第26話 ミックは紫苑

 傘を忘れたので、アレクは小走りに駅前を過ぎていった。井の頭線の高架下をくぐり、信号を渡って家路につく。

 途中、角を曲がると、


「あ」


 少女の声がした。先刻、電話で聞いたばかりの。

 私服姿の紫苑が、傘をさして立っていた。

 ベージュのダッフルコートを羽織り、首にはタータンチェックの赤いマフラーを巻いて、足下はベージュのニーハイのブーツ、黒ジーンズのスキニーパンツを履いている。露出を避け、防寒とおしゃれの両立を目指している格好だった。だが左手に握っている傘は青地に白い水玉模様で、女子高生にしては子供じみたものだとアレクは思った。

 紫苑が顔を上げて、傘に隠れてた視線をアレクのサングラスに向ける。穏やかさと好奇心を併せた丸い両目が明らかになった。雨の中、吐く息は白い。


「待ってるんじゃなかったのか?」

「傘、持ってないと思って。はい」


 紫苑は、右手に持っていた黒い傘をアレクに渡した。


「四月なのに、マフラーなんて要らないだろ」

「要ります。私が寒いから、コートも、ブーツも要るの」

「寒い、か」


 筋肉が熱をもたらすので、アレクは寒くなかった。


「はい……」


 菊本可奈の言葉が移ったのだろうか。木端微塵になる前の可奈は、よく「寒い」と言っていた。降り始めた雨は、すぐには止みそうにない。

 刹那、アレクは何かが迫るのを感じた。


「危ないッ!」


 アレクは紫苑を庇うために前に出て、受けの構えをした。鈍痛がアレクの腕に走る。アレクの正面に、制服姿の女がいた。彼女は、ポニーテールを大きく揺らして、トンファーを叩き付けていた。トンファーを握ったアレクは、動じない。


「妃……沙耶か」

「これを受けるなんて、あんた何者?」

「ただの何でも屋だ」

「冗談っ」


 沙耶はアレクの横腹を目がけて、もう片方のトンファーを振り回した。

 アレクは、これも難なく掴む。

 しかし沙耶は、瞬時に両手をトンファーから放して、アレクの骨盤辺りに抱き着いた。沙耶の首がアレクの股に入り込み、紫苑が目を瞬く間に、沙耶は両足を蹴り上げて身を反らせた。

 沙耶の細長い両足が、アレクの首を挟む。

 アレクの股から首を外した沙耶は、素早く上体を起こした。

 沙耶の眼下にアレクの頭がある。

 股がアレクの顎に押し付けられた。

 

 ――まずい。

 

 アレクはトンファーを手放して沙耶の足をどかそうとした。


「このォ!」


 沙耶は間髪を入れず、体を反らせて地面に落とした。沙耶の両手がアスファルトに付くと、その股を支点にしてアレクの首が引っ張られ、巨体がぐるりと前転した。丸太のような足が浮き、天変地異の浮遊感を味わった刹那、アレクの首から沙耶の脚が離れ、その巨体が宙を舞った。そして、アレクの後頭部が打ち付けられた。

 アレクが倒れ、地面が揺れた。彼は死んだように動かない。沙耶はうつ伏せの体勢から起き上がった。


「アレク! ……沙耶、どうして!」

「あたしはまだ、この男を信用してない」


 紫苑は、沙耶が掛けた技を知っていた。ヘッドシザースホイップと言って、プロレスなどで見られるものだった。だがプロレスの場合、技を掛ける人は、投げる途中で組んだ脚を外さない。

 それに紫苑がその技を知っていたのは、プロレスファンだったからではない。


「紫苑。いえ……ミック。あなたに教わったこの技で、あたしはこの男を倒した。プランテッドになったあたしの居場所は、あなたの隣だった。由紀子に処分されるはずだったあたしを、あなたは意志ある戦士に育ててくれた。紫苑が知らなくても、これはあなたの身体が行った事実よ」


 紫苑は首を横に振ろうとしたが、やめた。ミックを否定しようにも、あまりにも実感が勝っている。


「でも……。ううん、そうなんだろうね。沙耶の言ってきたこと、今の私なら信じられる。私の中に、知らない私がいる」


 紫苑の脳裏に、殺人鬼と化した菊本可奈との戦いが過った。可奈が高度からの跳び蹴りを掛けてきた直後、意識は飛び、意識が戻ったと思えば菊本可奈は負けていた。その前に接触したときが二回あったが、そのときはアレクが助けてくれた。

 そして、そのもう一人の自分は短時間で徐々に顕在化している。

 寄道由紀子に罵声を飛ばし、そして、沙耶が掛けた技を知っていた。なぜなら、かつての自分が教えたから。いまや上塗りするようにその時の記憶が思い起される。


 沙耶の背後でアレクが動き出した。


「こいつ……化け物ッ!」


 沙耶は、咄嗟に振り向いて起き上がる前のアレクを蹴ろうとした。しかし、紫苑が沙耶の肩を掴んで制止させた。


「待って、沙耶」


 アレクがゆっくりと立ち上がる。紫苑は気を強くした面持ちで、胸に手を当てた。


「紫苑……?」


 アレクはそう言って、紫苑の両肩を掴んだ。紫苑は首を横に振った。


「ごめん、アレク。私はミック。オートメイドの自警団をまとめる戦闘員のひとりなの」

「紫苑。君はオートメイドじゃない。人間だ」


 紫苑は眉をひそめ、ワンピースの裾をたくし上げた。露出した膝小僧を指さして、アレクに見せる。擦り剝いたミックの膝は、きらりと光っていた。


「私の膝、カサブタが出来ないんだ。理由は、わかる?」


 紫苑の繊細な耳は、彼の鼻息が苛立たしく漏れるのを拾った。


「……俺も由紀子に聞きたいことがある。あいつに会いたいって事なら、目的は一緒だと思わないか?」

「そうかもしれない。ね、アレクは知ってる? 〈粉砕者〉が何のために虐殺を犯し、〈赤線〉を興したのか」

「テロリズムだ。過激な思想の果てに人を殺し、世を正そうとしたんだろう」


 ミックは頷いた。


「そう。彼はテロを興した。その根幹には思想があるのよ。染井正化の思想がね」


 ミックは、辺りを見回した。


「……待った」


 ミックは、瞳を閉じて耳を澄ませた。アレクの荒い息、ミィちゃんの呼吸、沙耶の昂揚感。それらと違う、寄道由紀子の張り詰めた気配が、どこかに感じられる。ミックは一人、寝室のドアを開けた。

 逃げた害虫を探すように、ミックの黒い瞳はベッドの周りを隈なく確かめた。いないようだ。 

 リビングに戻った。開かれたままの玄関ドアから、籠った雨音が続いている。ミィちゃんが外に出ていた。雨嫌いの猫が敢えて外に出るなど、不自然に過ぎる。


「由紀子……!?」


 ミックは、階段を降りるミィちゃんを追った。


「紫苑!」


 そのアレクの引き留める声も聞かず、ミックはミィちゃんを追った。


「ミック!」


 と叫ぶや、沙耶は紫苑を追いかけた。アレクも傘を持って追随する。雨脚の強まった通りに出ると、アレクの十五メートルほど先に、由紀子がミィちゃんを抱えて立っていた。紫苑は由紀子と向き合い、拳を構えた。

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