第14話 先輩との日々④





夏の海は混むと思われたが、彼女が見つけた小屋の周辺はそれはそれは静かなものだった。


もしかしたら、僕が知らないだけで立ち入り禁止の区域なのかもしれないが……まあ、知ったこっちゃない。


「はぁ…」


暑く滾った砂を踏みしめる。燦々と煌めく夏の太陽を睨みながら僕は小屋へと向かっていた。



期末テストが終わり、夏休みが始まった。だが年中夏休みのようなものである僕も先輩も生活スタイルはあまり変わらない。変わったことといえばこのうざったるい蒸し暑さが増したことぐらいだ。


いやもう一つだけ、僕と先輩は夏休みに入る前よりも多くの時間を共に過ごすようになった。



「先輩怒ってるかもな。」


いつも彼女に会う時間より小一時間ほど遅れてしまっていた。特に待ち合わせはしていないはずだが、もしかしたら彼女は怒っているかもしれない。


僕は小屋の扉を開けた。 


「うわ、暑っ!」


瞬間、蒸し暑い空気が僕の体を包んだ。恐る恐る薄目を開くと春澤先輩はちょこんと椅子に座っていた。


どうやらこの暑いなか窓も扉も開けずじっとしていたらしい。死ぬ気なのかこの人は。


「和季、遅かったじゃない。」


「先輩!何考えてんすか!?死にますよ!」


「あなたが来るまで我慢しようと思ってたの。それで私が死んだらあなたのせいになったのにね。」 


何度も言うが、そもそも待ち合わせはしていない。


ただまあ彼女の機嫌が悪くなってしまった以上悪いのは僕である。後輩である僕は素直に謝るしかない。


「遅れてすいませんでしたって。拗ねないでくださいよ。それに今日遅かったのはこれを持ってくるためですよ。」


「それ…扇風機?」


「ああ、電池式のね。」


「……ここでは機械類はすぐ壊れてしまうわよ?潮風が吹くからね。」


「いいよ、こんな暑いとこで過ごすぐらいなら壊れても扇風機持ってきた方がマシだったんすよ。」


「そう…何だか悪いわね。」


「僕だってこの小屋は気に入ってるからさ。それにしても今度からはちゃんと換気してください。死にますよ?」


「あなたが早く来ればいいのよ。」


「……わかりましたよ。」


この人に注意しようとしたのが間違いだった。彼女は自分の経験でしか物事を見ないのだから誰かの助言を聞き入れるわけもないのだ。


僕はため息をつきながらも二脚しかない椅子のうちの一つに座った。もう一つには彼女が座っている。


「………」


「……何?」


「いえ。」


頬を赤らめ汗を首元につたらす先輩が妙に艶かしい。僕は思わず目を逸らしてしまう。僕は彼女の目を誤魔化そうと背負っていたリュックサックから参考書を取り出す。


「今日も勉強するんでしょ?早く始めましょうよ。」


「あら、私勉強するなんて一言も言っていないわよ。」


「は?」


いつも勉強するわよと口うるさく言ってくる春澤先輩の予想外の言葉を不審に思い彼女を見る。


「え、ちょっと!?」


しかし何を思ったのか彼女は着ていた服のボタンを一つ一つ外し始めた。思わず僕は固まってしまう。


彼女の豊満な胸がゆっくりと解き放たれて…。



「………水着?」



彼女の真っ白なブラウスをかき分けて現れたのは紺色の水着、つまりは……。


「…スクール水着?」


「そうよ。」


「なんでスクール水着なんすか?」


「何って…泳ぐためよ?」


「いや、なんでわざわざスクール水着を…?」


「私に裸で泳げっていうの?和季も男の子ね。」


「じゃなくてっ!なんでスクール水着を選んだんすか?」


「? 泳ぐって言ったらスクール水着しかないでしょ?」


「……………」


この人スク水以外の水着を知らないのか?いや、先輩は世間知らずなところがある。十分あり得る話だ。


春澤先輩は僕の目の前でいそいそとスカートを脱ぐ。そのあまりにも扇情的な姿に僕は慌てて目を逸らした。


「今日は暑いでしょ?だから勉強は中止。和季と遊ぼうと思って水着着てきたの。それなのにあなたが来ないから私寂しかったわ。」


「それは…すいませんね。」


「ふふ、今回ばかりは見逃しましょう。理由があったみたいですしね。」


「どうも。それより、遊ぶったって僕は勉強道具しか持ってきてませんよ?」


「問題ないわ、あなたの分の水着も持ってきてあるの。わざわざ男用の水着を買ったのよ?私恥ずかしかったわ。」


「……まあ、あざます。」


これで泳ぐのは嫌だと言ったら面倒なことになりそうだ。本当は遊ぶ気分でもないのだが、致し方ない。


水着に着替えるために着ていたTシャツの裾を掴みたくし上げたところ、先輩がギョッとした。能面のように表情の変わらない彼女が目に見えて驚いていた。


「ちょ、ちょっと和季!!」


「え、何?」


「な、何しているのよ。着替えるなら外に出なさい。」


「いや、あんただって」


「あなたの水着よ、受け取りなさい。早く外に出て…いや、私が出ているから中で着替えなさい。いいわね。」


「は、はい…。」


そう言ってそそくさと春澤先輩は出て行ってしまった。僕は彼女から受け取った水着を見る。


「………ブーメランパンツかよ。」


彼女は他者の助言を素直に聞かない。だがこれからはなんとしてでも聞いてもらうしかないようだった。


結局僕は彼女の買った水着を履かずに小屋を出た。律儀に外で待っていた先輩がこちらを見る。


「あら和季、水着はどうしたの?」


「サイズが小さかったんすよ。」


「そう…次からは気をつけるわ。」


「頼みますよ。」


毎日のように海に来ていたにも関わらず、海に近づくことはなかった。それこそ、彼女と初めて会った日から今まで一度もだ。


「……へぇ。」


ズボンの裾をたくし上げ海に浸かってみると、思っていたよりも冷たかった。夏の茹るような暑さのなか確かに海水浴は最適であるようだ。


「これは確かに気持ちいいな。」


見下ろすと透明な翠色の海があり、見上げると清純な蒼色の空があった。胸いっぱいに潮の匂いが染み入っていく。


「和季!」


「!」


珍しく弾んだような春澤澄歌の声に引き寄せられ、僕は彼女を見た。そして息を呑んだ。



「冷たくて気持ちいいわね。」



黒色の髪を水に濡らし、紺色の水着を纏った彼女はこちらを見て笑っていた。その黒く美しい瞳と花のような笑顔に

惹かれ、僕は見惚れてしまった。


「……和季?」


「!」


「どうかしたの?」


「いや…そうだな。冷たくて気持ちいい。」


「そう、それはよかったわ。」


僕の返答に彼女は笑って返した。その笑顔は青空によく似合っていて、過ぎゆく夏を僕に感じさせた。






「和季。」


「!」


海水浴からの帰り。潮でごわついた髪を湿らせたまま僕は家のドアノブに手をかけていた。


「随分遅かったんだな。」


僕を呼ぶ声に振り向くと、そこには父が立っていた。


「…父さんの方は随分早かったね。」


「たまたま仕事が早く片付いてな。それよりこんな時間までどこに行ってたんだ?」


「こんな時間って…まだ19時だろ?そんなに遅い時間じゃない。」


「……どこに行っていたのかを聞いたんだが。」


「……………」


噛み締めた唇から血の味がした。街灯の光が逆光になり、父の顔はわからなかった。それでも父からは見えているのだろう。僕の鬼のような形相を。


「あんたには関係ない。」 


僕は家の扉を強く閉め、まっすぐ自室へと向かった。

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