第18話

 一人で部署に戻った亜生は、峯島に蘇堂の件の報告を促される。

 架は帰社していない。亜生はその場しのぎでそれとなく話を並べて乗り切るも、表情は引きつっていた。


 自分の席に腰を下ろすと、亜生は自然と頭が下がっていく。

 情けなくて、溜め息が漏れた。助けにきてくれた架に対して「一人にしてほしい」だなんて、どの口が言ったのか……。


「なんて顔してんだよ」

 聞こえた声に、亜生は頭を上げる。

 亜生の椅子の背もたれに手を掛けて、恵が苦笑いしていた。

 彼に蘇堂の常務室での出来事を説明してもよいものかと、亜生は言葉に詰まって苦笑いで返す。

 恵は息を一つ吐くと、亜生の頭を軽く撫でた。

「帰ろうか。……っていっても、これから、みんなで会うけどな」

 恵は亜生の鞄を持つと、部署を出ようとしている。亜生の腕時計は、終業時刻を二分過ぎたところを指す。

 架にもらったばかりのものなのに、無意識にも手に馴染んでいた。


 恵の元に行こうと、亜生は席を立った。

 その時、架が部署に入ってくる。

 亜生は思わず瞬きが増える。

 何をどうすれば、何をどう言えばよいのか、亜生は再び言葉に詰まった。

 すると、架は出入り口にいる恵と何か話している。

 二言、三言だろうか。架は恵と話し終えると、峯島の席へ直行。彼は峯島とともに簡易応接室に入っていく。


「亜生、帰るよ」

 恵に呼ばれて、亜生は椅子を元に戻す。

「……恵。俺、新條さんと部長と話してきてもいい?」

 おそらく架が峯島と話をする内容は、蘇堂のこと。当事者の自分が我先われさきに帰るだなんて、あってはいけない。

 亜生の席に、恵が戻ってきた。

「行くぞ、亜生。みんな待ってるから」

 恵は亜生の腕を掴む。

「でも、恵。俺、今日……」

 亜生が言い淀むと、恵はなぜか微笑んだ。

「大丈夫、分かってる」

 亜生は思わず涙が込み上げそうになる。恵の優しさに甘えて、何も言葉が出てこない自分がもどかしい。

 亜生の返答を待たずに、恵は亜生の腕を引いて部署を出る。

「今日は、特別な日なんだから。帰るよ」

 恵は再び微笑んだ。


 * * *


 陽が残る黄色がかった空。生暖なまあたたかい風が、緑葉りょくようの並木道を静かに通り抜ける。

 昨年の今日は梅雨前線の影響だったのか、終日酷い雨だった。

 穏やかな夕刻に、亜生は肩の力が自然と抜けて、思わず欠伸あくびが出た。

 隣を歩く恵が、小さく笑った。

 亜生は照れながら笑い返す。

 正直言って、呑気のんきに欠伸なんかして笑っている場合ではないけれど、親友の恵といると心が緩む。

 それでも不意に頭の中で、架と峯島が応接室に入っていく場面が浮かんで、亜生は溜め息が漏れるのをこらえる。


 目抜めぬき通りを横断した先、駅とは反対の道を行く。

 居酒屋やホテルなど立ち並ぶなか、小さな横断歩道を渡った。


 左手に、きらびやかであわく品のある間接照明に包まれた建物があった。

 白い暖簾のれんが掛かっていて、その横には石に店名がられている。

 恵が入り口に続く薄い石段を上る。

「ここだよ。入ろう、亜生」

 亜生は思わず唾を呑んだ。

 入る前から高級感が漂っている。

 恵が暖簾をくぐったので、亜生は慌てて彼のあとを追った。


「いらっしゃいませ」

 店に入って早々、女将おかみだろうか、着物姿の女性が、にこやかだけれどひかえめな挨拶で出迎える。

「予約してる幡川です。みんな来てますか?」

「はい、いらしております。こちらへどうぞ」

 案内されるまま、付いていく。


 カウンターの傍を通る。床は石張りで、小上がりとふすまが続いている。


「こちらです。失礼いたします」

 声と同時に、襖が静かに開けられる。

「恵、亜生。待ってたぞ」

 中から聞こえたのは、櫂の声。

 恵は亜生の背中に手を置いて、靴を脱ぐように促す。

 部屋は四角い畳が敷かれた個室になっていて、席は明るい木目の長方形のテーブルと分厚いクッションの椅子。櫂と昭良そして美里がいた。

 亜生は皆の心意気と店の様子に腰が引けて、言葉が零れる。

「なんか……、ごめんね」

 途端に、皆が笑う。

「何言ってんの。座るよ」

 頬を緩める恵が、再び亜生の背中を押した。


「それでは皆さん、ご一緒に。『亜生、誕生日おめでとう!』」

 恵の仕切りに、櫂、昭良、美里が声を合わせる。

 二十八歳の誕生日。亜生は一年前とは全くことなる気持ちで過ごしている。

 昨年の今頃は目の前が真っ暗で、とても誕生日だなんて実感はなかった。

 今日の今この瞬間、同じ空間で、皆でテーブルを囲んでいる現実に心は和む。見慣れた顔が揃って、笑いは絶えない。

 自分の生まれた日を祝ってもらえることは、こんなにも心が温かくなるものなのだなと改めて思い知る。


 亜生が恵と階に挟まれて座っていると、「失礼します」と声がして、襖が開いた。

 一メートルはあるだろうか、焼き物の細長い皿がテーブルの上に置かれる。

 皿の上には握り寿司が綺麗に並んでいて、皆で思わず感嘆かんたんの声を漏らす。

 襖が閉まると同時に、どこからともなく笑いが起きた。

「すごくない? ねぇ、すごくない?」

 櫂が口火を切る。

「写真撮ってもいい?」

 恵が自身のスーツの内ポケットを探る。

「落ち着いて」

 昭良と美里が声を揃えた。

 亜生は彼らの様子に、自然と口元が緩む。


 度々「失礼します」と店員が襖を開けて、料理や飲み物が次々と運ばれてくる。


 皆で他愛もない話をしながら食していると、やがてテーブルに大きな白い角皿が置かれた。

『Happy Birthday』の文字とともに、飾り切りが施されたフルーツやスイーツが盛りつけられている。


 恵が再び、場を仕切る。

「改めまして、『誕生日おめでとう!』」

 皆の祝福に、亜生はたまらず涙ぐむ。

「みんな、ありがとう。本当にありがとう」

「それじゃあ、みんな、プレゼント出して」

 櫂がそう言うと、彼を筆頭ひっとうに、恵、美里、昭良がテーブルの下から各々おのおの取り出した。

 彼らは一人一つずつ、紙袋や包み紙を亜生に手渡していく。

「あの……、こんなに……」

 戸惑いと嬉しさが混ざり合って、亜生は上手く感謝を表せない。

 亜生のその反応に、皆の表情が緩む。

「まだまだ祝うからな! 誕生日はまだこれからだ」

 櫂が亜生の肩を軽く叩くと、皆がうなずいた。

「嬉しいな……。ありがとう、みんな……」

 彼らの様子に、亜生は心からの笑みが零れる。

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