2-10

 気がつくと俺はそこに立っていた。


 青々と広がる草原。その草原を二つに分断するかのように引かれた一本の線路。その傍らに立てられた電柱は等間隔にどこまでも続き、紺碧の空をバックに電線を張っている。


 少し遠くの方で、ゆったりと動く綿菓子みたいな入道雲が見えた。どこか懐かしい夏の香りが漂う、まるで絵に描いたような景色の中で、照りつける太陽が額の汗をじわりと滲ませる。時折通り過ぎる風のお陰で耐えられないほどの暑さではなかったが、それでも夏を感じるには十分な暑さだった。


 真っ直ぐに伸びる線路の先を見ながら、額の汗を手で拭う。


「……夏の幻ってやつか?」


 寝起きのような感覚がまとわりつき、十分な思考能力があるとは言い難いが、この場所は現実の世界ではないというのはなんとなく理解できた。けれども、これは夢だと一蹴してしまうにはあまりにも現実感があり過ぎる気がした。空気、匂い、気温、湿度、吹く風の感触、伝う汗の不快感、自分の鼓動の音……どれをとっても妙な生々しさがそこにはあった。


「とりあえず……日陰を探すか」


 夢だとしてもまだ覚めそうにないため、涼を求めて歩き出す。どこに向かえば正解なのか皆目見当が付かなかったため、とりあえず線路沿いを歩くことにした。線路があるということは、きっとどこかに駅もあるはずだ。……まぁ、これが俺の見ている夢だとしたらその保証はないのだけれど。


 黙々と線路沿いを歩いて行く。歩くことによる疲労は不思議なほどに感じなかった。今ならどこまででも歩いていける気がする。そう考えると、やはりこれは現実ではなく夢の中なのだ。炎天下の中、ばりばり部活をしている連中ならともかく、夏の日差しをいかに避けるかということだけを考えている帰宅部エースの俺が、夏の日差しの中これだけ歩いて疲れないわけがない。


 線路は途中で分岐することもなくただただ真っ直ぐにどこまでも続く。この先に何があるのかはわからないが、それでもこの線路に沿って歩いて行けば、誰かが決めた終点という場所に辿り着くのだろう。……いや、終点そこにしか辿り着けないといった方が正しいか。線路が引かれている限り、選択肢の介入の余地がない。仮に分岐があったとしても、それはあくまで外部からコントロールするだけのもので、実際に線路上を走る列車には選択肢はない。目的地である終点まで、なんの選択をすることもなくただただ走り続ける。端から見ると複雑に入り組んだ線路があったとしても、列車にとっては所詮一本道に過ぎないのだ。


 ふと、千波さんの言葉を思い出す。


 『私が、関くんの運命を変えてみせます』――夕陽に染まる教室で、千波さんは俺にそう告げた。その言葉を疑っているわけではない。……けれども、俺はその言葉を信じ切れているのだろうか。人生なんて所詮、決められた線路の上を進むだけだと、どこか諦観してしまっていないだろうか。


 バラストの隙間を縫うようにして伸びた夏草が、風に吹かれて揺れている。ゆらゆら、ゆらゆらと一定の間隔を保ちながら、俺を線路上へと誘うように。


 額から垂れた汗が目に染みて、思わず目を瞑る。じんわりと刺さるような痛みを感じながら目をこする。そろそろ駅が見えてきてもいいんじゃないかと思いながらゆっくりと目を開けると、少し先に建物が見えた。


「……なんでもありだな」


 先ほどまでは何もなかったはずの場所に、年季の入った平屋の駅舎が佇んでいた。理屈はどうであれ、今はとりあえず涼みたい一心だった。


「自動販売機でもあればいいんだけど……」


 なぜか財布だけはしっかりと所持していた。これが俺の都合の良い夢だとしたら、飲み物をそのままイメージすれば良かったのかもしれない。けれども、優柔不断が祟って自分が何を飲みたいのかぱっと思い浮かなかったため、自動販売機を見ながら選択することを望んだ。


 古びた木造の駅舎の前に立つ。想像通り、駅舎の前には自動販売機があった。


 三十秒ほど悩んだ末、コーラを買った。料金は百五十円と、どこまでも現実じみていて味気なかったが、真夏の空の下で飲むキンキンに冷えたコーラの味は格別だった。


 駅舎の中に入る。小さな待合室には薄汚れた青色のプラスチック製の長い椅子が置かれてあり、奥にはIC乗車券対応の自動改札機が設置してあった。


 財布に入っていたIC乗車券を改札機にかざし、駅のホームへと歩いて行く。そろそろ覚めてくれないかなと願いつつ、日陰になっているホームのベンチに腰掛ける。すーっと吹き抜ける心地よい風を感じながら、飲みかけのコーラを一口飲む。このままここで待っていれば、いずれ電車は来るのだろうか。駅名も、時刻表らしきものも見当たらなかった。


「――関くん」


 錆ついたスピーカーをぼーっと眺めていると、不意に名前を呼ばれて体がびくっとする。

 俺は、聞き覚えのある声の方へとゆっくり振り向く。


「……千波、さん」


 そこには何をどう間違えたのか、制服姿の千波さんが立っていた。優しく通り過ぎる風に吹かれて、その黒髪と紺色のスカートがふわっと靡く。


 全く予想もしていなかった展開に頭が追いつかず、次の言葉が出ない俺をよそ目に、千波さんは口を開く。


「ふふ。なんか、ちょっと久しぶりな気がしますね。隣、いいですか?」


 相変わらずの、とても魅力的な微笑みを浮かべながら。

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