第6話仁科の孫娘が来る

 いつも横柄な態度でやって来る三浦の爺さんが、この日は夕食を迎えたスタッフに珍しく笑って挨拶してから食事を摂った。此処では一番のぬしに近い男だから、此の豹変に何か思惑があると疑心暗鬼に成っていた。みんなはこれ以上の料金とサービスの要求は避けたいと身構えた。三浦の爺さんの降って湧いた変身を、可能にしたのが亜紀と知ると、みんなは驚いた。これで亜紀への認識が改まり、彼女は重宝されるようになった。


 数日後には、連絡を受けた結希が早速やって来た。亜紀は休憩時間になるまで、ホールの片隅に在る、ソファーを書棚で囲んだ談話室を指定した。

 そこは美咲がいつも絵本を読んでいる場所だった。

 本の多くは、此の集落を去った人達が置いて行った物らしい。中でも子供は大きくなるのも早く、不必要になった本は子供向けが多かった。お陰で美咲は退屈しないし、亜紀も手が離れて助かった。

 結希は、何も無い所だと聞かされていたから、途中でケーキを手土産に買った。ジュースは施設の自動販売機で買って、ソファーの真ん中を占拠しているテーブルに載せた。すると美咲は、足早に調理場の賄いのおばさん連中から、スプーンと小さいフォークと小皿を抱えて戻って来た。小さいながらも彼女は手際良く、結希の前に三人分のフォークと小皿を置いて「あたしこれが良い」と了解を求めて箱から自分の小皿に移した。

 一連の仕草に、これが五歳の女の子なのって。しかも美咲ちゃんのポシェットからぶら下がる根付ねつけ般若はんにゃを視て、結希は更に考えた。

「じゃあおねえちゃんはこれにするか」

 結希はケーキを、箱から美咲が用意した小皿に移した。

 早速ケーキを食べ始めた。みんなは二人を、パンダのように珍しがって盗み見していた。一時間もしない内に、その視線から解放された。美咲に「良いもの貰って」と亜紀がやって来たからだ。亜紀はどうやら荒木所長に特別待遇されたらしい。

 此処は昭和と謂うより、もっと昔の世界へタイムスリップしたように、時間がゆっくりと過ぎて往く。それがまた現在から隔離されてそのまま残っている、と結希は言った。

「此処は良い場所ね、でも働いてるとは知らなかった」

「だって動き回ってる方が性に合ってる」

「でも美咲ちゃんはどうなの」

「あの子はさっそく居心地良い場所見付けて、それにみんなが遊んでくれるから特に此処のお年寄りには人気があるお陰で手が掛からないのよね」

「じゃあお一人遊びはもう卒業したのか。凄いわね美咲ちゃん、調理場のおばちゃんたちともうスッカリ馴染んで居るなんて」

 満更でも無いと云う顔をして、美咲はケーキをかじっていた。

「もう着いたその日からあの子は此の村では人気者のマスコットキャラクターなのよ」

 良かったわね、と結希は美咲の顔を覗き込んだ。

「でもおもちゃにされた」

 そう言いながらも機嫌よくケーキを頬張っていた。

「ねえ美咲、あんたはいつも笑った顔してるけど大丈夫なの?」

 フフフと小さい声でまた笑った。

「ママが悲しくないなら大丈夫だよ」

 まあ! 何て云う子なの、と結希は思わず母親を睨み付けた。

「美咲ちゃん、ママの顔色見ちゃあダメ、それじゃあ子供らしくないの解る? おねえちゃんの言うこと分かるでしょう」

 それでも美咲は、結希よりもママの顔をじっと見ていた。その可憐いじらしさに、もう少し構ったげなさい、と結希は亜紀に意見した。

 今の美咲は色々な本が見られて、愉しんでいるから、心配ないと言い返された。

 解ったわ、と、この親子の世界には、これ以上の深入りを避けて、今の状況把握に勤めた。

「でも来て日が浅いのにもう遠方から遥々はるばると面会に来るなんて、みんな何者って謂う顔してるからやりにくくてしょうが無いのよ。で、雲隠れしちゃったおじさまはどうなの」

「どら息子の慌てふためく姿をあたしから聴いて愉しんでるのよ」

「そのどら息子を育てのはおじ様でしょう」

「でもそのどら息子に育てられたのがこのあたし」

「あのおじ様と結希ちゃんにサンドイッチにされるとあんたの云うどら息子ができちゃったのか」

「もうー、そのどら息子は一応はあたしのお父さんだからもっと威厳を持って話してよ」

「よく言うわよ威厳のある人ならみんな苦労しないわよ」

「まあね、そこがおじさまの心配の種なのよ。なんせ今回は子連れで野宿させて風邪をひかせて肺炎にでもなったら大変だからって。でもそうさせたのはおじさまなんだから。でも大元は勝手なお父さんだから、あの二人が和解すればお父さんの目が飛び出る位にガッポリと慰謝料をせしめる事ね そもそも往生際の悪い父が起こした禍が根源で、みんなそのとばっちりを受けた。真っ先に受けたのは祖父の仁科亮介おじ様で、その次が亜紀ちゃん、あんたなんですから当然貰う権利はあるけど、会社の決算発表が有る六月まででしょうね。粉飾決算すればもう少し会社の寿命が延びても銀行の監査は免れないから悪あがきはみっともないでしょう」

「それで倒産したらおじ様は雲隠れから出られるの」

「どうでしょう今の暮らしに飽きる迄は無理かしら」

「酷い! そんなのあり! こっちから乗り込んでやる何処に居るのあの唐変木」

「その内に向こうから来るそうよ」

 ーー浮き世から完全に隔離された、昭和以前の世界があるって、あたしが報告すれば、間違いなくおじ様はやって来る。

「それも困るわね此処は居心地が良さそうだから、あたしも此処でもっとのんびりしたいのに」

「だからなの、此処の状況を報告すれば部屋も空いてるから此処に腰を落ち着けるかも知れない。此処ならあの要領の悪い探偵には絶対安心で居られちゃうわね、それにしても亜紀ちゃんは何でこんな山深い里に辿り着いたのかしら」

「さあそれはあたしにも解らないわ。唯、此処は結希が言った世捨て人が辿り着く所と想わない?」

「ひょっとして亜紀、あなたが此処でのんびりしたい理由は他にもあるんじゃ無いの」

 亜紀は怯む。

「無いわよ!」

「そう剥きになる処も怪しい。第一あの子のお父さんはどこに居るのかしら?」

 仁科が訊けと云ったのか、と亜紀の顔が強張った。咄嗟にあたしの独断で、ごめんと結希は謝ると、直ぐに機嫌を良くした。

「まあ此処は世捨て人でもやってみれば悪くないから」

「世捨て人か、当代一流の相場師が此処に辿れば身を隠すには持って来いの桃源郷かしら。それより此処へ来て目に付いたけどみんな新人の亜紀さんには一目置いているようだけど一体あんたなにをしたの」

「へへへそうきたか、此処で一番煙たがられていた此処のぬしのような入居者を初日で手なずけたからもう上を下への大騒ぎになっちゃって」

「人の気をそんなに簡単に変えるなんて呪術師でもないあんたが一体何をしたの」

 ーー大した事はしていない。ただあの人の昔話を聞いてあげただけ。あのおじいちゃんは、言いたいことを喉の奥につかえさせたまま、悶々とした日々を送っていただけ。それを聞いて欲しいけれど砂漠には撒きたくなくて、ちゃんと芽吹ける大地を探していたらしい。

「二階の一番奥に居るその老人は今も時々そのマザコン兵士の亡霊に悩まされているらしいのよ」

「そんな物が此処に居るの」

「居るわけ無いでしょう。でもあの三浦さんと謂う頭の中には存在するのよ、戦場と謂う亡霊が、今もあの人には蔓延はびこっているのよ、でもそう云う人が世の中から消えたときに平和と云うものが足下から崩れるとは思いたく無いけれど……」

 ーー此処のお年寄りで、本当の戦争を体験しているのは三浦さん一人だけ。あの人は戦闘能力の及ばない情報戦略で敗れた。同じ様に投資家の心得という物を、祇園のお店では、亮介おじ様から良く聞かされた。それはさっき話した情報戦略戦と似て、あなたのお父さんの仁科亮治はそれに敗れた典型的な人だった。もし三浦の上官が仁科亮治だったら、彼は出撃を躊躇ったでしょうね。でも上官の命令は絶対なら、兵士が空砲を撃つように、三浦は紺碧の空に向かって飛んだ。戦地を踏んだ人は無謀な物は求めない。けれど戦地を知らない仁科亮治は、破滅になるまで無謀な投資を繰り返す。戦争で価値観が変わった事に気付いた人と、知らないままに突っ走る人の違い、と比喩した。

「じゃあ亜紀は、そこに和解はないと云いたいの」

「いえ、虚無の和解しか存在しないことを……、亮介おじ様はそこをどう思っているのかが問題でしょうね」

 


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