【夜行少女】と【待雪草】


 パァンッと甲高い打撲音と共に、母が雷鳴のような金切り声を上げる。



「どうして勝手に、何日も学校を休んだりしたのっ!!」



 それは、テスト最終日の十一日から一週間経った十二月十八日火曜日の、夕時のことだった。日はすっかり沈みきっており、空は冷たい藍色を映し出していた。



「痛いよ、母さん……暴力は、しちゃダメなことだって、僕に言ったよね?」



 母の平手打ちで張り倒された僕は、すもも色に腫れ上がった頬を抑え、じろりと睨み上げる。



「生意気な口叩くんじゃないの! あんたが馬鹿なことをしてるから、それを叱ってやってるのに、暴力なんて言い草……そんな子に育てた覚えはないわ!!」



 理由ある暴力は正しいとでも言うのだろうか。息子の言い分を聞こうともせず、一方的に叱りつけて、力任せに打つことが躾だとでも? 仮にも、子どもを育てている教育者の発言ではない。



「母さんは、僕がどうして学校に行かなかったか聞かないの?」


「どうせズル休みでしょ。あんたは昔から、親に隠れて勝手なことをする子だったもの」



 一方的な決め付けと子への否定的な確信。僕はいつから、親に見放されていたのかな。



「そんなんじゃないよ」


「じゃあ、何だって言うの!?」



 貧乏揺すりをして急かすような態度に、「あぁ、この人は僕の話なんか聞く気がないのだ」と気付かされて、打ち明ける気持ちさえ失せてしまう。



「……母さんには言いたくない」



 気に障る態度だったはずなのに、母はふんと鼻で笑う。



「知ってるのよ、あんたが学校をサボってた理由。あんた、クラスメートのことで警察に事情聴取を受けたそうね。しかも、その子はいじめを受けてた――あんたが追い詰めたんじゃないの?」


「っ……!? 母さん、何言って……?」



 母親としてあるまじき発言に、僕は唖然とする他なかった。



「そうとしか考えられないもの。警察に事情聴取までされて、罪悪感が生まれたけど、みんなに後ろ指さされたくないから、そうやって家でこそこそしてるんでしょ」



 母は我ながら名推理、とばかりに得意げな顔を浮かべていた。


 いくらタイミングがいいからって、自分の息子を疑うだろうか。それも正面切って。つくづくこの人には落胆させられる。



「違うよ母さん。僕はそんな理由で、学校を休んでるわけじゃないよ」


「だったら何よ、さっさと言いなさい」



 無実というには無責任にしても、いじめの罪まで着せられるのは我慢ならない。僕は、伝わらないと分かっていて、事実を告げることにした。



「あのね母さん。僕、学校で、クラスのみんなに……いじめ、られてるんだよ」



 自分がいじめられていると認めることは酷く痛ましい。それを誰かに伝えるのはもっとだ。



「それが何だって言うの?」 


「え……っ?」



 喉の奥に栓をされたみたいだ。噎せたせいで、咳き込まなければ息が吸えない感覚に陥った。

 かはっかはっと噎せ返る僕を前にしても、母は捲し立て続ける。



「『いじめられたから学校を休みました』なんて言い訳が通ると思ってるの? たとえ、いじめられていたとしても、学校を休んでついた欠席の数字は覆らないのよ? いい大学に入りたいなら、推薦にしても一般にしても欠席日数は三年間で十日以内に収めなくちゃいけないの、分かる?」



 僕は一度だって、いい大学に入りたいなんて言ったことはない。そんなのは、母のエゴだ。



「あんたはね、その貴重な半分も休んでしまったのよ!? 今日はもう仕方ないから、明日から学校に行きなさい。いいわね??」



 母は僕の意見なんて、初めから聞いちゃいない。母は僕を言うことを聞かせるためだけの奴隷程度にしか思っていないのだ。だとしても僕は……、



「嫌、だよ……っ! 本当に辛いんだよ。クラスメートたちの僕を見る目や空気に押し潰されて、なくなっちゃいそうなんだ」


「ぐだぐだ言わない! もし、学校に行かなかったら、あんたの食事はないから」



 捨て台詞を吐いた母は脇目も振らず、リビングへと続く戸を押し開けて、僕と隔絶した。

 力なく座り込んだ視線の先、見上げたところで光もなし。あの頃のように泣きじゃくって、母を呼び求めることも、もうない。



  ****




 ――翌、十九日。所詮、僕はただの餓鬼だった。義務教育を終えた身と言っても、どうせ僕は自分で自分の面倒も見れない未成年なのだ。親に刃向かえば生きていけない。それが答え。


 玄関のドアノブに手を掛ける。

 カチャリ、



「……母さん父さん、行ってきます」



 エコーのようには返ってこない返事が無味乾燥。今さらだけどさ。


 玄関扉を開けて差し込んだ朝日は希望でもなんでもなかった。



 あー嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ!!!!


 行きたくない、逝きたくない、生きたくない、いきたくない。



 頭の中では、呪文めいた何かが連なって、負の思念がとぐろ巻いていた。


 コツ、コツ、コツ。

 規則的な足音が僕の背後に続く。不思議なのは、それがポップなリズムを刻んでいるようにも聞こえたことだ。まあ何にせよ、僕には関係ない。



「ねぇ、……さん、」



 そう、僕は母の言うことを聞くだけの機械人形。



「お・に・い・さんっ、てばー!」



 不意に、胸元に誰かの両腕がぶら下がり、絶叫した。



「いやぁああああああああああああああ!!!」



 反射的な叫声は相当五月蝿いらしく、すぐにその腕も引っ込んだ。一旦は落ち着いたと言えど、元凶が去ったわけではない。



「いやぁ、なかなかいい叫び声じゃないですか」



 恐る恐る振り返ってみると、そこには……、



「はろー、おにいさん。いや、はじめまして、かな? まあどっちでもいっか」



 茶目っ気たっぷりなトーンとは裏腹に、中二病でも患っていそうな容姿をした少年がいた。


 目深に被ったミッドナイトブルーのフード付きパーカーから垣間見える顔立ちはやや幼く、中学生くらいなのに対し、目の下の青隈が一際目立っていた。だぼっとした服の上からの目測でも、病的な細さが窺える。


 ちゃんと飯食べてるのか、こいつ……?



「あ、不健康そうだなこいつって思ったでしょ? そうだよ、俺、昼と夜となく活動してるからさー、万年睡眠不足なんですよ。いやぁ、健康は一番の財産だって聞いたことあるけど、今まさにそれを体感してますよー」



 不気味なくらい笑顔で喋り続ける謎の少年。僕の考えも見抜いて話を続けたようだったが、それよりも何よりも、



「いや、君誰?」


「……………………あっはっはっはー!! そうだね、そうだよね。まず自己紹介からだよね。うん、すっかり忘れてたよ」



 盛大な独り言の末、彼はふんと胸を張って、僕の正面を向いた。



「えー、俺の名前はー【待雪草】っていいます。気軽に、待雪とか草とか呼んでくださいね」


「……僕は、藤原野朝」


「あはは、教えてくれるんですね。しかも氏名で。ご丁寧にどーも」



 突然背後からのし掛かってきた奴なのに、こうも一瞬で会話できてしまうのは、彼の持つコミュニケーション能力の為せる技なのだろうか? 僕には到底真似できない。



「……で。待雪は僕に何の用?」


「そういや、朝さんってば制服着てますね。ありゃ、今登校中だったか。これは申し訳ないことしたなー」


 会話のボールが相手のところでバウンドしてしまっている。これはキリがないと見切りを付け、踵を返そうとすると、彼は引き留めるように言葉を連ねた。



「すみません、手短に話しますから待ってください。

 あの、朝さん。【夜行少女】をご存知ないですか?」 



 ふと脳裏にあの子が思い浮かんだ。



「いえね、俺ちょっとその子に用があって、会いたいんですけど……知らないですか?」



 子どものように僕の顔を覗き込む無垢な瞳の奥に、何かが映る。その陰に、蟲毒のように忌まわしい何かが棲んでいる……そんな気がしてならなかった。



「ごめん、僕は知らないな」


「そうですか……残念だなあ。ではまた今度」



 彼はさっと身を翻すと、瞬く間に姿を消した。一体彼は何者だったのだろうか?




 その後。現実に引き戻されて無理に足を引き摺っていった学校は、地獄以外の何物でもなくて、僕は大鍋で煮溶かされるのにじっと耐えていた。


 誰が悪いとか、何が正しいとかそんなのは関係ない。何を言い繕ったって、力を持った者が優遇される世の中なんだって、諦めを付けることしかできなかった。


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