第14話 殺人鬼、再び

 ※


 折笠紫苑は、昼の繁華街を走り回っていた。眠るように静かだ。


 嫌に冴えた耳を澄ませて、ミィちゃんを呼ぶ菊本可奈の声を探った。学校を抜け出してから、風に運ばれた可奈の言葉が聞こえなくなっていた。嫌な予感がした。


 走る。走る。こちらに向けられる人々の視線などどうでもいい。学校など行くべきではなかった。目の前の友達を助けてあげればよかった。一緒に探してあげれば良かった。


 今からでもいい。


 可奈と合流して、一緒にミィちゃんを探そう。


 紫苑はお腹が空いていた。可奈もお腹が空いているだろう。紫苑は昨夜、トイレでカレーライスを吐いた。胃が受け付けなかったのだ。まるで、ちゃんとしたご飯が久しぶりであるかのように。ばててしまっても、脚は止めたくなかった。


 走り続ける。胸の鼓動が早くなる。重い両足を上げていく。焦りが、額に冷や汗を滲ませる。昂揚はない。焦りと寂寥が胸奥に迫り続けて、息が苦しくなる。


 耳朶の風切り音が止んだ。紫苑は駅前ロータリーの信号で立ち止まった。肩で息をして、手を膝に置きながら辺りを見回した。右を見て、左を見て、正面――横断歩道の先を見た。


――あれは……?


 紫苑は目を細めた。信号待ちのパステルカラーのファッションに紛れて、良く目立つ色。高貴なる菊花よりも子どもらしい、イエローのフード付きパーカー。その姿を紫苑は覚えている。殺人オートメイドだ。


 逃げよう。アレクさんに連絡しよう。無意識にスカートのポケットに手を入れて、スマホが無いことを思い出す。


 『故郷の空』の長閑な電子音楽が流れ出した。有象無象の人影に合わせて、殺人オートメイドがこちらに迫る。紫苑は後退りして、高架下へと走りだした。振り向いたら、殺人オートメイドが走ってきた。


「どうしてっ、私に来るの!」


 振り切ろうと、三回角を曲がった。狭い路地に辿り着き、再度振り向いた。殺人オートメイドはいない。紫苑の真上で何かが風を切る音がした。カラスだろうか。


「逃げ切れた……?」


 紫苑は一息ついて、前を向き直した。が。

 視界が黄色で埋まった。殺人オートメイドが、目の前で紫苑の袖をつまんでいた。


「うわあああ!?」


 殺人オートメイドの腕を振り切って、紫苑は退いた。オートメイドは間髪を入れずに飛びかかってくる。その右手に、ナイフが光った。


 一振り、刃が迫る。


 紫苑は目をつぶり、マンホールの段差に足を引っ掛けて、仰向けに転んだ。


 殺人オートメイドのナイフは空振りに終わった。しかし紫苑が目を開けると、殺人オートメイドは紫苑の上に跨っていた。その目は、フードに隠れて見えない。右手のナイフをくるりと回して逆手に握り、既に振り下ろす体制になっている。


 その口元が、ごちそうを前にした子供のように笑っていた。


 ……昨日と同じだ。今度こそ殺される。


 刃は今まさに、胸めがけて振り下ろされた。

 紫苑は叫んだ。


「人殺し! 兄さんをよくもっ――」


 痛みを覚悟する。


 二秒、三秒。


 紫苑の、腹上の重みが消えた。


 恐る恐る目を開ける。紫苑のスカートの横に、ナイフが落ちた。


「あっ……」


 殺人オートメイドが、五十センチばかり宙に浮いていた。


 いや、持ち上げられたのだ。右腕を吊られた殺人オートメイドは、両足をジタバタしていた。殺人オートメイドの後ろには、重機のように屹立する巨体の影。


 ――アレクが、殺人オートメイドの腕を掴んでいた。


地面から見上げるアレクは、大木や巨神のような威圧すら感じられる。


「捕まえたぞ、殺人鬼」

「……!」


 殺人オートメイドは、声をあげずに抵抗する。アレクは、オートメイドの腕を潰さんばかりに握った。オートメイドの右手は力なく開いたまま震えている。アレクは、殺人オートメイドのフードを掴んだ。


 その時だった。オートメイドは、吊られた右腕を軸にして身体を反転させたのだ。一八〇度回った肘と肩の関節は、外れたに違いない。人間なら激痛が走るだろうに、オートメイドは回転の勢いのまま、蹴りを鋭く繰り出した。


 だが、アレクは空いた手で難なく受け止めた。傍目には、ターミネーターに抗う子供の図である。


 アレクはゆっくりと左拳を作り、オートメイドの顔面を突いた。一発。二発。紫苑には分からないが、顎骨や鼻筋が折れたに違いない。身を縮こませたオートメイドは、サンドバッグのようにゆらゆらと揺れた。


 三発目のパンチが飛ぶとき、オートメイドは、再度身を翻して背中で受けた。そのまま、スケートのスピンのように身体を何回も回した。関節はめちゃくちゃのはずだ。しかしオートメイドは迷いなく、両足でアレクの腹を蹴った。

 

 アレクは岩壁の如く揺るがなかったが、オートメイドの右肘はついに千切れた。

 オートメイドは体操選手のように紫苑の頭上を越えて跳び、一目散に逃げ出した。


「逃がすか!」


 アレクは、オートメイドの右腕を投げ捨てて走ろうとした。


「アレクさんっ!」

「紫苑! ミィちゃんを頼む!」


「え!?」

「見つかったんだ! 家に置いとけ!」


 そう言うと、アレクは巨体をダイナミックに揺らして行ってしまった。


「……ミィちゃん?」


 紫苑が身を起こすと、傍らに茶トラの猫がいた。

 左前脚の無い猫は、地面に落ちた殺人オートメイドの右腕を舐めている。紫苑はその柔らかな毛並みを撫でて、抱き上げた。 


 右腕の断面は、怖くて見れなかった。

 何か赤い液が漏れているのが、視界の隅に入った。


 ゆっくり立ち上がると、アレクが戻ってきた。


「くそっ。逃がした。怪我は無いか? 紫苑」

「私は大丈夫。アレクは? 蹴られたでしょ」


「なあに。丈夫が取り柄だ」


 アレクは腹を叩いてみせた。六つに割れた腹筋が、タイトなシャツ越しに分かる。


「流石、鉄腕代理人」

「……アイツは逃がしたがな」


 アレクは悔しそうに、オートメイドの右腕を拾った。サングラスの下は、どんな目をしているのだろう。


「ん……。人間そのものに見えるな。ほれ」


 アレクは、紫苑の鼻先に右腕を突き出した。


「うわあああっ!」


 紫苑は尻餅をついた。


「悪い悪い。ところで紫苑、学校はどうした」


 立ち上がった紫苑は、スカートをはたきながら眉をひそめた。大きくため息をして、


「もう行かない。ねえアレク聞いてよ……」


 と漏らして、ミィちゃんを撫で続けた。ミィちゃんに逃げる様子はない。


「そうか。記憶喪失も辛いな?」

「まあね」


「とりあえず帰るか。昼飯、まだだろ?」

「うん。私、また作るよ。可奈ちゃんにも連絡しないとね。可奈ちゃん、今日くるかな……」


 紫苑は、可奈の住所を訊き忘れたな、と思った。

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