花の木ならぬは

@mizuyaray

緋色の宝珠




 二条の邸第に招かれた和斗子はまずその美事な紅梅に目を奪われた。

 今が盛りと黒い枝に灯明のごとく無数に開いた紅い花は香りこそ白梅に劣るものの、やはり早春の空気を甘やかに和ませ、更にはその鮮やかな色合いでもって薄曇りの空までも華やかに染めあげた。

 流石は当代きっての権門のお屋敷……お庭までも立派だわ。

 慎ましやかな自宅の庭と較べてうっとりと溜め息をつく。

 と同時にいかに自分が場違いであるか実感し、身の竦む思いがした。

 あたしの手持ちの中では一番立派な一張羅だけど、それも関白家の人々からすると随分目劣りするでしょうよ……扇は乳母に貸してもらったし化粧も頑張った。髪は……ええい仕方ない。貧乏貴族の精一杯のおめかしだと、大目に見てもらおう。

 和斗子の歩みが遅いのを先に立った女房が振り返り促す。慌てて和斗子は追いすがった。

 案内の女房は身形も立ち振る舞いも隙がなかったが愛想もなく、上流に仕える女房とは皆このように澄まして取りつく島もないのかと、先行きが不安になる。

 遅れないようにと濡れ縁の角を曲がったところで、和斗子は庭先にまた目を奪われた。

 梅林を白いものが横切ったのだ。

 ひらひらと童水干の袖を翻し少年がひとり佇んでいた。

 年の頃は干支が一巡して一、二年といったところか。艶やかな垂髪といい、凛とした面差しといい、水際立った美童である。

 二月とはいえ春の暖かさは程遠く、吹きつける風も凍えるように冷たい寒空の下、少年の頬も梅枝へ伸ばされた指先も薄紅色に染まっている。

 小柄な彼は花の多い高い枝を取ろうとつま先立ちを繰り返す。

 涼しげな美貌と稚い仕草のちぐはぐさが自然と和斗子をほほえませた。

 堂々たる花盗人が単なる下仕えとも思えず、気品からも当家の子息ではと察せられるが、関白家に年の頃の符号する男児があったか和斗子は思い当たらなかった。

 則長も生きていればこんなだったろうか……

 ふと過ぎる考えと少年から慌てて目を逸らす。

 いけない。また暗い考えに取り憑かれて。

 再び目をあげると少年の姿は見えなくなっていた。




 母屋には昼間だというのに明かりが点っていた。

 案内は高麗縁の畳を和斗子に勧め、自身は御帳台の脇に控えた。

 紗の下りた御帳台の左右には唐獅子と狛犬の石像が置かれ、中の人物の貴さを物語っている。

 こう明るくては毛筋が目立って見えそう……

 和斗子は手にした扇を光源を退けるように翳した。

「……あなたが前肥後守の娘ですね?」

 御帳台の奥から鈴を振るような声音がした。

 耳に心地よい響きだが和斗子の緊張はいや増した。

「はい、元輔が末の娘にございます」

「そんなに畏まらないで。今日は個人的にあなたに会ってみたくて内々に呼んだのですから」

 軽やかな声音がまた響いた。

「あの歌詠みで名高い元輔。梨壺の五人のひとり。あなたはその秘蔵っ子だと聞き及んでますよ。さぞや素晴らしい歌詠みだろうと。その才でもってわたくしに仕えてほしいと言ったら、迷惑かしら?」

 和斗子は身を固くして平伏しながら言った。

「身に余る光栄にございます……ですがわたくしは――」

 呼気が白く染まる寒さにも関わらず額に汗が浮く。

 今御帳台越しに対話しているのは関白家の大姫にして今上帝の中宮――正妃――に他ならないのだ。普段の和斗子であれば祭りや行啓の際に遠くから御姿を拝見するだけの雲の上の存在なのだ。

 何故そんな天上人が自分をお召しになったのか未だによくわかっていない。和斗子が歌詠みの家系だからと言われても自身は評判になるような歌の一首も読んでいない。

 考えれば考えるほど人違いか手の込んだ悪戯ではないかと思えてくる。

 ふいに華やかな声が鋭さを帯びた。

「赤子はおまえを恨んではいないよ」

――え?

 顔をあげると御帳台の垂れ布を割って、ずかずかと中宮本人が現れた。

 和斗子が驚愕に目を見開くと梅の袷の童水干を纏った美貌の少女が「邪魔だ」と言い捨てその手から扇を奪い去った。

「あなたさっきの、」

「命婦、この者の支度を。着替えが終わったらついて参れ!」

 高らかに命じると男装の美少女は足音も勇ましく母屋を出ていった。

 開いた口が塞がらないとはこの事だ。和斗子が呆気に取られていると先程の女房が有無も言わさず肩を捕え、折角の装束を脱がしにかかった。

「何をなさいます!?」

「お静かに。上がご用意された衣装がございます。それをお召しになされませ」

 無愛想な女房は怪力で和斗子を拘束し下帯までも解きにかかった。





「上様~~いったいこれは何の嫌がらせにございます~~?」

 半べそをかきながら和斗子は少女の後を追いかける。歩みに従って束髪が尾のように揺れている。

 命婦と呼ばれた年嵩の女房に着替えさせられ、和斗子は今尼僧の恰好をしている。

「何って、女装束のままでは動きにくいと思って、僧形をさせたまでよ」

「ですがこれではあんまり……」

 貴族の子女が滅多に出歩かないとはいっても、壺装束や被衣などの外出着がないわけではない。華やかさを保ちつつそれなりに機能性もあり、外出着で神社仏閣に詣でるのも彼女たちの娯楽のひとつであった。

「わかってないなぁ」

 くるりと中宮が振り返る。

「やんどこない姫君のお出かけですよ、と触れて回るような恰好では素早く動けないってことだよ。何のためにわたしが男姿でいると思う? おまえに目立たない形をさせたのも同じ理由さ」

「そ、そもそも何故上様が」

「待て待て。外でその呼び方は止せ。わたしのことは宝珠丸と呼べ」

 そう言って宝珠丸は身を翻した。白い水干に蘇芳の袴姿が堂に入っている。着こなしも挙措も少年にしか見えず、男装でのお忍びがこれが初めてではないと知れる。

「どちらへ参られるのですか?」

 やっと疑問を口にした。

「弟からの依頼でね……たまに用を申しつける下人が冤罪で困っていると文を寄越した」

「下人のもとに上――宝珠丸様自ら? こちらに呼びつければいいではありませんか」

 やや憤慨しながら和斗子は言った。

「それがそうもいかなくてね。現場を見たいと言ったのはわたしなのだ」

 言いながら小路をずんずん歩く。二条の邸第からそれほど離れてはいないが、貴族に仕える使用人たちの住居がひしめく一角にさしかかっていた。

 いくら貴族の邸宅の建ち並ぶ左京の一等地といえど通いの使用人の多くはその家屋敷の近隣に居住しており、安普請の粗末な家屋がほとんどだった。

 なるほどこれなら仰々しく着飾るより小回りのきく男童と出家で出向いた方が違和感もない。

 宝珠丸は案内でもつけているかのように迷わず一軒の小屋に入っていく。それもそのはずでその戸口にだけ検非違使庁の役人が立っていたのだ。

 中には途方に暮れたように立ち尽くす一人の男がいた。萎烏帽子に着古した水干。同じ水干姿でも上質の絹を纏った宝珠丸とでは雲泥の差である。

「あ、あなた様が隆円僧都のお遣わしになられた験者様であられますでしょうか?」

 精一杯丁寧な言葉遣いをしようとする様子が滑稽だと和斗子は鼻しらんだ。

 これだから無教養な下種は嫌いなのよ。

 狭いうえに掃除も行き届いてない小屋の中にいるのも不快だった。勢いに流されここまで着いてきたことを今更和斗子は後悔していた。

「いかにも。私が僧都の君から話を受けた陰陽法師宝珠丸である」

 宝珠丸が胸を張って答えると、男は感極まったように膝をつき涙目になって訴えた。

「お願いします! わたしの無実を晴らしてくだされませ!! わたしは殺しておりません! 本当です!!」

「落ち着いて。僧都の君よりあらましは聞いているが、詳しい話をまた聞かせてくれぬか?」

 男の発した禍々しい言葉の数々に気圧された和斗子と違い、宝珠丸は至極冷静な態度を崩さない。

「はい……どこからお話ししましょうか」

「奥方が殺される前に何か変わったことは?」

「はい。昨日かみさんがさる御方のお屋敷に呼ばれて……普段働いているお屋敷ではないのですが、人手が足りないとかで手伝いにいったのです。それでそこの北の方が喜ばれて、特別に褒美をくださったとかで、意気揚々と帰ってきたのです。最後に見たかみさんが嬉しそうだったのは唯一の救いかもしれませんです。わたしも昼間は別の御方に仕えてますので、留守の間のことはわからない。で、帰宅してみると家の前には黒山の人だかり、中は物盗りでもあったかのように荒れ放題、そして奥には血塗れになったかみさんの死体が――」

 男の言葉に和斗子は小さく悲鳴をあげた。

 では自分の立つこの荒屋は殺しの現場なのだ。

 なんという触穢。期せずして死に触れた衝撃は相当なものだ。

 思わず小声で念仏を唱えた。

「それで奥方は此処で殺されたのではないかと検非違使は思い立ち、夫のあなたが疑われた」

「まったくの濡れ衣です。夫婦二人の稼ぎでやっと食べていけてるのに、どうして働き盛りのかみさんをわたしが殺すんです? 余計暮らしが苦しくなるだけでしょう」

「確かに。働き手を減らすのは得策ではない。しかし別の動機ならどうか? 怨恨とか」

「それはどういう意味で?」

「たとえば、奥方に新しい男ができたとか、逆にあなたに新しく通う女ができたとか。これならば相手が邪魔になって殺すこともありえる」

「とんでもない! わたしらにそんな暇ありませんよ。忙しくてこの家にだって寝に帰ってくるようなもんで……確かにかみさんは多少器量がよくて、それで他家への遣いなんかも頼まれるようでしたけど、他に男がいるんならわたしだって気がつきますよ」

 男の言い訳を聞きながら和斗子は内心どうだかと疑惑の目を向ける。

 いかにも愚鈍そうなこの男に連れ合いの浮気を見抜けるだろうか?

 だとしたら離縁を切り出した妻に逆上した夫が勢いあまって手をくだす――珍しくもない痴情のもつれも有り得る。

 そう見切りをつけるとますます早く此処から立ち去りたくなった。さっきからかすかな臭気が鼻につき、それも和斗子の不快感に輪をかけた。

 宝珠丸様、もう此処から出ましょうよ。

 催促するように袖を引くも宝珠丸は腕を組んで考え込んでしまった。瞳は忌まわしい現場にあってむしろ輝きを増して見える。

 ふと面をあげ、宝珠丸はあっと叫んだ。つられて和斗子も上を見上げた。

「ぎゃっ」

 はしたない声が喉から漏れた。

 小屋の小さな天井いっぱいに赤褐色で「怨」の一文字が記されていた。黒っぽく変色しているが遠目にも血文字に見えた。

 部屋に薄く漂うのは血臭だったと悟るや和斗子は吐き気を催した。

「この文字はいつから?」

「知りません! こんなものわたしは知りません! なんと禍々しい……何が書かれていますか宝珠丸殿」

 宝珠丸はそれには答えず逆に男に質問を畳みかけた。

「奥方が仕えていた屋敷は何処? また臨時で働いた屋敷は?」

「かみさんは二条の粟田殿に仕えてますが……確か手伝いにいったのも粟田殿の縁故の方とか……」

「わかったありがとう」

 宝珠丸はそれだけ言うと勢いよく外へ駆け出した。

「宝珠丸様!?」

「わ、わたしはどうなるんですかっ!?」

「事件が解決するまで僧都のもとに身を寄せなさい。あなたが下手人でないことはこの宝珠丸が保証する」

 宝珠丸の後を慌てて和斗子は追った。





 路地に飛び出した宝珠丸は髪の尾を弾ませ、疾風のように駆けていく。

一町も行かないうちにみるみる引き離され和斗子は息も絶えだえに制止を求めた。

「……待って、ください……宝珠丸様……」

「情けないなぁこれしきで。だいたいおまえ太りすぎよ。もう少し動いたほうがいい」

 呆れたように歩を緩め、宝珠丸はその華奢な手で和斗子の手を引いた。

 途端に足に翼が生えたように身が軽くなった。細い指が思いがけない強さで和斗子の手を握りしめている。作り物めいた繊細な手なのに温かい鼓動が掌から伝わってくる。

……生きてる。

 躍動する血潮。和斗子の胸は高鳴る。

 雪のように白い肌が指先だけ薄紅に染まっている。

 二条の梅林で見た美しい手。

 しなやかな指先を彩る桜貝の爪。

 いつまでも見蕩れていたい。

 急に宝珠丸が立ち止まった。追突しそうになりながら和斗子も立ち止まる。

「着いたぞ」

 見ると立派な邸第の裏口だった。築地塀の上から白梅が咲こぼれ、路面に花弁を散り敷いている。表門の方はがやがやと賑やかで主の帰宅か貴顕の来客であるらしい。

「なかなか立派なお屋敷ですね」

「わたしの叔父君の家だ」

「今なんと!?」

 すたすたと裏口から入ろうとする宝珠丸の袖を引っ張った。

「そろそろわたくしにもわかるように説明してくださいませ」

「説明している時間が惜しいのだが……」

「このまま五里霧中を連れ回されるのはいやでございます。納得すればわたくしにも宝珠丸様のお力になれることがあるかもしれません」

「ほお? 先程はわたしに仕えるのを渋っていたではないか」

 図星を指され和斗子は言葉に詰まった。

「それは……」

 目を伏せ言い淀む和斗子に背を向け、こちらを見ないまま宝珠丸は言った。

「おまえの尼僧姿よく似合っている。どうだ、頭巾で隠れた方がその赤毛も気にならないだろう」

「どうしてそれを――」

 二の句が継げなくなった。

 最初に対面した時から宝珠丸は鋭く和斗子の秘密を言い当ててきた。

「ひとつ」

 宝珠丸は懐から扇を取り出した。

「初めおまえは慈しむように童姿のわたしを見ていた。おまえの年齢からわたしと同じ年頃の子ども……息子がいると思った。次にふいに痛ましいような表情で目線を逸らした。これらからおまえが幼子を手放したか亡くした母親ではないかと推理したのだ」

「確かに――確かにその通りです。わたくしは――」

 唇がわななくのがわかった。全身が瘧に罹ったように震えるのも。




 あれは十年近く前のことだ――

 高齢の父もまだ存命で、新婚の夫の足繁く通ってくる実家は賑わっていた。去年生まれたばかりの長男は玉のように愛らしく、夫とふたり寝顔を覗きこむのが何よりの楽しみだった。

――ほら、こうすると指を握り返してくるの。

――小さいなぁ。本当にもみじの手だ。

――そのうちあなたに似て大きくなるんじゃない?

――違いない。俺の嫡男だもんなぁ。よし決めた。俺から一文字とって本名は則長にしよう。

――気が早いわよ。まだはいはいし始めたばかりなのに。

 我が子を挟んでの他愛のない夫婦のやりとりすべてが愛しかった。

 夫はどちからといえば武張って口下手で、それが和斗子には物足りなく思う時がままあったがそれでも今は充分幸せを感じられた。

 だが則長はこの冬を越せなかった。どころか過ごしよい秋すら迎えることはなかった。

 夏の終わり――急に朝夕涼しくなり、体調を崩す者も少なくなかった。

 則長の乳母もその一人で風邪をこじらせ里に下がっていた。

 人手不足は否めないが数日なら自分と女房たちだけで赤ん坊の面倒を見れるだろうと高を括っていた。

 女たちがほんの少し目を離した隙に則長の姿が見えなくなってしまった。這い回る事を覚えた男児の行動力を侮っていたのだ。

 和斗子たちは半狂乱になって探した。何処ぞの隙間から這い出し、地面に転落でもしたら大事だ。

 幸いにも則長はすぐ見つかった。細殿で俯せているのを女童が知らせてくれた。

 だが一足遅かった。

 駆け寄った和斗子が抱きあげた赤子はすでに息をしていなかった。

 何か誤飲したのか伏せて呼吸ができなくなったのか原因はわからない。

 我が子を喪った和斗子からすればそれを知ったからとて最早どうする事もできない。自責の念が増すばかりだろう。

 幼い則長の葬儀は内々の簡素なものだった。あまり公にしないのはそれだけ乳幼児の死亡や死産とそれに伴う触穢が多かったためだが、その事実が和斗子を慰めることはなかった。

 人が変わったように毎日泣き暮らした。

 四十九日が過ぎても喪服のままぼんやり横たわって過ごし、時折目尻に滲む涙を拭う日々が続いた。

 夫も流石に心配し頻繁に訪ってくれたが、あくまで消沈した和斗子を気遣ってのことで亡くした息子のためではなかった。

 こんな時やっぱり男親は冷淡だ。母親のあたしは半身をもぎ取られたように悲しいのに、ちっとも悲しんでるように見えない。

 夫との意識の溝が際立ち、それが打ちひしがれる和斗子を更に苛立たせた。

 紅葉が散り、積もった落葉に霜が降りる頃、夫はふと言った。

――なぁ、いい加減元気を出せよ。おまえまで儚くなるつもりか。

 和斗子は答えない。

――則長のことは仕方がなかった。これも前世からの宿命だったんだよ。子どもはまたつくればいいじゃないか。

 不用意に発せられたその一言に和斗子の内で何かが砕けた。

――またつくればいいって何? 則長はもう還ってこないのに。

 和斗子の剣呑な雰囲気に夫が怯んだ。

――則長はまたとないあたしの子だったのよ。あたしの唯一の。それを、またつくればいいですって? あたしの子を瓜の実みたいに言わないで! 人でなし!

 凄まじい剣幕で和斗子は夫にくってかかった。手当り次第に物を投げつけ、几帳を力任せに引き倒す。

 武芸で聞こえた夫も困り果ててほうほうの体で退散した。

 後には物が散乱した部屋の中で立ち尽くす和斗子が残された。

 和斗子の乳母が現れ、名を呼ばれるとその腕の中で和斗子は泣き崩れた。まるで和斗子自身が赤子に戻ってしまったかのように。

 それから冬の間、幾度か夫の来訪があったが頑として和斗子は家に入れなかった。

 門扉をほとほとと叩く音を聞くといつかの問答が甦り、腸が煮えくり返るのだ。

――おおい、ここを開けてくれ。

 雪の降る夜にやって来た時には、流石に心が揺れて入れてやろうか迷ったものの、次の瞬間にはまた和斗子は首を振った。

 あんな無神経な男、一生許せるもんか。たとえ仏様が許したとしてもあたしは許さない。

――おおい……

 声は深更を過ぎても止まなかった。雪は次から次へ降りしきり、男の肩にも烏帽子にも白く降りかかる様が容易に思い浮かんだ。

 いい気味。と溜飲の下がる思いと良心の呵責に一晩中和斗子は苛まれた。

 それほど悩むのならばいっそ夫を迎え入れ、その肩の雪を払ってやる方が気も楽になるだろうに。だが和斗子も意固地だった。

 結局有明を待たずして夫は諦めて帰っていった。

 夫が去った後の雪の朝の静寂が耳に痛いほどだったのを和斗子は未だに覚えている。

 それきり夫との仲は途絶え、子を喪った傷を負ったまま、月日は和斗子の上辺を無為に流れていった。

 この数年折に触れて思うのは我が子のことばかりで、牛車の中から路上で遊ぶ子どもを眺めては「則長も生きていたらあれくらい……」と愛しいと同時に悲しみが突きあげてきて慌てて車を出したことは数え切れない。

 元服前の少年に息子の面影を重ね合わせるのがすっかり習い性になっていて、宝珠丸と出逢った時も和斗子は自然とそうしたのだった。




 宝珠丸に事実を言い当てられ、和斗子は唖然とした。

「ふたつ」

 宝珠丸が扇をぴしりと鳴らした。

「おまえは灯台の明かりを避けるように顔の横に扇を翳した。顔を隠すのなら扇は正面に広げ持つべきところを。顔より髪を隠したかったからだ。

 暗い室内ならまだしも灯明のもとでは色が見て取れる。特に火の照り返しで赤毛は更に赤味を増す。本来気の強いおまえが人前では引っ込み思案なのは、いつも毛色を気にし過ぎるからだ。だからこうして髪を隠せば、堂々と外を出歩けるし、臆せず関白家の姫にも意見できるではないか」

 和斗子は口を閉ざしたまま唸った。

「みっつ」

 ぱっと扇が開く。

「こんなに知的で美しいわたしが水を向けてもちっとも靡かないから、この女は初めから出仕を断るつもりで来たとわかった。消息で断りを入れてもまた催促されるかもしれぬ。だから直接出向いてきたのだろう?」

「知的で美しいって……ご自分で仰るとは大層な自信ですね 」

 和斗子は脱力した。

「違う?」

「……だいたい合っております。その、出仕の件についてはまだ迷っておりました。上様や関白家の皆様方が歌人としてわたくしを取り立てようとするなら、とんだ期待はずれになるだろうと思っておりましたので……」

 柳眉をひそめて宝珠丸は訊ねた。

「おまえのその自信のなさはどこからくるのだね? わたしが知る限り元輔の娘は才気煥発、殿御にも引けを取らぬ知性と漢才の持ち主と評判だった。白河院の法華八講の噂を聞いた時から会ってみたいと思っていた」

 征矢のような率直な問いにますます和斗子は俯いた。

「まぁいい。今はそれより叔父君のことだ。もしかしたら一刻を争う事態やもしれん」

「どういうことです?」

「まぁ見ておれ。そうだ。おまえは表に回って車の主人は誰か訊いてきてくれ。叔父君だった場合、行き先まで訊くのだぞ」

 言い置いて宝珠丸は裏門へ姿を消した。

 仕方なく和斗子は表門へ向かった。

 先程から宝珠丸の言いなりだが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。

 それに――

 何が起きてるのか呑み込めないものの、和斗子はこの状況が面白くなってきた。

 里居を続け暇をかこっていたのでは到底体験できない出来事に自分は立ち会おうとしている。

 四足門の前に止まったのは真新しい檳榔毛の車で、緋色に染めた簾と散り敷いた白梅の花びらの対比が和斗子の目には好ましく映った。

 車副の男の一人に声をかけると和斗子が私度僧に見えたのか胡散臭そうな表情をしたが、質問には答えてくれた。

 車の持ち主はやはり粟田の殿様で一度帰宅したがまたすぐ外出するというのでこうして門前に待機しているそうだ。

「なんでも院のご容態が優れないとかで、お見舞いの支度をなさってるんだと」

 院とは退位した帝で今上帝の父君でもある。生来頑健とは言い難い体質だったのがここ数年は特に病臥することが増えた。

「結構なことだけどこうして寒空の下待つ身にもなってほしいわな。こっちが風邪ひいて寝込んじまう」

 車副は寒そうに首を竦めた。和斗子は礼を言って裏門に引き返した。

「遅かったな。こっちの用は済んだぞ」

「何かわかったのですか?」

「ああ。恐れていた事態になった。時間が惜しいから歩きながら話すぞ。来い、常陸介!」

「何なんですかその雑な呼び名は。わたくしには和斗子というれっきとした本名があるんですから――」

 言いかけて口を噤んだ。

 名前には呪力が宿っているのでみだりに口に出すことは慎まねばならない。間違っても往来で自ら名乗るなどあるまじき振る舞いだ。誰に悪用されるともわからないのだ。

「和斗子……和斗子……和斗尊。うん。出家らしい名前だ。今からおまえはこの宝珠丸の弟子、常陸坊和斗尊だ!」

 勝手に納得し宝珠丸は朗らかに宣言した。

「来い和斗尊! 」

「もうなんでもようございます……それより宝珠丸様、恐れていた事態とは?」

「そうだった。実は消えた女が粟田殿の使用人だったと聞いた時から嫌な予感はしていた」

「というと?」

「叔父君はな、最近妻の一人に子を産ませたのだ」

「妻の一人ということは北の方ではない?」

「おまえもなかなか聡いな」

 貴族の男は北の方――正妻――の他にも複数の妻を持つのが普通なので驚くに値しない。

 ただ妻の序列も婚姻関係もかなり流動的で、身分が高い妻、子を沢山産んだ妻が正妻格として扱われる場合が多かった。

「おそらく産養の手伝いに女は遣わされた。賤の女にしては器量が良かったというから、女主人の目にもとまって、褒美を特別に賜ったのだろう。おそらくは赤子の産着を縫った端切れと香を焚きしめた絹か料紙……それらを懐に抱いて女は家路についた」

 まるで見てきたような口ぶりだ。

「屋敷には加持祈祷の僧侶や魔除けの陰陽師が詰めている。だが屋敷から出た女は無防備だ。そこを生霊が産着と料紙の匂いをたよりに襲いかかる――」

「ちょっと待ってください!」

 和斗子は宝珠丸の横に並んだ。

「どうしてそんなことがわかるんです? まるでその場にいたかのように」

「わかるものはわかるのだから仕方ない。おまえは歩き方を忘れろと言われて忘れられるか? それと同じだ」

「全然違いますよっ。第一生霊が下女を襲ったなんて、にわかに信じられない」

「信じられなくても事実は事実だ。おまえもあの血文字を見たろう?」

「あれは……女の夫が書いたのでは?」

「字も読めないのに? だいたい何故天井に? 飛びあがらないと届かない場所に大量の血を使って文字を書く意味とは? 人はそんな無意味はことはしない。道理にはずれたことを成すのは人ではない――鬼だ」

 断言され、和斗子はぞっとした。

「おそらく生霊は子を産んだ妻に嫉妬したのだ。母子ともども亡き者にしようとした。そこに運悪く産着と妻の匂いのする物を携えた者が現れる。生霊が間違えても仕方がない」

「では人違いで襲われたと?」

「おそらくな。そして生霊は間違いに気づき、怒り狂って小屋を荒らした」

 あまりの理不尽に流石にあの夫婦が憐れに思えた。

「次に生霊が現れるとしたら修法を終えた僧たちが帰る頃合いだ。彼らもいつまでも居るわけにはいかないからな」

 山城の盆地にいつの間にか夕刻が迫っていた。

 徐々に昏さを増す西洞院大路を宝珠丸が飛ぶように走り抜ける。

 引き離されまいと和斗子も袈裟の裾をからげて追う。形振りに構ってなどいられなかった。

 辿り着いた屋敷の門扉は閉まっていた。ただ閉じられているだけでなく閂が噛まされびくともしない。

「裏口へ」

 和斗子が踵を返そうとした時中から悲鳴があがった。

「そんな暇はない」

 宝珠丸は舌打ちすると懐から布を取りだした。薄く透ける紗の端切れ。

「オン・ギャロダヤ・ソワカ」

 真言を唱えると風もないのに布が翼のように打ち広がり腕に巻きついた。

 黄昏の薄暗がりのなかで領布は淡い輝きを放ち、宝珠丸のほっそりとした姿を浮き立たせる。

 天女の羽衣とはこんな風ではないか。

 和斗子が見蕩れていると地を蹴った宝珠丸がふわりと宙に舞い上がり、軽々と塀を超えてしまった。

「あーっ! 狡い宝珠丸様! あたしはどうしたらいいんです!?」

 路傍に取り残された和斗子は地団駄を踏んだ。

 屋敷からは立て続けに女の悲鳴が聞こえ、男の怒号や叫び声がそれに混じる。

 隣家に火事や強盗が入った時のような騒然たる雰囲気に和斗子の足は竦んだ。

 だがそれよりも宝珠丸の身が気がかりだ。

 己を奮い立たせ、急いで裏門に回った。

 北の対にまで騒ぎは波及しており、下人たちが右往左往していた。尼僧一人が勝手に入り込んだところで誰も咎めはしないだろう。

 幾人かの使用人が母屋からまろび出るようにして逃げてくる。彼らに逆走し、階を土足で駆け上がると、果たしてそこに宝珠丸はいた。





 母屋のなかは大風が吹き回ったような荒れようだった。

 半蔀は外れ几帳は倒れ、切り刻まれた御簾の残骸が垂れ下がっていた。床に飛び散った大殿油がちろちろと燃え、宵闇に陰惨な彩りを添えた。

 光る領布を纏った宝珠丸はその背に誰かを匿い立ちはだかっている。

 和斗子の目にそれは初め黒い霧のように映った。湿った粗朶に火をつけた時燻る煙によく似ていた。

 目を凝らすうちに昏い虚が目鼻、波打つ靄が髪の毛だとわかり息を飲んだ。

――生霊!

「和斗尊、どこかに潜んでおれ! 今はこやつらを守るので手一杯だ」

 宝珠丸の小さな背に隠れていたのは嬰児を抱いた中年の女だった。いずれかの上臈女房であろう上等の小袿を纏っているが、恐怖に泣き濡れた顔は白粉が剥げて見るも無惨だ。

 和斗子の目を引いたのはその腕に抱かれた赤ん坊だった。この騒動もどこ吹く風とあどけない寝顔を晒している。

――則長。

 怨めしい怨めしい……

 和斗子の耳に地を這うような女の声が聞こえた。

……何故吾が子は亡くなったのに、おまえの子は生きておる……

 咽び泣くような声。

……同じ背の君に愛され、同じように子を孕んだのに、どうして……

 生霊が髪を振り乱すたび黒い瘴気が部屋に満ちていく。濃厚な血の匂いに鼻が捥げそうだ。

「許しておくれ……そなたがそこまで悲しんでいるとは知らなかったのじゃ」

 中年女が震えながら懇願する。

「おまえの悲しみはわかるが、赤子に罪はない。諦めて立ち去れい」

 宝珠丸が説得を試みるも生霊の逆鱗に触れただけだった。

 黙れ小童!

 漆黒の腕が襲いかかる。

「わかってはいたがやはり無駄か」

 舌打ちした宝珠丸は懐より数珠を取り出し中空で振った。

 火花が散り透明な水晶珠が魔手を弾いた。

 かっと開かれた女の口には牙が覗く。次々と疾風の如く繰り出される両腕も力士のそれのように筋骨隆々とし五指には鉤爪が生え揃っている。

「そなた、このまま生きては人を喰う鬼となり、死して祟りなす怨霊と成り果てるつもりか?」

 馬耳東風とわかっていても宝珠丸は語りかける。

 数珠は見えない盾のごとく鉤爪を跳ね返すが、攻撃には向かないようで防御一辺倒だ。

 和斗子は生霊の問わず語りに衝撃を受けていた。

 このモノは子を喪った母なのだ。

 その悲しみと絶望が和斗子には手に取るようにわかった。

 さぞ悔しかろう、憎かろう……

 いつの間にか和斗子は静かに泣いていた。

「いかん和斗尊! 生き霊に共鳴するな!」

 宝珠丸の鋭い声が遠く聞こえる。

「母様、母様どこ?」

 ふいに破れた御簾の陰から汗衫姿の少女が現れた。

 生霊がゆっくり頭を巡らす。

 虚ろな眼窩が新たな標的を見定める。

「大姫逃げて!」

「やめてぇ!!」

 母親が叫ぶのと和斗子が少女に飛びつくのは同時だった。

 黒霧の腕が和斗子に掴みかかる。

「和斗尊っ」

 野分のような衝撃を背中に受けた。少女を腕の中に庇いながら和斗子は必死に叫んだ。

「お願い殺さないで。子どもが死ぬところなんてもう二度と見たくない!!」

 頭巾が吹き飛び、髪を振り乱して和斗子は泣き叫んでいた。

「お願いよ」

「……和斗、」

 和斗子の泣き声につられたのか、それまで眠っていた赤子が目を覚まし、火のついたように泣きだした。

 化生の動きが鈍った。標的をひとつに絞れず逡巡するように頭を振る。

 すかさず宝珠丸が羂索を投げると縄はひとりでに宙で八方に弾け、生霊の体に巻きついた。

「ノウモラチノウチラヤ・ダモガリチエイ・マカヤキャシテイ・アボキャエイ……」

 凛とした真言が辺りに響きわたる。

「……ジャダカリニエイ・ハンサホチラ・シャタハリバエイヒリカラエイ…… 」

 真言の一言一言が紡がれるたびに塵が払われるように空気が澄んでくる。

 羂索に捕らわれた生霊は最初苦しげに身を捩っていたがその抵抗は長くは続かなかった。

 と同時に黒い霧のように拡がっていた姿が縮み、天井を突かんばかりの背丈が上長押の高さになり、屏風の高さになり、やがては人の身の丈に凝った。

 宝珠丸が縛めを解くとその者は床に頽れた。

 倒れ伏したのは存外小柄な女だった。まだ若そうだが産後の心労からか面窶れしており、目元は濃い隈で縁どられている。

「……終わった」

 宝珠丸は羂索を束ね、輝く領布を小さな端切れに戻すと共に懐に仕舞った。

 茫然自失の和斗子は女児を抱いたまま泣き続けていた。

 宝珠丸は唇を引き結び、そっと肩に手を触れた。

「和斗尊、終わったよ。その娘はもう放しておやり。おまえが強く抱き竦めるから苦しがってるじゃないか」

 我に返った和斗子の腕を振りほどき、少女は母へ駆け寄った。

 泣きじゃくる我が子二人を抱きかかえ女もまた泣いていた。

「大姫よくぞ無事で」

 その光景に安堵するとともに一抹の寂しさが和斗子の胸に残された。





「この女房は殿の召人でございました。わたくしの元に通う内に見初めたようで……同じ頃に懐妊したのは正直複雑な気分でしたわ」

 屋敷の女主人は困憊した声で語り出した。

 荒れ果てた母屋の比較的被害の少ない場所に几帳を立て回し、宝珠丸と和斗子は生霊だった女を挟んで女主人に事情を訊いていた。

 臥した女はいっこうに目を覚まさず寝息も立てないので和斗子は死んだと思ったが宝珠丸いわく「生きてる」との事だった。

「魂魄を消耗したのとわたしのかけた軽い術で眠っている。七日待てば起きるだろう」

「身分の低い娘でしたから、殿もあまり顧みず捨て置かれ、だからわたくしも大して気にとめていませんでしたの」

 召人とは男主人の愛人を兼ねた女房のことだ。身の回りの世話をし寝所にも侍る。目の前の上臈女房も正妻ではなくあくまで妻の一人に過ぎないのだが、召人はその数にすら入らない。

「産み月になり里下がりを申し出てきたので暇を出しました。しばらくして赤子は産後の肥立ちが悪く儚くなったと知りました。気の毒には思いましたが、今度はわたくしが産み月になりお産の支度などにかまけ、それどころではなくなりました。

 人の手配などしていましたら、ふと彼女のことが思い浮かび、乳母として仕えないかと打診しましたの。すぐに返事がきたので彼女のほうでも気持ちに蹴りがついたのだとばかり……」

 目頭を袖で拭う。

「まさかこんなに怨まれているなんて……」

「それは違う。この女も最初はそのつもりでいたのであろうよ」

 宝珠丸がきっぱりと言った。

「おそらく赤ん坊の世話を焼く内に心に鬼を飼ってしまった。赤ん坊に乳を与える時、寝かしつける時、襁褓を取り替える時、はたまた産養の贈り物や文を取り次ぐ時、ふと考えてしまうのです。祝福されたこの子と喪った我が子の何が違ったのだろう、と」

 宝珠丸は静かに続ける。

「もしかしたら、今添い寝をしているこの子と我が子の立場は逆だったかもしれない。何故自分の子だったのだろう? 何故自分だったのだろう?

……考えれば考えるほど澱のようなものが心に積もる。いつしか凝った闇に心を支配され、ついには」

「生霊になったと……?」

 和斗子があとを引き取り、宝珠丸がそれを無言で肯定する。

「奥方、今少し訊ねたい」

「なんでしょう? わたくしにお答えできることはあまりないと思いますが」

「粟田殿の口利きでこちらに手伝いにきた下女をご存知ありませんか?」

「さて……このところ人の出入りが多うございましたから……」

「ご自分の香を焚き染めた絹か料紙と産着の切れ端をお与えになった者に心当たりは?」

 質問を変えると思い出したようで「ああ、確かに褒美として与えました。何度も粟田殿への文使いを頼んだので。その者がどうかしましたか?」

「いいえお気になさらず」

 宝珠丸は懐から片方の掌に収まるほどの小振りの香炉を取り出した。

「この香を尽きるまで枕辺で焚くのです。目醒めたら生霊の間の出来事は夢だと思うでしょう。その後また乳母として雇い続けるか暇を出すかは、あなたの裁量にお任せしましょう」





 火桶の炭火に冷えた両手を翳し、ようやく和斗子は人心地ついた。

 昼間初めて訪れた時は気後ればかり感じた二条の豪邸も夜に戻ると不思議と古巣のように懐かしく思われた。

 宝珠丸も華奢な手をひらひらと炙って寛いだ様子だ。

 白い肌と水干が火色に照り映え、浮かびあがる。暗がりよりも濃い闇色の瞳が光を宿して煌めいた。

「和斗尊が生霊に共鳴した時はどうしようかと思ったよ。けどおまえは生霊に同情しながら子どもの方を庇った。おまえの本質は強いのだな」

 和斗子はゆるゆる首を振った。

「無我夢中でした。それに、わたくしは強うございません。十年前に負うた傷が未だに癒えない弱き女にございます」

 震える唇が更に言葉を紡ぐ。

「何故わたくしが関白家への出仕をためらうのか、お話ししていませんでしたね」

 和斗子の父方は代々歌詠みの家系だ。官位にはあまり恵まれなかったものの父も曽祖父も歌人として名高く、何首も勅撰集に選ばれてきた。

「わたくしも幼い頃より詩歌の手ほどきを受け、それなりに歌も詠んでおりました」

 出来不出来はさておき、和斗子が歌を詠むと父はいつも喜んでくれた。

 歌人の家とはいえ年の離れた姉兄たちに家業を受け継ぐつもりはなく、末子の和斗子だけが父の期待に応えた。

「けれども今のわたくしには歌が詠めないのです。歌の心がわからない。いくら身のうちから湧き上がる想いであっても、言葉で飾り立てた途端、空言になってしまうではありませんか。いくら歌を詠んでも」

 言葉を詰まらせた。

「あの子はもう生き返らない……」

 零れた涙が頬を伝い頤で珠を結ぶ。

「歌はあたしを救ってくれなかった……だからもう歌は作るまいと思った」

 歌を詠めない歌詠みの娘。そんな者に価値はないと和斗子自身が痛感していた。

 気づくと震える手を宝珠丸が包み込んでいた。火明りに桜の爪がつやつやと輝く。

「わかった。ならばおまえは詠わずともよい」

 泣き濡れた目をあげると慈愛を湛えた眼差しがそこにあった。

「だが書きなさい。歌に託せぬその想いを。三十一文字に収まりきらぬ思いの丈を。 さすればおまえの綴る文章に救われる者があるかもしれない」

 細い指に力が込められる。

「わたしに仕えてくれるね?」

 それは問いかけではなく命令だった。

 和斗子は他に仕草を知らないかのようにゆっくりと頷いた。





 清冽な朝日の光を受け、掌でそれはきらきらと光った。和斗子が知る中でもっともそれに近い物は柘榴の実であったが、目の前の紅の粒には種子が無い。

 今日の宝珠丸は単袴に紅の薄様の五つ衣を羽織って豊かな垂髪を背中に流している。その姿はまったく可憐な深窓の姫君にしか見えないのだが、口を開くと宝珠丸のままだった。

「それは?」

「生霊の核のようなものだよ。わたしは魄と呼んでいる」

 白いたなごころで弄ばれる緋色の珠はとてもそんな物騒な物とは思えない。

 そういえば倒れ伏した女の傍らから宝珠丸が何かを拾いあげる仕草を見たがあれがそうだったのかと和斗子は見当をつけた。

「物怪絡みの事件でわたしの受けとる唯一の報酬といったところさ」

「何故、摂関家の姫君であられる上様が験者のような真似事を……?」

 長らく疑問に思っていたことをようやく口にした。

「陰陽師か僧侶の役目ではありませんか」

「わかってないなぁ和斗子は」

 宝珠丸は大袈裟に肩を竦めた。

「その陰陽師や僧侶の手に負えない怪異……正しくは手を出したくない怪異がわたしの元には持ち込まれてくるんだよ。今回のように依頼人が貧しい庶民だった場合、充分な報酬が見込めないと彼らは動かない。呪術の対価で生計を立ててるんだからな。その点わたしなら、貴族の遊興ということで無償で動く。わたしは本朝唯一の諮問陰陽師なんだよ」

「昨日使われたのは祝詞ではなく真言でしたが」

「場合によっては何でも使うさ。九字も切れば護摩も焚く。流石は博識で鳴らした才女。あれは訶梨帝母の真言だよ」

 訶梨帝母――別名鬼子母神――は人間の赤子を攫っては喰う恐ろしい夜叉だったが、仏教に帰依してから出産と育児の守護神に転じた女神だ。

 訶梨帝母が転身したきっかけもまた子どもとの別離にあった。

「……あの召人の娘も亡くなった赤ん坊も前世でいったいどんな悪事を働いたら、こんな惨い目に遭うのでしょう。巻き込まれた下人夫婦も。いくら前世の業を現世で贖うといっても、これではあんまりです」

「おや、和斗子は輪廻転生を信じるの?」

 宝珠丸は面白がるような口ぶりだ。

「勿論です。だって現世での理不尽全部は背負いきれませんもの。前世でのしくじりの結果とでも思わないとやってられません。ですから、わたくしが赤毛の不美人に生まれたのも前世のわたくしが悪いのであって、今のわたくしは悪うございません!」

 堂々と胸を張る和斗子に宝珠丸は一拍おいて弾けるように笑いだした。笑わせた和斗子が呆気にとられるほど高らかに朗らかに。

「いいよ和斗子、おまえのそういう悪びれないところ」

 笑い収めると宝珠丸は言った。

「流石わたしの見込んだ元輔の娘だ。清原和斗子、これからもくれぐれもわたしの側で事件の仔細を見聞きしておくれ」

 庭の梅の木で鶯が長閑に鳴いた。

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