第4話

 翌朝は眩しいほどの快晴だった。真夏の陽射しがカーテンの隙間から部屋に入ろうと、うずうずしているかのように。

 芙美子は眠い目をこすり、布団から這い出すようにして起き上がる。パジャマ姿で階下に下りていくと、キッチンから奈美恵が出てくる。

「もうすぐご飯できるから。」

 昨夜の表情は消え、普段の顔に戻っている。

「昨日は驚かせてごめんね、でも、昨日言ったこと本気なのよ。ちゃんと考えた上でのことなの、それをわかってちょうだい。」

 奈美恵の赤く潤んだ両のまなこに見据えられると、自分が捕らわれかけた小動物にでもなった気がする。

「今から学校に行くから、その話はまた帰ってから聞くわ。悪いけど食欲ないから朝ご飯いらない。」

 落胆している奈美恵に振り向かず、芙美子は大きなあくびをした。とにかく眠くて思考能力がなかった。

 大学は東京の都心にある。所々に畑や田んぼが残っている郊外にある家から電車で乗り継ぎ、学校まで一時間以上かけて通っている。芙美子は共学の二回生で、サークルはシネマ同好会に所属している。

 睡眠不足だけど今日はきちんと授業に出なきゃ、そう思って家を出た。雨で洗い流された地上のもろもろは輝いていた。木々や空につい見とれて足を止めてしまう。ようやく急ぎ足になり、大学に着き講堂に入ると、最前列にいる中川孝雄が大きく手を振っている。芙美子は軽く会釈をし、ひとつ空いていた後部座席に座った。試験が近いせいか席が埋め尽くされている。冷房されているのに室内はむんむんしていた。授業開始の鐘が鳴るとすぐに白髪頭の教授の講義が始まる。メリハリのない単調な話に彼女は何度も睡魔に襲われ、その度に腕時計を見た。

「やっと顔を出したな。」

 正午の鐘が鳴り授業が終わるやいなや、孝雄は芙美子のところにやってきた。彫が深く美貌の孝雄は女子学生に人気がある。半年程前に付き合いだした頃、女たちは嫉妬と羨望のまじった目で芙美子を見た。

 学生らは講堂から出ていき、いつのまにか芙美子と孝雄の二人だけが残されていた。光が窓硝子を乱反射しているのか、きらきらと、室内に揺れる空気は埃の粒子まで露わだ。どこか幻想的な世界にいるようだった。

「何ぼんやりしているんだ、おまえ最近おかしいんじゃないか。」

 無神経な孝雄の声に、たちまち芙美子は現実の世界に引き戻される。どうしようもない不快感がこみ上げてくる。

「私おまえって言われるの嫌なの、干渉されるのももう嫌。」

 今迄言えなかった言葉が芙美子の口から勝手に飛び出す。孝雄はあんぐりと口を開いたまま棒のように突っ立ったまま動かない。

「付き合うのはもう終わりにしたいの。」

 芙美子は立ち上がり、呆然とした面持ちの孝雄を置いて教室をでた。そしてカフェテリアへ向かった。軽い昼食のあとは、午後の授業に出てサークルの部屋にかしを変えた。そこで仲間ととりとめもない雑談にふけった。

 帰り支度をして校舎の外に出ると、西の空に茜色の夕焼けが広がっている。芙美子は駅まで歩き、電車に乗った。ラッシュ時にぶつかり会社員で混雑している。いつものように車両の連結に通じるドアに寄りかかる。目の前に吊り革にぶら下がっている若い男がいる。なぜかその横顔が孝雄の顔とダブって見え芙美子は目を何度もしばたいた。

 孝雄はあれからどうしたのだろうか。胸の奥に痛みが走る。一度は夢中になった相手に、なぜあんな冷たい言葉が言えたのか。芙美子は自分に問いかけた。

 電車がホームに着き、すっかり暗くなった駅前の大通りに出る。生暖かい風がよぎり首筋に汗がにじんでくる。

 たそがれは夜に変わろうとしていた。徒歩で十五分程度の家路を、芙美子はゆっくりと辿った。

 家の玄関は灯りが点されていた。チャイムを鳴らすと、すぐに足音が聞こえ、扉のあいだから奈美恵が笑顔をのぞかせた。奥からシチューのまろやかな匂いが流れてくる。足元には見慣れない男物の運動靴がある。

 奈美恵は芙美子にめくばせをした。

「来てるのよ、頼むから一度会ってちょうだいね。」

 懇願するような物言いに抗えず、芙美子は奈美恵のあとに続いて居間にはいった。昨日の今日で、ろくに心の準備も出来ていないのにと思いながら。

 居間はひんやりと涼しかった。芙美子に気がつくと、男はソファーから立ち上がり深々と頭を下げた。

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