第9話 井上のこだわり

 井上が写生で占拠していた木陰は、道路から百メートルばかり離れていた。その道端では三浦老人がこっちを見ていた。

「あの爺さん、へそを曲げるとなかなか難しいから長居は無用ですよ」

「そうだなあ、今朝初めての外出であんな何もない道ばたで待たされたら機嫌が悪くなっても困るから今度ゆっくり描いた物を見せてもらうよ」

 そうして下さい、と井上に早々と見送られた亜紀と亮介は、畑の細いあぜ道を引き返した。

「おじ様は、同じ様にのんびり暮らしても此処には二種類あると言って、その違いは人生経験の長さで振り分けられるって言ったけど。じゃあ、あの施設に居る人は世捨て人と英気を養ってる人に二極化されてるなんてちょっと変でしょう」

 お年寄りは特に何かに打ち込んでいる様子もなく、ただ孤独を愉しんでいるようだ。世捨て人の概念さえも当てはまらない。此処だけでなく此の集落の人にもそれは謂えた。そこには限界集落と世間から言われても悲愴感が感じられない。若者たちも、井上の言うように生きる損得勘定がなくなれば、自ずと一心不乱になるものに手を染めるか。  

 その時は曖昧に返事をしたが、戻る途中でふと亜紀に、人生の損得勘定ってなんなのだと訊ねた。知らないで返事するなんておじ様って最低と言われてしまった。

「解ったつもりだったがよくよく考えるとドツボに填まってしまった」

「簡単に言えば人はパンのみで生きているんじゃないって事でしょう」

「余りにも簡単すぎるなあ」

「此処に十日も居ればそうなるわよ」

 おおらかすぎて細かい事に拘って居られないって事か。

「あっ、三浦さん、待たしてごめんなさいね」

「いやあ〜、此処は時間のない世界だなあ、とわしはいつも想うんだ此処に居るとカレンダーは殆ど見ないね」

「じゃあどうしてるんですか」

「月だよ、電気のない時代は月の満ち欠けで日にちが解った。三日月は三日、半月は七日、満月は十五日って具合になあ。昨日は下弦の月だから二十四日だろう。太陰暦に直せばカレンダーを見んとさっぱり解らんが、あっ亜紀ちゃん、あんたが来たときは満月で明るかったろう」

「そんなの憶えていませんよう」

「だからあんたが来てからもう十日経ってるってこっちゃ」

「成るほどそれは風流な日にちの憶え方だ、亜紀さんこれからそれで行こう」

「雨降ったらどうすんの」

「それもそうだ梅雨時は困るなあ」

「これだから都会の人は馴染めずにみんな却って行くだろう」と二人の会話に三浦老人は笑っていた。

 三浦老人との散策には、相変わらず車椅子併用だったが、一週間経った頃には杖だけで出歩くようになった。

 亜紀は感心していた。だが三浦は五体満足なのだから、流石は歴戦で鍛えられただけに、良く耐えられたと、云うか受け容れられたと亮介は思った。

 それから三浦は一人で出掛ける事もあった。そうなると亮介も暇を持て余して、人間回帰の原点として彼も、絵を描いて見たくなった。そこで受付に居た井上を捜した。

「いつから絵を描いてるんだねぇ」

 聞くと井上はここへ来るまでは、絵は描いていなかった。彼は此処へ来て一年後に、此の山里に魅入られて歩き回るうちに、ある日、町で画材を買って描き出した。だから我流だと謙遜していた。井上が言うには、此処は一歩踏み出せば別の世界がある。それを見出せたお陰で人生の挫折から救われた。  

 なるほどと彼の講釈を聞く内に、彼が描く水彩画に凝り出し、彼の休憩時間に合わせて写生に同行した。

 彼は構図は見習っても良いが、形や色彩は各自感じた物を描けばば良いと言ってくれた。そう言う井上も習わずに、気に入った絵の模倣から始めていた。

 亮介も傍らで長閑な集落と家々を組み合わせた風景を描き出した。

 井上はここへ来てもう五年にもなるらしい。以前は銀行員で融資を担当していた。しかも入社早々は大口で無く中小企業向けだった。ベテランは億単位の融資案件で、こっちは十万単位で、その先輩の自慢話を良く聞かされた。それが返済が滞り、不良債権になれば、そいつが一番に青い顔してしょぼくれている。こうして銀行員は、天国と地獄を味わいながら、人を見極めていく。そう云う世界を見ていると、彼は普通に暮らしていても、真面に人が見られなくなった。

「要するにノイローゼか」

「仁科さん、そう単純には言い切れないですよ。あそこの連中はみんな心が病んで此処へ辿り着いた人たちですから」

 何だそれは。戦前のマザコン兵士とどう違うと云うんだろう。此処にはまだ旧海軍の亡霊が彷徨っているのか。まだ戦前の遺物を引き摺ってると云うのか。そうとすればあのマザコン兵士の霊を弔わねばなら無いが、調査員からの報告はまだ来ない。

「じゃあ世捨て人以前の問題か」

「何ですかその世捨て人なんて。そう言うもんじゃ無いですよ」

「いゃあ〜、君たちで無く此処の入居者達を言ってるんだ。彼らは人生をリタイアして此処を終の棲家にしたんだろう」

「それはないでしょう。僕はもう五年もあの入居者達の世話を看てるんですよ。あの人達は貪欲ですよ。特に極限まで追い込まれても生きる事に掛けてはね。その極めつけが三浦老人でしょうね」

 三浦老人はガダルカナルで負傷し、出血して痛みが全身を覆う中で、ラバウルまで意識朦朧の中を飛び続けた。操縦桿を倒せば、そのまま海に落ちて楽になれるのを、必死で生きようとした。そこで三浦老人が言ったのは『俺は精神力が弱かったからそれだけ生への執着心が強い卑怯者だ』と語っていたのを思い浮かべた。

 なぜ生への執着心が強い者は卑怯者なんだ、と訊けば『カッコが付かないからさ、格好悪い人間だと見られたくないからさ。要するに心の強い者は、泥臭くなくスマートに生きたがるのさ』この時の三浦老人は、何かを打ち消すように、一際声高に笑って見せた。

 従業員は三浦老人とは、殆ど口を利かないから、顔色を見て判断していた。悪い意味で以心伝心をさせられていたのか。まあ今は亜紀のお陰らしく、扱いやすくなったらしい。そうなると老人の深層心理がぼやけてきて、最近は解りづらい、と従業員からは贅沢な愚痴を漏らしていた。

「みんなは三浦さんが戦前は此処でお世話になったのを知らないのか」

「集落の古老たちからの訊き伝でそんな噂を移動スーパーの浅井祐子さんから小耳に挟んでみんな黙ってましたが、最近、あの爺さんは勿体ぶったように小出しし始めてみんな適当に聞き流せば機嫌が悪くなるので当たり障りのないように話し相手になってますよ」

「じゃあマザコン兵士の亡霊も訊いているか?」

「いや、それは聞かないが爺さんは昔、心の病に取り憑かれた兵士を治した話は聞きましたよ、でも寝付きは良い方ですからそんな気配は微塵も感じませんね」

「そうか、それじゃあその話は亜紀だけに真剣に話していたのか」

 まだ皆には心を閉ざしている。余程の気掛かりなんだろうなあ。

「そんな物騒な話は亜紀さんで止めて欲しいですね」

「そうだな本気にする奴が出て来れば此の長閑の山里が大騒ぎしてマスコミが殺到するとも限らんからな」

「それは願い下げにして貰いたいですね。何しろ浮き世離れした世界が売り物の施設ですから、もっとも都会の歯車に馴染んだ連中には逆に神経が参るらしいですよ、特に二十歳前の若者には」

「そう言ゃあ若手の四人はまだ一年未満だそうだなあ」

「まあね、でも二、三日で悲鳴を上げる子が大半ですから、あの四人は頑張ってますよ。此処は引き籠もりのデジタル時代には最適な過疎地なのに、却って此処の方が落ち着かず、で、また人を求めて都会へ戻ってしまう。あの連中の対面恐怖症って何なのですか、それに引き換えて此処の入居者はその逆ですよ。まあ珍しさもありますが……」

 これらから言えるのは、人間はつくづく勝手な生き物だ、と井上はぼやいていた。

   

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