初夏色ブルーノート

岡本紗矢子

第1話

 びゅっと襲いかかって来る風の力を、明子あかねは踏ん張って耐えた。辺りは暗く、アンティーク風の街灯には光が灯っていたが、その周囲に溜まる光までも、風は吹き飛ばしてしまいそうだった。すぐ横の黒い海はうねりにうねり、どっぷんどっぷんと重い音を立てている。雨模様ではないのに強風と一緒に吹きつけられてくる水滴は、巻き上げられた波のしずくなのだろう。唇に当たった一粒は、塩からい海の味がした。

 目を細め、歯を食いしばりながら、明子あかねはウッドデッキ風の散歩道を進む。

 幅の広い散歩道の一方には、洋館風の外観を持つホテルや可愛いカフェ、それに雑貨屋などなどが立ち並ぶ。もう一方は、まっすぐな港の岸壁で切りっぱなしにされた海。普段なら屈指のデートスポットとして、朝から夜までカップルまみれになるベイエリアだ――しかし、この風の中、こんなところをそぞろ歩いているような物好きはもちろんいなかった。

 明子あかね自身、何だって自分ひとりこんな中を歩くはめになっているのかと、割り切れない思いでいっぱいだった。思えば風が強まってきたのは、あいつとふたり、レストランに入ってからだった。皮肉なことに、お天気の変化とそっくり同じ展開に終わった今日のディナー。最初はウキウキ、次第に不穏。やがて大風吹きすさぶ事態になって、今、明子あかねはここにいる。

 華奢なヒールと、風圧に耐えての歩みのせいか、歩いても歩いても駅は近づかない。いつしか、手先が氷のように冷えてきた。今は5月の終わりだ。夜とはいえ夏の入り口であり、薄いワンピース一枚で十分の気温だったはずなのだが、強風というのはずいぶん身体を冷やすものらしい。近道だからと海側の散歩道を歩き続けたことを、明子あかねは後悔した。

 明子あかねは手をこすり合わせ、見るだけでよけいに冷える黒い海から顔をそむける。と、ほとんど自動的に、建物の列の中、あと数十メートル先にあるひとつの店に目が吸い寄せられた。理由は簡単で、そこがとりわけ明るかったからだ。全面ガラス張りの窓を通して、盛夏の日差しに似た店内の光が、外にまで惜しげもなく振りまかれている。

 少しずつ少しずつ近寄っていくうちに、カフェらしいとわかってきた。白っぽい木の壁、壁と同色のテーブルと、深海ブルーの椅子。色合いには落ち着きがあったが、ところどころに置かれた大きな観葉植物にはなんとなくトロピカルな雰囲気が見て取れた。

 つい入り口に歩み寄った明子あかねの頭上でセンサーが反応し、扉が開く。開いてしまってから、風でくしゃくしゃの髪とよれよれのワンピースに一瞬ためらいを覚えたが、明子あかねはもういいやと中に足を踏み入れてしまった。この際、ちょっと休んでいこうと腹をくくる。もしかしたら人目を引くかもしれないが。

「いらっしゃいませ」

 迎えてくれた店員の声は明るかった。風が来ない、ただそれだけでも心地よかったのだが、なんとなく受け入れられたような気がして、明子あかねはほっと息をついた。奥の方まで見渡しても、店内に他の客はいない。明子あかねは窓際のソファ席に腰を下ろし、とりあえずホットコーヒーを注文した。

 店内にはけだるいジャズが、小さな音でかかっている。サーフボードを思わせる壁飾りや、碇やうきわ、ハンモックに人魚と南国的なモチーフをふんだんにちりばめた店内装飾は、実際の季節である初夏よりも、真夏の昼下がりをイメージさせた。外からも見えていた観葉植物の足元には、「アレカヤシ」という札が刺してあった。

 雰囲気につられて、風の寒さに固まっていた身体から力が抜け、とげとげしていた心もほぐれていくような気がする。明子あかねはゆっくりと息を吐きながら、ソファの背もたれに身体を預けた――が、店内BGMの曲がひとつ終わって、次の曲に始まったとき、明子あかねはふたたび顔をこわばらせていた。

「あの」

 ちょうどコーヒーを運んできた店員を、明子あかねは見上げる。

「すみません。曲を変え――」

 明子のどこか険しい声に、店員は困惑をにじませた。明子あかねははっとして「いえ、やっぱりいいです」と首を振る。店員はひとつ頭を下げて、戻っていった。

 明子あかねはコーヒーカップに描かれた鮮やかなハイビスカスを見つめた。よりによって、ついさっきレストランを飛び出してくる原因を作った曲に、ここで追いつかれるとは思わなかった。


 流れている曲は、ピアノジャズにアレンジされたショパンのエチュード、Op.10-3。

 通称・別れの曲。


**


「今日はありがとう。『トモ』がこんなキラッキラのデートスポットに誘ってくれるなんてすごく珍しいから、びっくりした」

 ほんの2時間前の明子あかねは、朗らかな笑顔を浮かべ、レストランで智昭と向き合っていた。

「たまには小洒落たデートくらい……ね。ちょっと頑張ってみた」

 少しずつ目立ち始める船の明かりを見やりながら、智昭がほんの少し胸を張った。

 窓からは、ほぼ沈みきった夕日が残した最後の明かりと、みるみる夜色を濃くしていく海が見渡せる。ベイエリア屈指の人気レストラン。オーシャンビューの個室。智昭にしてはやりすぎなくらいの気合いの入った選択に、明子あかねは感激するよりつい笑ってしまう。

「お店の予約をしたのすら初めてだよね。普段なら、デート帰りでも居酒屋か回転寿司か餃子のナントカだもん」

「いやそれは『アカネ』、いつもはデートったって山歩きだからだろ。格好も汚れているし、疲れているし、だから手近なとこになるわけで……」

「まあそうだけど。でもやっぱり、ほんっっとーに珍しい!」

「あんまり珍しい珍しい言うなよ……」

「今日って、何かの記念日だっけ? それとも何か頼みごとでもあるの?」

 明子あかねが頬杖をついていたずらっぽい顔を向けると、智昭はふいと明後日の方に目をそらし、「まあ、それはとりあえず、食べてから」とかなんとか、もごもご言った。

 『アカネ』と『トモ』。本名そのもの、もしくは近い呼び名であるが、これはそれぞれSNS上で使用していた名前が、そのままお互いの呼び名として定着したものだった。軽いアウトドアの趣味があった明子あかねは、キャンプやハイキングについてちょくちょく呟いており、そうした中で嗜好が似ている智昭とつながることになったのだ。ネットで始まった交流は、やがてリアルでのつながりになり、すんなりと付き合いに発展した。

 智昭はどこか頼りないひょろりとした体躯のくせして、明子あかねなど及びもつかない本格的な山男だった。山の知識や技術はとにかく深く、その手の話題と、なぜか音楽系のウンチクに関してだけは饒舌だったが、世間の常識や流行や、気取った場所に関してはてんで疎かった。

 いつも居酒屋や回転寿司や餃子のナントカでのディナーになるのは、疲れがどうのこうのではなく、本当は他の店に入り慣れていないからだということを、明子あかねは知っている。もっとも、人によってはダサい、つまらないと評するその飾りけのなさが、明子あかねはむしろ好きだったのだが――。

「何だか、ずっと楽しそうな顔してるね」

 デザートの皿が下げられ、最後にコーヒーが出てきたあたりで、智昭が言った。明子あかねは肩をすくめた。それは確かにそうだ。今日のようにまあまあ無難な服を着て、意識して「一般的なデート」を演出しようとしている彼は新鮮だったから。

「そんな顔だった? ちょっと嬉しいだけだよ」

「ふーん。このあともっと、嬉しい顔してくれるといいんだけどな」

「え?」

「あのさ、アカネ……これ。受け取ってくれる?」

 智昭がごそごそとテーブルの下を探るようなしぐさをし、それから手を前につきだしてきた。

 明子あかねは、思わず口元に手を当てた。

 差し出されたのは、ジュエリーケース。貝のように開いたその中に光っているのは、指輪だった。

「これは……これはなに?」

「指輪……」

「じゃなくて、あの、この意味は……」

「あ。そうか。ちゃんと言わなくちゃ」

 智昭は照れ隠しのように、がしがしと頭をかく。

 もちろん明子あかねには、意味はあらかた分かっていた。だけど、ちゃんと言ってほしかった。思っていることが本当で、これが現実なのだということを、ちゃんと確かめたかった。

 自然にほおが紅潮する。本当に空に舞い上がってしまいそうなふわふわ感。うるみそうな瞳を大きく見開いて、明子あかねは次の言葉を待つ。

「あの――」

 智昭が、大きく息を吸う。そして、指輪を掲げて、深く頭を下げた。

。僕と結婚してください」


 その瞬間、どういうわけだかこれまでかかっていたBGMがフェードアウトして、ゆるやかなピアノの音が室内に響き始めた。

 間違っていなければ、それはショパンの「別れの曲」だった。

 外で次第に強まっていた風が、オーシャンビューの窓を強く揺らすようになったのも、ちょうどその頃からだった。

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