第29話 亜紀・旅路

 奈良と大阪を分ける生駒山のトンネルを抜けると、そこはもう五年後の世界だ。

亜紀は五年ぶりに大阪へ来て、エッちゃんはまだ居るかと、御堂筋にあるホテルを訪ねた。フロントでまだ居ると聞いて、早速に宴会係の従業員室を訪ねて、エッちゃんを見つけた。

 流石に五年の年期でもう古株になり、空気の様な存在にはさせなかった。佐知さんがフロントに降りて、今はバイトのまとめ役に収まっていた。

 今日は平日で夕方まで宴会が入ってないから後は頼むね、とエッちゃんは二階の上がり口にあるロビーのソファーに亜紀を誘った。

「これお客さん用の席でしょう」

 そうだよ、とそのままエッちゃんは座ると、釣られて向かいに着いた。

「お客さんだよーて呼ばれてなんかドジ踏んだかなあと思ったら亜紀じゃん。だから今はお客さんじゃん、で、元気」

 エッちゃんは昔のままだった。それでちょっと訊きたくなった。

「宴会チーフの波多野さん憶えている?」

「何言ってるの冗談がきついよー、亜紀ちゃん、あたいの苦労を忘れたとは言わさないわよ」

「ごめんごめんそんなつもりはないけれどちょっと気が焦ってるの五年前にはエッちゃんに偉そうなこと云っちゃったけどいざそうなると張り詰めた物が出てしまっちゃった」

「五年も経てば普通なら変わって当たり前だよ、でも亜紀ちゃんは違うと思ってる、だからそんなことが言えるんだ」

 前の宴会チーフについてひとつ情報がある。ついこの前だけれど亜紀のことを聞きに来た女の子が居た。あたいは口は堅いからって言って取り引きしたの。あんたが身上を話せば波多野さんのことを喋るって、それで澤木興信所とか言った。で彼女は早速に城崎へ調べに行った。

「そこは仁科さんがいつも調査を依頼している所だ。でも仁科さんの依頼は会社とか企業なのにどうして個人情報なんか調べるのかしら」

「亜紀ちゃんいいこと教えようその興信所を利用して波多野さんの現状を調べてから会いに行けばいい」

「そんなの勘ぐりたくない、だからその話は止めて!」

「でも興信所の人は深雪加奈って言う子だけど彼女に探りを入れたらこの春から波多野さんは失踪してるそうだけど居場所は知ってるの?」

「だからこうして来たのよ」

「分かったそれで今日逢えるの?」

「それが急に連絡したもんだから彼は時間がなくってそれでエッちゃんに会いに来たの」

「なーんだあたしは時間潰しなのか、え、急にどうしたの」

 亜紀は盛んに悦子の後を指差して、お客様よと言われた。この人が柳原亜紀さんかと深雪加奈が悦子の友人だと言って割り込んで来た。

「友人 ? あんたこの前に会ったばかりなのにずうずうしい」

 と悦子は呆れた。 

「どうしてあんたはそんなドンピシャのタイピングで来られるのよ」

 加奈はエッへへって笑って早坂とさっき交代したと云う。エッちゃんは加奈に早坂って誰なのと聞き返した。

 そこで亜紀が面倒くさそうにあたしを調べている探偵だと説明した。納得してエッちゃんは二人を見比たが、探偵に追われることしたの? どちらか云うと亜紀は追っている方だよ。

「早坂はどこに居るの」

 亜紀はエッちゃんの質問を飛ばして加奈に問うた。

「早坂は実に分からないように尾行してあたしとさっき代わったの、エッちゃんから頼まれなくても仁科さんがあなたの行く末を心配してるわよ」

「加奈は油断も隙もありゃしないのね」

「エへへ、エッちゃん、これ仕事」

 早坂は波多野を捜すから、柳原亜紀の追跡の入れ替わりを催促して、加奈と交代した。

 これはすべて仁科さんから、波多野が約束をたがえないように柳原亜紀さんを守ってやれと言う依頼だった。深雪加奈は、仁科亮介の計らいが気に入って、この仕事を引き受けた。

「それじゃあ亜紀をバックアップしてくれる仁科さんてなんて素敵な人」

 とエッちゃんは言った。

「息子さんとの確執であたしがそのとばっちり受けて引け目に感じてるのかも知れないけどそこまでしてもらわなくても良いのに逆行の中でこそ人間の誠意、あの人の真心が現れると云うものよ」

 余計なお世話だと亜紀は言いたけだ。加奈にはそれが気丈なのか、それとも大見得を切っているのか判らなかった。

 亜紀がお腹が目立つ前に辞めてから、一年未満半年以上だろうか、一緒にここで働いたのは。それでも亜紀の秘めた烈しい気性を悦子は心得ていた。

 思い込んだら一途なのだ。それだけに読み誤ると、ボロボロになってしまうたちだった。それを知ってる悦子には、仁科氏の好意が嬉しかった。

 ーーこれで亜紀ちゃんは大丈夫だ。胸を張って会いに行ける。もしダメだったら後の事はしっかり仁科さんが遣ってくれる。そうなれば今度あのユートピアの保養施設に亜紀ちゃんは患者としてはいれる。なんせ一年分は前払いしてあるそうだ。

「へえー亜紀はこの前まではそう云う所で勤めていたのか」

「そうなのエッちゃん、働いてる人はぬるま湯みたいな所でみんな出たがらないのよ」

「じゃあ亜紀みたいにきちっとした目的がなけゃあそこはだめなんだ」

「結希さんから聞いた話では何でも昔は戦場で心を病んだ人の療養や機能回復訓練の施設だったそうだよ」

「加奈ちゃんは亜紀ちゃんの事をよく知ってるんだ」

「エヘヘこれも仕事のうち。だから全てを頭に入れて掛からないと偏見で可怪しな報告をすれば興信所の評判が落ちて生活に困るもんね」

「それで加奈ちゃんは城崎へ、まあ当然お仕事だから行くわね」

「もちろん旅館の女将さんとも会った。もっともあたしはお客だから向こうは波多野さんを調査に来たなんて思いっこないからおもてなししてくれてバイトの茉利ちゃんと云う仲居さんと海水浴にも行った。その子から女将さんは波多野さんの失踪を事前に知って隠してるのは五年前の約束を女将さんは守ったちゅう事じゃあないだろうか」

「そうなの」

 とこれには亜紀が関心を寄せた。

「そうなのって言われても亜紀さんは嶋崎さんには……」

「会ってないのいえ会わせてくれなかったの」

 ーーまさかとは思うけれど万が一にも、面と向かえば感情がもつれるかも知れない、そうなれば全てが無に帰して終うと波多野が怖れたらしい。

あの時点であの人の愛は女将さんから柳原亜紀に移った。それを認めても意地が許さなかった。狭い了見だと思えば笑えと。女将さんは今は深く反省して、自らの過去を振り返ると、我が儘すぎて亜紀に詫びたいと、茉利ちゃんから便りが来た。此の茉利ちゃんは社長、いや波多野さんが目を掛けていたバイトの子だから信用できる情報だと思える。

 それを聞かされた亜紀は、益々あの人の誠実さに自信を持った。

「興信所っていいイメージを持ってなかったけどこうして事前に情報が入ると判断が的確に出来て行動の予定が立てやすくて悪くはないわね」

「そうですよ相手を知って己を知る。強いて言えば霧の中を進むような危険で愚かな行動ですよ。先を見渡せば戦略も立てられるし、情報戦が勝敗を決めるから興信所は人生の指標を作れる。だから相手をよく知れば人生に多いに寄与出来るから依頼すれば損はない。投資以上の見返りが有るから人生を誤らず豊かに出来る立派な仕事だよ」

 ーーあたいはそう思うから誇りを持って損得抜きで従事してる。だから金で依頼を選り分ける澤木所長とは一線を画している。

「そう云う心づもりなら加奈ちゃんは偉い立派な仕事だ」

「そう急におだてられるとドジ踏むからそこそこ適当にあしらってよ」

 ーーこれで亜紀さんも少しは気持ちに余裕が出来れば対等に向かい合える。引け目を感じる事はない、それで心持ち肩の荷が下りるでしょう。事前調査があればこそ不安解消が出来て、堂々と五分に渡り合えると云うものだよ。

 でもあたしは五年前のあの人と真面に向き合えると信じてます。信頼を失えばその愛は終わりますから、と亜紀はキッパリと言い切った。


     

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