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「二千円になります」


 文房具コーナー近くのレジのおばちゃんにそう告げられ、財布から千円札を二枚取り出す。千波さんが複合ペンの〝たぬき〟とにらめっこしていた段階で残り二本だったため、最悪のケースも考えていたがラスト一本を無事に購入することができた。これもすべて俺の普段の行いが良いからに違いない。……え、関係ないって?


「よし、と。だいぶ時間かかっちゃったし急いで戻るか」


 複合ペンのファンシーな見た目的に、自分向けの購入ではないと思われたのか「包装はいかがいたしましょうか?」なんておばちゃんに尋ねられるもんだから、反射的に「お願いします」と答えてしまっていた。包装紙は青と白とピンクから選べたので、とりあえず安直にピンクを選択して、更に赤いリボンをつけてもらった。


 ――喜んでもらえるだろうか。いや……それ以前に受け取ってもらえるだろうか。千波さん、変なところで強情だから、ただで頂くわけにはいきません、お金払いますなんて言い出しそうだ。想像して、笑ってしまう。


 ちゃんと知り合ってからまだ三日目なのに、随分といろんな千波さんを知ることができている気がして、少し嬉しくなった。これからもっとたくさんの千波さんを知っていくことで、この気持ちは大きくなっていくのだろうか。


 遅かったですね、と言われた時の言い訳をどうしようかと考えながら、千波さんが待つ場所へと急ぎ足で進む。ようやくその場所が視界に入ると、まず目に飛び込んできたのは千波さん――ではなく、見知らぬ三人組の男たちだった。お世辞にも柄が良いとは言えない男たちに囲まれ、壁際に追い詰められている千波さんは――俺に見せたことのないような顔で、ひどく怯えているようだった。


「なぁ、暇そうにしてたしちょっとだけいいじゃん。俺たちとドライブデートしようぜ」

「でた、ショウ十八番のドライブデート! どうせ目的地はいつものラブホだろ?」

「ばっかお前、そんなにはっきり言うやつがあるかよ。こういうのは雰囲気が大事なんだよ」

「さっすがショウ君、頭良い! またいつものようにお裾分け楽しみにしてるわ」

「へへ、壊れて使いもんにならなくなってなかったら分けてやるよ」


 そんな、どうしようもなくクズで下卑た言葉を吐き捨てながら、千波さんが逃げないようにがっちりと囲む下衆野郎たち。常習犯のようで、人通りの多い通路からはちょうど死角となるような場所に千波さんを追い詰めていた。こいつらの思惑通り、まわりを歩く人たちは誰一人として気がついている様子はない。


 ……どうする? どうすればいい? こんな状況の対処法、教科書に載ってなかったしおばあちゃんの知恵袋にもなかった。こんなくだらない思考しかできない間にも、千波さんは下卑た言葉を浴びせられ、今にも泣いてしまいそうな顔で縮こまっている。あんなに優しく笑うことができる千波さんに、こんな顔をさせてしまって良いのか? ……いや、良いわけないだろ。常識的に考えて。


「……はい、ちょっと失礼しまーす」


 気がつけば、俺は下衆野郎たちのもとへと飛び出し、強引に下衆バリアをすり抜けて千波さんの前に立っていた。最初の「はい」が、緊張して少しかすれてしまったのは内緒だ。


「関、くん?」


 千波さんは驚いたような、少し安心したような顔で俺を見る。その目に浮かぶ、今にもこぼれだしそうな涙を見て、どうしようもない無力感と、下衆野郎たちに対する怒りを覚える。


「あ? なんだお前? 横取りしようってんのかよ」


 筆頭格の下衆野郎が下衆特有の仕草で凄みを利かせる。少しだけ、足が震える。後ろの千波さんからひしひしと伝わる恐怖の色が濃くなる。


 ……ここで、負けてはだめだ。そう自分に言い聞かせながら足に力を入れて震えを誤魔化す。


「……こいつ、俺の彼女なんで。引いてもらえませんかね?」


 ゼロ%に近い可能性にかけて、はったりをかまして交渉する。こいつらに、交渉するだけの頭があればいいのだが――


「ああ? 何わけわかんねえこと言ってんだ? じゃあ今すぐ別れろや。それで全部解決だろうが」


 ――交渉決裂。何が解決するのか意味不明で、すこし笑いそうになってしまう。


 〝彼女〟という言葉を聞いた途端、少し照れたような顔をして目をそらす千波さんに、小声で話しかける。


「……千波さん、走れる?」


 俺の唐突な質問に一瞬驚いた表情を見せて、同じく小さな声で答える。


「……はい。スニーカーなので……大丈夫だと思います」

「……オーケー」


 交渉不可能な相手に勝つために、できることはただ一つ。


「おい、何こそこそしゃべって――」

「千波さん! 走るよ!」


 千波さんの手を思いっきり掴む。筆頭格下衆野郎が何か言葉を発していたが、そんなことおかまいなしに俺は周りに聞こえるような大声を出して、驚いた顔の千波さんを連れて走り出した。


「あ、おい! 待てやこら!」


 追ってこないという、ぼんやりとした確信があった。俺が大声を出すことによって集まった大衆の視線は、それだけで立派な武器となる。下半身で物事を考えるような連中が、リスクを負ってまで執着するとも思えなかった。まさに、逃げるが勝ちというやつである。


 ――それでも、バクバクと異常にうるさく興奮した鼓動は、走り続ける足を緩めることなく、駅までの道を駆け抜ける。千波さんの小さくて柔らかい手を、強く握りしめたままで。


「はぁ、はぁ……ここまで来れば、流石に大丈夫だろ」

「ん……そう、ですね……」


 改札の前で、息を切らしながら二人とも立ち止まる。後ろを振り返ると、予想通り追いかけてはきていないようだった。一安心して、千波さんの方を向くと、何が言いたげな顔で俺を見ていた。


「……どうした?」


 千波さんはすこし照れたような、申し訳ないような顔をしてぽつりと呟く。


「……手、少し……痛いです……」


 ……手? 俺はワンテンポ遅れて理解する。


「ああっ、ごめん!」


 慌てて、握りしめていた手を離す。あまり経験のなかった恐怖と全力疾走が相俟ってひどく手汗をかいており、非常に申し訳ない気持ちになる。……咄嗟のこととはいえ、女の子の手を強引に握りしめるだなんて何考えてるんだ俺は。


「い、いえ! 助けてくれて、ありがとうございました。ああいうの初めてで、どうすればいいかわからなくって……その、頭が真っ白になって、しまいました……」


 ……明るく努めようとするも、心にできた恐怖という傷が痛んで、それが顔に出てしまう。そんな風に無理に作った千波さんの笑顔が、俺の心を抉り出す。


「いや……元はといえば千波さんを一人にしてしまった俺が悪いんだよ。……怖い思いさせてしまって、ごめん」


 ……俺がもっと早く決断できていれば——千波さんをカフェの中で待たせることだってできたはずだ。そうすれば、あんな下衆野郎どもに絡まれることは絶対になかっただろう。あの状況を作ったのは他でもない、俺自身なのだ。


 ——千波さんの怯えた表情を思い出す。胸が、ぎゅっと締め付けられた。


「関くんは何も悪くないです。悪いのは――」

「――とりあえず、電車に乗ろうか」


 きっと、千波さんは悪いのは私ですと言って譲らない。俺は、俺の中ですでに結論が出ていることに対して議論をする気にはなれず、千波さんの話を遮った。


「……そう、ですね」


 千波さんは短く、そして寂しそうにそう答えた。


 やりきれない気持ちのままで、ICカード乗車券を改札にかざす。

 ほんの少し前の楽しかった時間がまるで嘘だったかのように、重苦しい空気が流れる。


 ――五分後にきた電車に乗った俺たちは、一言も言葉を交わさないまま、帰路に就く。

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