第11話 荒木所長の場合2

 いつの間にか美咲は、亜紀の膝の上で寝てしまった。

「あらまあ、美咲、よその家で寝ちゃってダメじゃないの、起きなさい」

 起こそうとすると、荒木がまあまあと止めた。

「子供はつまらないと思えば直ぐに寝ちゃものですから逆に目をらんらんとして大人の話を聞いていたらどうします」

 なるほどねー、それも一理あると、亜紀はこの男の深淵を覗き込んだ。

「教え甲斐があると思うけど、いけないかしら」

「それは飛躍していて、頭でっかちになりすぎる。将来禍の種になるかも知れないから普通の子に育てるのなら年相応に合わせて教えるのが妥当ですよ」

「じゃあ途中で寝ちゃったからこの子は普通に育つでしょうね」

 まだ五歳でそんなもの解りっこないでしょう、と笑って応えた。

「でも此処に置いとけないから困ったものね」

「私が負ぶって行きましょう」

 ちょっとした押し問答の末に、亜紀は美咲を抱き抱えた。そのまま三和土の上がり口に屈み込んで、催促する荒木の背中にヨイショっと乗せた。一寸よろけながら立ち上がる荒木を見てハッとしたが、後のしっかりとした足取りにホッとした。

 鍵を探す亜紀に、そのままで良いよ、と言って二人は家を出た。どうやら休みの日は掛けないらしい。それで近所の人は今日は家に居ると解るらしい。

「それじゃあ鍵は外出中と云う札代わりなのね」

 まあそんな処だと軒下を抜けると、二人は並んで歩き出した。

「所長は釣りに凝ってると井上さんに聞きましたよ、この辺は何が釣れるんです」

 井上か、まあ此処の連中みんなまめな奴だ。

「渓谷釣りの醍醐味はイワナですよ後はヤマメも面白いです」

「飾ってる魚拓を見ちゃったけどあんな大きいのが居るの。まるで鮭みたい」

 荒木は思わず笑ってしまった。

「イワナはサケ科の魚ですよ。でも淡水魚で一生を川で暮らしますよ。ヤマメもそうですがこいつは川を下って海へ行く奴もいるそれがサクラマスになるんですよ」

「同じ魚なのに海へ行くと名前が変わるなんて好奇心が強いのかしら」

「おもろい言い方ですね。川を下るのは生存競争に負けた奴らですよ。でも海へ行けばもっと大きな魚に狙われるからどっちもどっちですが、まあ都会で一旗揚げたように数倍もでかくなって帰ってきますからね」

「じゃああの施設で都会へ帰らずに此処に居残って働いてる人はどっちなんやろうねぇ」

「嫌な事を聞きますなあ、そらあー立派なって戻って来るサクラマスやろう」

「それは終の棲家に帰って来た入居者じゃないやろか、どっちか言うと従業員は荒波に揉まれるのを思案するヤマメに似てるんちゃうでしょうか?」

「そうだなあここに居る連中は怖さを知ってるんやろう、善人の仮面を被った人と接することで生じる軋轢あつれきの怖さを……」

「でも、それで社会に出ないで此処で居るなんて引き籠もりみたいですのねぇ」

「引き籠もりとは心外な。あれは親が稼いだ金でのうのうと生きてる奴らだろう。此処の連中は立派な職場を持っている。あんたもそこで働いていてそう思うだろう」

「まあ一応お給料をまだですけれど、貰えて奉仕してい居ればそうだけれど完全に隔離された場所で毎日僅かな顔触れで一緒に仕事をしていれば家族同然で人の出入の極端に少ない集落の住人相手でしたら、自覚はないが引き籠もりと似たようなものじゃあないのかしら」

「違う彼らは何もしないで埋没しているが、我々は誰の厄介にもならず年寄りの世話をしながら次世代に向けてそれぞれに合った生き方を模索している」

「そう、それなの、それでいつまでもこのぬるま湯に浸かっていれば、その内に茹でタコになるわよ」

「これまたぬるま湯とは失敬な。結構お年寄りは口うるさい連中なんだ。だからこちとら毎日神経を尖らせるて休まる暇がない。とてもぬるま湯とはほど遠い水風呂ですよ」

「嘘仰い、扱い難いのは三浦さん一人でしかもそれもあたし一人に面倒見させて」

「それを言われると、いやあー参ったなあ」

「降参ですか」

「柳原さんはあの口達者な移動スーパーのお姉さんなみですね、しかもその若さで張り合えるなんて、あの雑談に近い面接で伺った祇園のお店を任されるだけは有りますね、東京じゃあ銀座でも貴方ならお店も繁盛するでしょう。そんな人が何でこんな山奥まで……。何か訳ありですか」

おだてて置いて急に何を言うんですか」

「本当は降りる駅を間違えたんでなく、こう謂う場所を探してわざと降りたんではないんですか?」

「どうして子連れのあたしがこんな所で降りるのよ。祐子さんが言ったとおりおばあちゃんの乗り降りを手伝って置いて行かれたのよ」

「いや、これは、勘違いしないで下さいよ。今では柳原さんは此の施設ではなくてはならない人ですから。でも貴方は謎が多すぎるんですよ。此処に来て直ぐにどっかのお嬢さんが後を追うようにやって来る。今度は、その親が居座って仕舞って、いや、別に破格の値段で当ホームへ入居して頂いて、あなたは福の神だと感謝してますよ、で、そのあなたの気っ風のいい性格に甘えて訊ねてるだけですから気を悪くされてないついでにもう一つ訊きたいんですが……」

「何なんですか、所長らしくなくしゃちほこばって」

「みんな気にしてるんですけれど、此の背中の子を連れてなんでこんな山奥まで来るのか気になっちゃってるんでね、この逃避行を、いや無論これはこっちの勝手な解釈でっけどみんな退屈で刺激的な物が有ればそれを膨らますさかい、別に貴方なら嫌な物なら聞き流せられる人ですからちょっと聞いちゃいました」

「成るほどみんなからそう思われているのか、笑っちゃいそう。でもまあ、みんな堅苦しいのは嫌いなんだ、ノンビリしていても問い詰めたらみんなひと癖有る人ばかり」

「でもあの連中は聞いて貰いたいのに誰も喋らないのは後が面倒なんですよ弁解するのに」

「所長の失恋みたいに変な噂が立つと面倒なんだ。だから誰にも知られたくないけれど聞いて欲しいのね」

「その複雑な気持ちをあんたは掴むのが上手だから聞いて貰いたくなる。そこがあんたの役得やろうやねえ。だからあんたのお店が流行っていたのにどうしてこんな山奥まで身を寄せたの」

「仁科さんに頼まれたのよ」

「身を隠せる場所をって云うほど深刻じゃあなかったがなあ、あの人よりあんたの方が切羽詰まっているように見えるんだが当たってねえだろうか」

 小さいこの子を連れて出るなんて。余程思い切らないと普通の女性では考えられないとも云った。なんせ此の集落のお年寄りは口うるさい。特に隣の婆さんとは背中の美咲ちゃんのことで口論になった。婆さんが言うには子育ては大変なのよ、なんせ自我に目覚めようとする過程をどう矯正するかによって。その子の人生を左右してしまうから、慎重さが求められても現場の母親はそんなの構ってられないの。なのにこんな所まで連れて来るなんて、なにか一悶着抱えていそうな人だと噂していた。

 亜紀は悟られぬように、内心はドキッとしていた。

「いえ、前から気分転換の願望があったからこそ仁科さんの誘いに乗っただけですからそう思われるのは心外です」

「分かりました、いえ、解りませんけれど不十分ですが十分です。柳原さんは引き籠もりに来られた訳じゃないってそれが判れば十分ですよ」

「あたしもあの連中が世間から隔離されてる所に居続けるのは一種の世間からの引き籠もり現象では、と思っていたけれどよくよく接して見ると別の考え方、つまりは自分を見つめ直す修行の場と捉えているとも受け取れたからかしら」

「そうです、引き籠もりは、死ぬか生きるかちゅう大きな痛手を受ける努力もしないで単に世間に馴染めないだけです。それに引き換え、此処の連中は結構失恋の痛みに耐えかねて勤めながら癒やしの日々を送ってる者たちですから」 

 生きるか死ぬか、とまで恋の相手に理想を求めれば、結局はないものねだりで、そこに幾ら素晴らし相手でも幻影が見えてくる。それは別れて気が付くものだ。過ぎたるは猶及ばざるが如し。そこから破局が見えるかも知れないから、一歩も先へは進めず思案する連中だった。   



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