた技術である。

 四人は神妙にその音色に聴き入っていたが、ひょうきん者の宗清が立ち上がって踊り出した。兄の舞の真似をしているのだが、好き勝手に回って足を振り上げているようにしか見えない。それについて、珊も立ち上がって一緒になってくるくる回った。

 蓮と榧は小さな二人の踊りを楽しそうに見守った。

 実津瀬は二人が踊りやすいようにゆったりとした曲調を吹いていたが、急に速い曲調に変更して面白く吹いた。宗清と珊はめちゃくちゃに手足を動かして踊っていたが。

「兄様!もう!ついて行けないよ!」

 宗清がそう言って笑いながら庇の間に倒れた。珊も一緒について行って、宗清の隣に倒れる。

「大丈夫?二人とも」

 蓮は立ち上がって二人の顔を覗き込んだ。

 宗清が大げさに胸を上下させて息を切っている。

 実津瀬は口から笛を離した。そばで妹の榧が静かに笑っている。色白の妹を見て、ふと練習の館に行く途中で声を掛けてきた女人を思い出した。

 私の舞が好きだと言ってくれていたけど、笛も聴いてくれたことがあるのかしら。笛も何か言ってもらえたら……。

 実津瀬は一度しか会ったことない女人に何かを期待していることに驚いた。



 新年を迎えるにあたって、再び実津瀬に白羽の矢が立った。

 それは、父親である実言を通して、実津瀬に話があるのだが、実言が断るわけもなく、実津瀬は新年の宮廷行事の中で舞を舞うことになった。

 昨年経験していることだから、勝手はわかっているが同じものを見せるのは面白くないと思って、実津瀬は師匠である音原麻奈見と二人舞の相手になる宮廷楽団の男子と一緒にどのような舞を舞うかを試行錯誤していた。

 取りつかれたように庇の間で一人、舞の型を練習している兄を蓮は庭から見ていた。

 兄は宮廷に見習いとして働き、塾で勉学にいそしみ、あとは宮廷楽団の稽古場で舞と笛を練習している。岩城一族の男として毎日を忙しく過ごしている。

 それに引きかえ蓮は、母である礼の手伝いと妹弟の世話をして日を過ごしている。

 礼は邸の道を挟んだ反対側に診療所を作り、そこで怪我人病人であれば誰でも治療して、必要があれば寝泊まりさせ、食事を与えている。その運営は束蕗原の去の弟子たちが中心になって行っているから、蓮は、邸の一画に作られた薬草園の管理や薬草作りを主に手伝っている。後は、薬草の本を写すこと。それによって、蓮の薬草の知識は増しているのだった。今、蓮の胸の中には昨夜まで一生懸命に書き写した薬草の写本を入れている。

 そして、邸で作った薬草を伊緒理が住む、都の外れにある邸に届けに行くのも、大事な役目である。

 蓮は自分の部屋から実津瀬の部屋の前の庭を突っ切って両親の部屋のある庭に行く。そこで、母親から伊緒理に持っていく薬草を渡された。

「お母さま、行ってきます」

 供の男を一人連れて、蓮は門に向かった。

 十五歳の蓮は、いい年ごろで、なおかつ岩城という権力者の娘である。どんな身の危険があるかわからないため、外出には供をつけて用心をしているが、蓮はそんなことはお構いなしだ。伊緒理のところに行けるのが嬉しくて仕方なかった。

 誰もが気付いていることだが、蓮は自分の気持ちを必死で隠しているのだった。

 伊緒理が住む邸は都の南の方で岩城の邸からも離れていて遠いが、蓮は全く気にならなかった。

 供の男、鋳流巳(いるみ)は黙って手を差し出して蓮が持っている薬草を包んだ布を受け取った。

「鋳流巳、いつもありがとう。遠いところをすまないわね」

 鋳流巳は二十を少し超えたばかりの屈強な体の男で、警護にはもってこいである。これまでも、何度も蓮を連れて伊緒理の邸に行っている。

 鋳流巳は、数年前に岩城の領地がある都の北の額田という土地から出てきて岩城実言の邸に仕えている。大きな体で力持ちはだけでなく、機転が利いて気働きもできるので、主人である実言や礼、邸に仕える同僚たちにも信頼されている男だった。だから、礼も蓮の付き添いをお願いするのだった。

 鋳流巳は馬や牛、大きな荷物を載せた車が通る時は蓮の前に出て守り、そうでないときは一歩後ろに下がって蓮につき添っている。

 邸の中での質素な姿の蓮を知っているだけに、今目の前を歩いている蓮の着飾りぶりと入念な化粧と整えた髪に別人のような気がしてじっと見つめた。こんな準備と顔をしている女は何を考えているのかわかっている。

 蓮のお供をするのは好きだ。邸の外の様子が見られて面白いし、それに蓮と話をするのは楽しい。飾らない性格の蓮がぽんぽんと言いたいことを話してくる。大した相槌は打てないが、それを聞いているのが楽しいのだ。だが、この都の外れにある椎葉邸に蓮を連れて行くのは、好きじゃない。おしゃべりな蓮は家を出た時今のように、遠いところをすまないわね、と言うと後はほぼしゃべらない。それは、胸に抱えた本を渡す相手のことを一心に考えているからだ。いつもの蓮と違ってしまうのが気に入らない。

 都と言っても外れに行けば鄙びた邸が立ち並ぶ。二人は、整備されていない狭い道へと入って行く。しかし、そこに、突如として欠けたところのない綺麗な塀が続くのが見える。それが、目的地である椎葉家の別邸である。

 ここまで来ると、蓮の足はもっと速くなる。本人は気づいていないだろうが、早く邸に着きたい気持ちがそうさせるのだろう。それについて、鋳流巳も一緒に早足で歩く。

 立派な門をくぐって、訪いを入れるといつも対応する壮年の舎人が出てきた。

「どうぞ、こちらの部屋へ」

 とすぐには伊緒理のいる部屋には案内されなかった。

「少しばかり、ここでお待ちいただいていいでしょうか。ただいま、人が参っておりまして」

「まあ、お客さまですか?それは、間の悪い時に」

 と蓮が言うと。

「妹君ですよ。少し近くに来たからと、お兄様のお顔を見に来られたのです。ご自身のお顔をお見せに来られたとも言えますが」

 伊緒理には母違いの妹が二人いる。伊緒理の母はもう亡くなっているので見たことはないが、大王の妃に推薦されるほどの美しい人で、伊緒理もそれを受け継いだとても美しい顔をしている。母親違いの妹も、その母は伊緒理の母には劣るとも美しい人と聞いたことがあるから、きっと美人に違いない。そんな妹がこんな都の外れに兄を訪ねて来るなんて、と蓮は思った。

 庇の間に蓮は座り、鋳流巳は簀子縁と庇の間の間に座って、一緒に秋の色に変わっている庭の木々を眺めた。

 長い沈黙のあと、蓮がほっと息を柔らかく吐いて言った。

「とても美しいわね……」

 赤や黄色に色づいた葉が緩やかな風に吹かれて枝から離れて舞っている。

 鋳流巳は岩城のお邸の庭の方が広くて、様々な趣向を凝らした樹木の配置をしていて、色彩も多くて美しいと思ったが、蓮の思い人の住む邸だから殊の外その目には美しく映るのだろうと邪推するのだった。

「……寒くはないですか?」

 時折、ごうっと強く吹く風が部屋の中まで入ってきて、鋳流巳を通り越して蓮の体にあたった。

「ええ、寒くないわ」

 蓮が答えた時、簀子縁に人が現れた。この部屋に案内してくれた舎人だった。

「大変お待たせしました。伊緒理様の部屋に案内致します」

 蓮は頷いて立ち上がった。その顔はやっと伊緒理に会えると言う嬉しさを押し隠し、何でもないような表情をしている。鋳流巳にはそのすました蓮の顔の裏はよくわかっている。そして、鋳流巳は簀子縁を歩いていく蓮の後ろ姿を見送った。ここで別れて、鋳流巳は邸の使用人たちの休む部屋に行って蓮と伊緒理の話が終わるのを待つのだ。

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