第7話 X法律事務所

 神野にとって正式裁判で争うのは望み通りではあったが、レユニオン島での100マイルトレイル出場の夢は1年先送りになってしまった。

 何もやっちゃいないのだから裁判では無罪となるであろうが、1年先送りは結構ショックである。少しでも若いうちにチャレンジしたかったのである。

 

 2週間ほどして弁護人依頼通知が届いた。確実に勝訴しようと思えば私選弁護人を立てれば良い。だけどこんな単純な出来事にお金を使うのは馬鹿げている。

 躊躇なく、神野は国選弁護人を依頼した。

 更に2週間後、担当弁護人が決定した。X法律事務所のK弁護士である。

 早速連絡をとり、事務所を訪れた。幹線道路に近い場所にあり自転車で15分、何度も訪れるには都合が良い。

 女性秘書に応接室に案内された。8階にあり六甲山の眺めが素晴らしい。

 K弁護士は30代後半の長身の男性で割とラフな感じの金田一耕助風である。

 軽い挨拶のあとすぐ本題に入った。神野は求めに応じて現場での出来事を一通り話した。


「分かりました。できる限りの弁護をさせて貰います」

「よろしくお願いします。今まで敵ばかりでストレスが溜まってました。やっとゆっくり話を聞いて貰えます」

「これは原告と目撃者が警察署で証言したものです」

 K弁護士は茶封筒から一束のコピー済用紙を取り出し、神野の前に置いた。

 証言文の他に現場の簡単な平面図が添えられている。

 神野は最初に原告の被害証言文を読んでみた。『先に神野さんから声を掛けてきた』とか『胸が大きいと言われた』とか虚偽が目立つ。

 だがそれよりも神野の脳裏に引っかかったのは彼女の職場での仕事の説明だった。

『事故が起こらないように会員の方のトレーニングを注意して見ています。何かあったらすぐ、事務室に知らせます。これが私の仕事です』としおらしく書かれていた。中学生でもできる仕事だ。

 ほとんど何もしていないが、彼女自身は一生懸命頑張っているつもりなんだろうか? 

(この娘の知力は?)

 何だか、神野は少し彼女に哀れさを感じた。敵でなければ、そっと後ろから支えてやりたくなるような……。

 彼は30年近くもKスポーツジムの会員だったが、フロアーで事故が起きたのを一度も見たことはない。

 

 次に目撃者のを目にしたとき、神野は我が眼を疑った。

 目撃者はてっきり受付の中年のおばさん達の誰かとばかり思い込んでいた。その名を目にした時、一瞬時間が停止したように感じた。

(まさかあの子が……? そんな……!)

 それは神野が最も信頼している女。Kスポーツジムの社員のうち、自分の人格を証明してもらおうと思えばこの子をおいて他にない。もしも自分がピンチに陥ったらこの子に手助けをお願いしよう。彼は心底そう思っていた。大きなショックだった。

 目撃者は野々宮奈穂だった。

 

 心の動揺を隠せないまま、神野は目撃者証言を読み始めた。

 『鏡ごしに見て、神野さんの様子がおかしいので近くに寄ってみたら大友さんのお尻を何度も触っていた』というとんでもない偽証を初め、『以前から女性の身体に触る人だとスタッフ間では有名だった』とか『セクハラ発言が多い』とか『キーを渡すとき、みんな手を触られている』とか無茶苦茶なことばかり述べられていた。

(一体何故、こんな偽証をするというのか?)

 すぐには整理がつかなかった。

 しばらくした後、神野は前年のKスポーツジムでの店長の激しい剣幕を思い出していた。

(アイツか! アイツがオレを退会させる為に……)

 他には何も思い当たることはなかった。

(アイツだ。アイツがこの子を利用して……)


 それでも、まだ分からない……。

 毎週の会議で自分の悪口を聞かされていたとしても、それをそのまま鵜呑みにする子だとは思えない。

(リストラ回避のため?) 

(まさか! 店長との関係……男と女の……?)


 いずれにしても……神野は野々宮奈穂が店長に乞われて、または自ら協力して無垢な大友裕子を利用したものだと徐々に思い始めていた。


「第1回目の公判は2か月後なので、その前にもう一度来てください」

「はい、わかりました。よろしくお願いします」

 最も信頼していた子に裏切られたショックを抱えたまま、神野はS法律事務所を後にした。


 2度目に訪れたとき、2人の証言文を再度見せられ、違っている箇所があれば訂正するよう乞われた。証言席や尋問席での質問の役に立つのであろうことは推察できる。かなりの箇所を訂正した。

 現場の平面図はメモレベルのもので距離の記述がないので位置関係が曖昧だ。

「現場を確認したいので、一緒に行けませんか?」

「証拠隠滅の疑いを持たれるので行けません」

「……」

(何を証拠隠滅するというのか?)

 N警察署では原告側だけ現場検証して、被告側には立ち入らせないのは如何なものか?

 神野は不公平感を感じ、不満だった。K弁護士は興味なさそうだった。

「公判の日は最後の打ち合わせをしたいので、30分前に事務所に来てください」

 K弁護士は落ち着いているように見えた。自信があるのであろうか。まあ、専門家に任せれば良いか。

 少々の不満を持ったまま、神野は帰路に就いた。


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