2-4
ふと、小学生の頃のことを思い出す。俺はあの日、当時流行っていたアニメの劇場版を親父と一緒に見に行く約束をしていた。その頃の俺はそのアニメがとても大好きで、テストで良い点を採った時のご褒美は必ずそのアニメの関連グッズをせがんでいた程だった。前日の夜は、まるで遠足の前日のようになかなか寝付けなかったのを覚えている。
そして迎えた当日。大好きなアニメグッズをリュックに詰め込んでいる最中に、スーツを着て浮かない顔をした親父がやってきて一言――「すまん、仕事が入っていけなくなった」と。元々、感情表現が豊かな方ではなかったから、泣いて駄々をこねるとかそういった抵抗は一切しなかった。いや、できなかったといった方が正しいかもしれない。その言葉を聞いた俺は、ただただどうしようもない虚無感に襲われ、聞き分けの良い子供を演じるのが精一杯だった。そしてその時の――親父の苦悩に満ちたような
結局、映画は次の週無事に連れて行ってもらったため、この件以来親父とは不仲が続いているとか、そういう重たい話ではない。でも、この件があったからかどうなのかはよくわからないけど、以来俺はスケジュール管理は意識して行うようになっていった。あの日俺が感じた虚無感を、他の誰かに自ら与えるのは絶対に嫌だと小さいながら感じたからではないかと思う。
――それなのに、気がつくと俺はあの日の親父の側に回ってしまっていた。色々と新鮮な事がありすぎて、なんて言い訳にならないことを知りながら。
「明日のデート、楽しみですね!」
そんな昔話を思い出しながら、俺は千波さんが作ってきてくれた一口サイズのサンドウィッチを頬張る。シャキシャキのレタスと薄切りのハムがマヨネーズを介して口の中で踊り出す。控えめに言って最高に美味い。こんなに美味いものを都会の洒落たカフェでなく、まさか学校で食べることになるとは思いもよらなかった。
「関くんは何か見たい映画あります?」
適度に降り注ぐ木漏れ日と、ゆったりと吹く風が今日も気持ち良い。これまで、教室という狭く閉鎖的な空間でしか昼食をとってこなかったことを後悔するくらいに、ここ中庭は快適な空間だった。……まぁ、だからと言って一人でここに来るのかと聞かれれば、来ないと即答するのだけれど。
「……関くん、聞いてます?」
「――っ。ごめん、聞いてる聞いてる」
いつもより低いトーンの問いかけで我に返る。
何してるんだ俺……現実逃避している場合じゃないだろ。
「……本当ですかー? じゃあ、今の私の質問に答えてみてください」
千波さんから疑いの目を向けられる。これは不味い。非常に不味い。ここでやっぱり聞いていなかったなんて答えようもんなら、この極上サンドウィッチを取り上げられてしまう。別にそう言われたわけじゃないけど、そんな気がしてならない。
〝映画〟というキーワードは聞き取れていた。……それもそのはず。キャンプがあるからデートに行けなくなったことをこの期に及んでまだ言えていないのだから。本当、何してるんだろうな俺。どんどん、ドタキャンのドタの部分が悪化していってるじゃないか。
「……答えられないんですか? やっぱり――」
「見たい映画、だよね? んー、俺雑食だから、特にこれが見たいってのがないんだよね。アクション、SF、ホラー、コメディも好きだし、ラブロマンスなんかも見たりするし!」
この極上サンドウィッチは誰にも渡さない。その思いと勢いだけで、千波さんが求めているであろう答えを口にする。まぁ、回答内容については非常にうっすぺらでクソみたいなものだけども。とりあえず、質問に答えることを優先した結果だ。
「……なぁんだ、ちゃんと聞いてたんじゃないですか。もう、それならそうと早く答えてくださいよ」
にっこりと微笑みながら、サンドウィッチ、取り上げるところだったじゃないですか。と続ける千波さんを見て、やはりあの時の俺の勘は正しかったのだと知る。……一か八かの答えが当たっていて良かったぁ、と心底ほっとする。
「男の子ってアクションとかSFばかり見てるイメージですけど、関くんラブロマンスも見るんですね。最近見た中で面白いのありました?」
「んー、最近見たやつだと、プライムで見た『今晩、ロマンス劇場で』かなぁ? ストーリーも好きだったけど、役者さんの演技とか全体的な雰囲気もすっごくよかった」
「それ、私も見ました! 主演の男優さんと女優さんがどっちも好きだったので軽い気持ちで見始めたんですけど……最後は思わず号泣してました」
少し照れたように笑う千波さん。その姿は相変わらず可愛くて、尊さすら覚える。
――ああ、でも早く言わないと。こんな話をしている場合じゃないのに。
千波さんの笑顔を見る度に、言わなければいけない言葉は奥へ奥へと引っ込んでゆく。……いや、違う。千波さんのせいにして逃げるなよ、俺。全部、てめえの保身のためだろうが。
「じゃあじゃあ、ちょうど今同じ監督さんが作った映画やってるみたいなんで、それを一緒に見ませんか? ちょっと気にはなってたんですけど、ラブロマンスなので関くん嫌かなぁって思って言い出せなかったんですが……」
「あ――」
見る映画のタイトルが決まってしまう。期待させてしまう。決して叶うことがないというのに。裏切られることが初めから決まっているのに。原因はすべて――己の保身のため。……はて。俺は、なにをそんなに恐れているのだろうか?
「……? どうしました、関くん?」
「いや……え、と――」
千波さんは不思議そうな目で俺の顔をのぞき込む。俺は何も答えられない。
「……もしかして、」
千波さんの表情が曇る。
「もしかして、私とのデート……嫌、でしたか?」
「――っ! そ、そんなことは」
「……そうですよね。元クラスメイトの女が、一ヶ月後に死にますとか分けのわからない事を言って急に近づいてきたと思ったら、今度は無理矢理デートに誘ってきて……正直、関くんからするととんだ災難みたいなもんですよね。きっと……もっと他にやりたいことだってありますよね」
どこか寂しそうに。どこか儚げに。胸が締め付けられるような笑顔で、千波さんは言葉を紡いでいく。
違う。全然そんなんじゃない。そんなこと一欠片も思っていない。俺は、ただ――
「……ちがう」
「もっと、別の方法がないか……考えてみますね。私とデートしなくてもいいような――」
「――ちがう! そうじゃない!」
その言葉を最後まで聞きたくなくて、気がつけば自分でもびっくりするくらいの大声を出していた。他のベンチに座るカップルたちの視線が一斉に集まるのを感じて、どうしようもなく恥ずかしくなる。……一体、何をしてるんだ俺は。
それはきっと千波さんも同じはずなのに、少しの羞恥心ものぞかせることなく、優しい微笑みを向けて俺を諭すように語りかける。
「ゆっくりでいいので……ちゃんと、教えてください」
その優しさはちっぽけな俺をどこまでも満たしていく。その小さな体から溢れる包容力は、一体どこから生まれてくるのだろうか。
真っ直ぐに、千波さんを見つめる。今なら素直に、そして恐れずに、言える気がした。
「……明日のデート、」
言葉が詰まる。そんな俺を千波さんは急かすことなく、それでいてしっかりと待ってくれている。だから俺は一つ深呼吸して、真っ直ぐに告げる。
「――別の予定が入ってて行けません。ごめんなさい」
それを聞いた千波さんは、相変わらず優しい微笑みのままで。
「本当は昨日、友達に指摘されて気がついたんだけど……その、なかなか言い出せなくて」
「それは――どうして、ですか?」
――どうして。そんなの初めからわかってた。でも、気がつかないフリをしていた。昔話を持ち出して、虚無感とかなんとか、そんな中二っぽい言葉を出して誤魔化していた。
それを口にするのは、とても恥ずかしい気がした。けれど、こんなにも優しい微笑みを向けてくれる千波さんに対して、これ以上誤魔化したくないと思った。
「それは――千波さんに嫌われるのが、怖かったから」
俺が恐れていたものは、ただそれだけ。千波さんに嫌われたくない一心で、引き延ばし引き延ばしにしていた。時には、どこかに置き去りにしたフリをして。何の解決にもならないことなんて、わかっていたはずなのに。
別に、千波さんに好かれているだなんて畏れ多いこと思っちゃいない。ただ、今がゼロだとするなら、それをマイナスにはしたくなかった。ただ、それだけ。
「デートをドタキャンして、千波さんに嫌われたらどうしようって考えてたら……言い出すタイミングを逃し続けてた。なんか、女々しすぎて笑っちゃうよな。こんな直前になってしまって、本当にごめん。見たい映画もしっかり考えていてくれてたのに」
誠心誠意、頭を下げて謝罪する。今の俺にできる、精一杯の気持ちを込めて。
少しの間、沈黙が続いた。けれど不思議と、気まずい空気ではなかった。
下げたままの頭に、不意に暖かい何かが触れる。
「え、と――」
そのまま、千波さんの小さな手で頭を撫でられる。優しく、ゆっくりと。温もりですべてを、包み込むように。
「……もう。そんなことで関くんのこと嫌いになるわけないじゃないですか」
それは、どうしようもなく優しい声で。
「――関くん。ちゃんと正直に教えてくれて、ありがとうございます」
どうしようもないくらいに、俺を包み込んだ。
俺を締め付けていた苦悩という鎖が今、千波さんの温もりによってゆっくりと解かれていく。
お互いに昼食を食べ終えていないけれど――もう少しだけ、このままでいたいと願った。
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